#1 我が子孫
現在――
ともすればそれは、中からは、地元のガキがフェンスに張り付いて見えた。外から見ても、もちろんそうで、小学5年生の三太がフェンスにしがみついて、離陸する飛行機を眺めていた。
東京、福生市にある米空軍横田基地から、一機の大型軍用輸送機が、雲ひとつ無い快晴の空に飛び立とうとしていた。
明後日はクリスマス。恐らく輸送機には、ここを拠点にしてアジアの各地にある米軍基地に住む軍人、職員の子供達に贈られるクリスマスカード、プレゼント等を積まれているのだろう。ちょっとしたトナカイの雪車だ。中身なんかに興味は無いが、同じ型の輸送機がひっきりなしに離陸したり着陸する度に、三太は興奮した。彼は単純に空に飛び立つ飛行機を、先程からの長い時間、憧れの目で眺めていた。
ジェット・エンジンのハイピッチな轟音が三太の鼓膜を揺らせて、彼の皮膚に鳥肌を立てた。それが空に消えていく頃、三太の耳にもうひとつの別の音が聞こえた。後ろから自分を呼ぶ声に、彼はやっと気が付いて、声の主も最初にそれを警告した。
「もう、さっきから何度も呼んでいるんだよ」――同級生、にしては多分に三太より背が高く、大人びた洋子が、少しふて腐れた顔で、相手がやっと振り返るのを待ってそう言った。
「だって聴こえなかったんだもん。それに、今日の朝は凄いんだ。いつもより離着陸が激しいんだよ。輸送機じゃない奴も飛んでいったし……。ひょっとしたら、何かあったんじゃないかな?」
「何かあったらニュースでやるでしょ。早く行こうよ」
また、あちらから轟音が聴こえてきた。三太はフェンスに顔を戻した。やはり同型の大型輸送機で、今度は着陸しようとしている。次第に大きくなりながら向かってくる機影に、三太はまた興奮した。
「もう、先に行っちゃうよ」
三太を置き去りにし、洋子は場を後にした。
彼女の行動に気が付くと、慌ててフェンスから離れ、三太は後を追った。名残惜しそうに、もう一度だけ振り返ると、フェンス越しの木の枝に、自分と同じ名前の人形――恐らく兵士が飾り付けたのであろう――サンタクロースがぶら下がっていた。そうか、クリスマスなんだ。……三太はやっと、その事に気が付いた。それにも気が付かず、彼の心は滑走を繰り返す鉄の翼に奪われていた。
爆音に重なり、サイレンが聴こえてきた。一台の救急車が数台のジープを連れて、滑走路へ向かって行く。今まさに着陸態勢に入っている輸送機を迎える様に――。
「ほら、やっぱり何かあったんだよ」
三太は洋子を呼び止めようとしたが、彼女が立ち止まる気配は無かった。後ろ髪を引かれつつも、三太は仕方なさそうに彼女の後を追った。
彼等が居なくなる頃、輸送機はやっと車輪を地面に着け、暫く滑走路を走った後、長い間零度以下の極寒の大気に曝されていた翼を休めるかの如く、停止した。
やや遅れて救急車と軍用ジープが到着し、輸送機の周りを囲み、ジープからはM16ライフルを担いだ兵士が数人、ものものしく降りてきた。
兵士達は、すぐさまライフルを構え、一斉にタラップに銃口を向けた。
一番若い兵士の、引き金にかけた指が震えていた。
それを見た先輩兵士が忠告した。
「引き金に指をかけるなよ。弾が飛び出たらどうするんだ?」
若い兵士は緊張した顔で一瞬こちらを見て、引き金から指を離すと、顔をタラップに戻した。
様子を伺っていた先輩兵士は、くすりと笑った。
「まるで、明日にでも世界が終わっちまう、って顔だぜ」
予告も無しに、突然、タラップが降り始めた。先端が地面に着くよりも早く、隙間から頭が飛び出してきた。これには流石の先輩兵士も驚いたらしく、身体を大きく痙攣させ、引き金に指をかけた。
飛び出した乗務員の頭が、滑走路に向けて、胃の内容物を吐き出した。タラップの先端が地面に着くと、別のもう一人が駆け出してきて、向けられた銃口など構わずに、地面に手を着いて同様に吐いた。
