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駅まで続く坂道

 視界を遮る雨粒の向こうに、一点だけ、鮮やかなコバルトブルーが揺れています。その色を見ただけで、私の心臓は少しだけ速いリズムを刻み始めます。

「あの人……」

 あんなに遠くにいるのに、人混みに紛れていてもすぐに分かってしまう。あの傘の色は、彼、翔先輩いいえ近所の幼馴染のあいつ。高校に入ったばかりの校門ちかくで、すれ違った彼の傘。すぐにわかったけど気恥ずかしくて無視したあの日。

 おさななじみの「あいつ」彼との記憶は、泥だらけの思い出ばかりです。小学校の頃の私は、フリルやリボンなんて大嫌いで、いつも汚れてもいいズボンを履いて男の子と走り回っていました。そんな私に、彼はいつも「おい、また転んだのかよ」と生意気な口を叩く、ただの「おさななじみ」でした。

 一度だけ、親戚の結婚式のために無理やりスカートを履かされた日がありました。気恥ずかしさと落ち着かなさで、駅の隅に隠れていた私を見つけるなり、彼は指を差して笑ったのです。

 「なんだよお前、似合わねーな!そのスカート!」

 あの時の悔しさと恥ずかしさ。私は泣きながら、彼の脛を思い切り蹴飛ばしました。あれから数年。彼は今、高校の野球部で一躍エースとして、全校生徒が注目するスターになりました。

 銀の雫と、変われない私、今の彼は、眩しすぎた。背は伸び、肩幅は広くなり、練習で日焼けした横顔は、かつての生意気な少年ではありません。反対に、私はといえば……。

 今日も、勇気を出して履いてきた膝丈のスカートが、湿った空気のせいで足にまとわりついています。

「似合わない」と言われたあの日の言葉が、雨音に混じって耳の奥でリフレインします。

「……気づくわけ、ないよね」

 坂道を上る彼の背中に、そっと呟きました。雨だれが「ぽつん」と私の傘を叩きます。寂しさが一粒、銀色の雫になって頬を伝いました。

 駅の改札が近づいたその時、ふいにコバルトブルーの傘が止まりました。彼はゆっくりと振り返り、私の姿を捉えます。私は慌てて視線を足元に落としました。

 「……おい、お前」

 懐かしい、少し低くなった声が降ってきます。逃げ出したい気持ちを抑えて顔を上げると、そこには驚いたような、それでいてどこか照れくさそうな彼の顔がありました。

「その……今日の格好」

「……似合わない、でしょ。わかってるから」

私が食い気味に言い返すと、彼は少しだけ傘を傾けて、私を雨から守るように近づいてきました。

「バカ、最後まで言わせろよ。……似合ってるじゃん。あの日より、ずっと」

 彼のコバルトブルーの傘に、私のピンクの傘が重なりました。雨音はまだ止まないけれど、私の心の中には、雲の隙間から差し込むような温かい光が満ちていきました。

 淡い恋の物語は、この長い坂道から、また新しく動き出そうとしています。駅の改札前、コバルトブルーの傘が私のすぐ隣で止まっています。

「あ、あの日曜日なのに……練習、いいの?」

上ずった声を必死に抑えて尋ねると、先輩、そう今はガキ仲間でなくて「先輩」。彼は少しだけバツが悪そうに、首の後ろを掻きました。

「今日、午前中で切り上げ。……っていうか、この雨だしな」

 そう言って笑う彼の横顔を、こんなに近くで見るのはいつ以来だろう。駅の向こう側、古いビルに掲げられた「整形外科」の看板が、雨に霞んでぼんやりと見えました。

「先輩、どこか……」

「ん? ああ、ちょっと用事があって」

 彼は軽くそう言ったけれど、なんか楽しい用事でないことは感じた。胸の奥がまた少しチクリと痛みます。

 友達との待ち合わせ時間はもうすぐ。でも、今の私は最低です。

「ごめん、遅れる!」というメッセージがスマホに届くのを、これほどまでに願ったことはありません。

「お前は? 誰か待ってんの?」

「……うん、友達と。でも、まだ来ないみたい」

嘘ではないけれど、本当でもない言葉。

 駅の雑踏も、激しくなる雨の音も、今は遠くのBGMのようにしか聞こえません。コバルトブルーの傘の下、ほんの数十センチの距離に彼がいる。その事実だけで、スカートの裾を気にする余裕すらなくなっていました。言えない

「がんばれ」

「……あ、バス来た。じゃあな」

 彼は短く手を挙げると、再び雨の中へ踏み出そうとしました。

駅の反対側へ向かう、その後ろ姿。

(行かないで)

 喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込みました。おさななじみの私たちが、高校の先輩と後輩になって。「似合ってる」と言ってくれた彼に、今の私はどんな言葉を返せばいい?

「先輩!」

思わず呼び止めると、彼は傘を少し持ち上げて振り返りました。

「……お大事に。明日の練習、晴れるといいですね」

 精一杯の、でも一番無難な言葉。彼は一瞬驚いたように目を見開き、それから「……おう、サンキュ」と、あの頃と同じ少年のような、いたずらっぽい笑顔を見せました。

 コバルトブルーの傘が人混みに消えていく。それと入れ違いに、遠くから私を呼ぶ友達の声が聞こえました。銀色の雫に濡れた坂道は、さっきよりも少しだけ、明るく見えていました。

 友達の「お待たせー!」という声がして、私はハッと我に返りました。あぶなかった。あと数十秒早く彼女が着いていたら、学校中の女子が憧れる「野球部のエース」と、地味な私がおさななじみとして親しげに話しているところを見られてしまうところでした。「あいつ」と知り合いだなんて、絶対にバレたくない。だって、今の彼は遠すぎる存在だから。

「幼なじみなんだ」なんて口にした瞬間、周囲の好奇心や嫉妬に晒されるのは目に見えています。

 思い出すのは、あの春の日のスタンド友達と歩き出しながらも、私の意識は、駅の反対側にある「整形外科」の看板の方へと吸い寄せられていました。野球なんて、ルールすらよく知らない。興味もなかったはずなのに、あの春の大会――。全校生徒が応援に動員されたあの日、スタンドの端っこで見た光景が、鮮明に蘇ります。

 マウンドに立つ彼は、私が知っている「いじめてきたあいつ」ではありませんでした。土埃にまみれ、鋭い視線でバッターを睨み据えるその姿。一球投げるたびに、地鳴りのような歓声が上がる。高校生離れの直球が、キャッチャーミットに突き刺さる音。その瞬間、胸の奥がギュッとなったのを覚えています。

 みんなが「かっこいい!」と騒ぐ中、私だけは、彼がマウンドで独り、どれほどの重圧を背負っているのかを考えていました。隠した想いと、雨の匂い

「ねえ、聞いてる?」友達に肩を叩かれ、私は慌てて「ごめん、何だっけ?」と誤魔化します。整形外科へ向かった彼の足取りは、心なしかいつもより重かった気がします。

 春の大会で一躍スターになり、無理をしていないはずがありません。「野球なんて興味ない」そう自分に言い聞かせながらも、私のカバンの中には、昨日こっそり買った野球雑誌の増刊号が隠されています。表紙には、泥だらけで笑う彼の写真。

 スカートを履いた私に「似合ってる」と言った、あの優しい声。でも、明日学校へ行けば、また私は「ただの後輩」

を演じるのでしょう。降り続く雨の中、駅の反対側へと消えたコバルトブルーの残像が、いつまでも私の瞳の裏に焼き付いて離れませんでした。

 あっ、ライン聞くの忘れた・・・うんうん彼の回りは女の子だらけ、私なんか・・・



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