顔を顰めながら兵士の一人が、なるべく匂いを嗅がない様に、歪めた顔を少しだけ近付けて訊ねた。
「そんなに揺れたのかい?」
「く、空軍に、入って……じゅ、十年になるが……あ、あんな、乱気流は……初めてだ……」
「よく墜ちなかったな」
「……パイロットの、う、腕が、良くて……助かったんだ」
すると先に降りた彼等と明らかに違う風貌の男が、タラップを颯爽と降りてきた。ウイスキーの瓶の底でも張り付けているのだろうか、どんな大きな目でも小粒になる分厚い眼鏡、鼻の頭は真っ赤に染まり、パイロットスーツは着ているが信じられないくらいヤサ男で、胸の記章には一応翼が舞っているが、米空軍の物では無かった。見たこともない記章のすぐ下には、階級と名字が刺繍してあったが、兵士達は目もくれずに、明らかに怪し気な彼に向けて、一斉に銃を構え直した。
「こいつだ!」
「間違いない、こいつが〝ケニー・ニコル〟だ!」
一瞬では数え切れない程の銃口を向けられ、男は驚いて踏み留まり、慌てて自分の本名が記されている胸元を指差した。
「ち、違う、……そいつは〝ケニー・ニコル〟じゃない」未だ地面で吐く乗務員が割って、助け船を出した。「そいつは……さ、さっき言った、パイロットだ」
兵士達には、男が、とてもパイロットには見えなかったが、何とか疑いの目を拭いつつ、男の指差す胸元を見た。そこには英語で〝Lt.Rudolf〟と刺繍されている――成る程、決してそうは見えないが、彼はパイロットで、『ルドルフ中尉』か。名前からしてドイツ人……もしくは、ドイツ系なんだろう、と、兵士達は各々、考えた結果を小声で発し、銃を構えつつ頷いた。――その実、ルドルフはルドルフと読んだが、決してドイツ系ではなく、家系にドイツ人はひとりも居ない。更に付け加えれば、階級も『中尉』ではなく、士官として最低の『少尉』だった。
事実を誰も疑わず、咎めない姿勢は、明らかに此処が米軍施設なのだと、ルドルフも納得して、彼等兵士がお目当てとしている人物の居場所を伝えようと、後ろを指差した。
「彼はグッスリと寝ているよ。誰か担架を中に入れて運び出してくれ」
寝ている――の一言が安心を呼んだのか、兵士達はやっとすべての緊張を解し、銃を降ろすと一斉に溜息を吐いた。その隙間を縫って、待ち構えていた衛生兵が担架を担いでタラップへと急いだ。ルドルフと擦れ違いながら、階段を駆け上って中に入っていった。
ルドルフは地面に足を着け、辺りを眺めて、その赤い鼻を震わせた。
「ここが日本か。……変だな、ゲロの匂いしかしない」
やがて、軍籍なのだろうか、何の記章も付けていないカーキ色のコートに身を包まれた大柄な――しかし決して太っては無く――身長だけが二メートルを超えた男が担架で運び出され、外気を浴びた。コートの隙間から見える服はボロボロで、顔の下半分は栗毛色の無精髭で埋まっており、目は閉じられたままだった。まるでどこかで遭難して何日も眠っていた様な、そんな雰囲気を、彼を見た誰もが感じた。
兵士の一人が呟いた。
「これがケニー・ニコルか、緊張して損した」
大柄なニコルの体重を両手に受けて、担架を支える兵士の両腕が震えていた。タラップを一歩一歩、確実に降りてきたが、訓練で鍛えたとはいえ、前方の兵士は既に限界で、地面に足を着くと手を滑らせ、担架は斜めになった。兵士が振り返るより早く、ニコルの頭は地面に滑り落ち、雨が過ぎ去った後の水溜まりみたく溜まった嘔吐物に突っ込んだ。落としてしまった兵士は責任を感じるより、弾け飛ぶ嘔吐物の滴を避けるのに必死だった。
「おい、何やってんだ! 基地司令官お達しの〝最重要人物〟なんだぞ!」
別の兵士が慌ててニコルに近付き、彼を起こそうとした。周りの兵士は手も貸さず、顔を顰めて言った。
「最重要人物が、ゲロまみれだ」
ルドルフは鼻を震わせた。――が、ニコルを気にもせず、初めて来た国の遠くに広がる山々を涼しげに眺めていた。