#0 『文章』
むかし、むかしのお話――
その猟人でもある老人は生まれつき目が悪く、この歳になると殆ど目が見えなくなっていた。だから昔から猟には余り出ず、また出たとしても、いつも雪車を牽かせている犬達に獲物を捕ってきて貰う始末だった。
北欧の雪深い場所の話で、大抵の人間が鼻や頬をいつも真っ赤にしていたが、老人の鼻は特に赤く、いつも鼻が詰まるといった病を患っていた。だが不思議な事に、匂いが解らないくせに物の香りを言い当てたり、目が見えないくせに、どんな悪条件の吹雪に出会っても道に迷わずにいた。
今日も老人は、普通の人間なら一歩も進めないであろう大荒れの吹雪の中を、犬達に雪車を牽かせて走っていた。大きな雪の粒が進めば進むほど老人の頬を突き刺したが、彼は犬達を休ませる事なく、先へ先へと進んだ。何か急いでいる気配で、何かといえば犬達に叫び、雪車を急がせていた。もっとも、犬達に老人の声は聴こえてはいなかった。声など掻き消してしまうほどの向かい風が、犬達の耳と老人の口の間を遮っていた。それ程、今日は酷い吹雪だった。しかし老人と犬達が休む事は無かった。次に彼等が休んだのは、暫くして老人が、その真っ赤な鼻を震わせた時だった。まるで目的の場所の匂いを嗅ぎ取ったかの様に、老人は鼻を震わせて、犬達を止めた。
目の前には一軒の小屋があった。目の前といってもこの吹雪の中では、幾ら顔の先にあったとしても、はっきりとそれを見る事は出来なかったが、元々目の悪い老人には関係が無かった。老人は雪車を降り、鼻を震わせながら、小屋の入り口まで辿り着くと、強い風に負けないくらいの力強さで、扉を何度も何度も叩いた。
やっと気が付いたのか、扉が軋みながら中から開けられた。そこには若い男が立っていた。男は老人の姿を見ると、緊張していた顔をほぐし、安堵の表情をみせた。
「来てくれたのか? この吹雪の中を。大変だったろう?」
老人は鼻を震わせてから、答えた。
「貴方様のお言い付けなら、どんな天気だろうと、何処へでも駆け付けますとも」
男はにっこりと笑って、老人を小屋の中へと招き入れた。
暖かい、もうもうと燃える暖炉の火で、老人の髭に着いていた氷の粒が溶け出すと、彼の顔は汗まみれの如く濡れた。同時に老人も、寒さにやられまいと引き締めていた皮膚を緩くした。老人の顔に表情が戻ると、彼は相変わらず鼻を震わせた。
暖炉の前には机があった。その上には、何やら数字や文字が書き連ねてある大量の紙が無造作に置いてあった。そして、真鍮で出来た計測器が数種類、中には星の位置を確かめる物まであった。
老人はインクの匂いに鼻を震わせて言った。
「まるで物書きか学者ですな。これからは錬金術でも始めるおつもりで?」
「その方がまだ良かった。あれは金になりそうだ」
「不謹慎な。お父上がお聴きになったら、さぞやお嘆きになりますぞ」
「墓の下では聞き耳も立つまい。涙だって、とうに枯れているさ。だからといって、あえて言う訳では無いが、私だって僧侶になるつもりはなかった。父や、祖父、そのまた昔の祖先が、こんな物さえ残さなければ……」
男は一枚の、手の平で納まる程度の真四角に切られた紙切れを、胸から取り出した。それは机の上にある紙よりも古く、端が所々破れて欠落し、表には沢山の細かい文字が書かれていた。
「まったくもって、勝手なものだ。私に混じった、母から受け継ぐ余所の土地の血を、さんざ疎んで来た癖に、いざ家系が途絶えそうになるやいなや、一族の後継と崇め立てる。……母の件など、まったくもって、父の勝手ではないか。それすらも、継いだ以上は、立場故に咎めも許されぬ。すべてを押し忍んだ挙げ句に託されたのが、こんな薄汚れた紙切れ一枚。――いやはや、僧侶なぞ、なるもんじゃ無いな」
「仕方がありませんな。それが貴方様の宿命。――私の家系は生涯、貴方様の家に仕える事。それと同じ様に、貴方様の家系は、その『文章』の中身が解けるまで、その紙切れを守る事。お父上も、そのまた昔のご先祖様も、代々法王様から授かってきた大切な命です。――私共の一生は、私共が生まれる遥か昔から既に決められていたのですよ」
「〝解けるまで〟……か」男は鼻から息を漏らし、一回だけ笑った。顔には喜びとも悲しみともとれる表情が浮かんでいた。「解けなければ、我が息子も、そのまた孫も、私と同じに退屈な日々を暮らすだろう。だが、その日々は平穏だ。ならば、それも良しだな」
「その通りです。人の一生なんて、むしろ周りの人間や死んでしまった肉親、そしてこれから生まれてくる者の為に、決まっている事が多いのですよ」
「まったくだ。いやむしろ、その方が良かった。まったく解けずに、これからも退屈な日々の方が……」
「今、何とおっしゃいました?」
少しだけ間が空くと、男は紙切れを翳して答えた。
「実はな、解けたんだ。今朝、早くに……」
男はそう言うと、そのまま床に崩れ落ちた。慌てて、目の悪いはずの老人が鼻だけを震わせ、男に駆け寄った。
「それで、今日、お呼びになったのですね。……し、しかし、いったい、どうなさったのです!?」老人が男の身体を揺すっても、男はただ泣くばかりで答えなかった。「ほ、法王に、……法王様に、お伝えしなければ!」
老人は立ち上がり、場を離れようとした。早くここを出て、犬達の待つ雪車へ――それこそが今やるべき自分の使命と感じ、たとえ目の前の主人である男が倒れようとも、唯一優先させるべき事と思った。
すると男の手が老人の腕を掴み、制止した。
「知らせてはならない。決して、法王には……」
「何故? 貴方様の家系は代々、あの文章を解く為だけに、何百年の昔から法王様にお仕えしていたのですよ。それが今、ようやく解けたのなら、お知らせせねば……」
「あれは……〝悪魔〟が書いたんだ!」
老人は動かなくなった。男の手は相変わらず老人の腕を掴んでいたが、もしそれが離れても、老人は動かなかった。
「何をおっしゃいます。どうかお気を確かに……」
「正気さ! むしろ今なら、狂っている方がどんなに幸せか! 偶然だった。偶然、今までのやり方……先人達のやり方を変えて解こうとしたんだ。今朝、偶然思いついて……。そうしたら、今までの苦労など無駄に思えるくらい、いとも簡単に解けてしまったんだ! これも〝悪魔〟の導きに違いない!」
「そ、そんな……。あれは誰が書いたのかも、解らないはずでは……」
「そうさ。しかし解けて内容を読んだ瞬間、私は感じた。とても人間、いや、神の所業としても書ける物ではない! あの書は……〝悪魔の書〟だ!」
「いったい、何が書かれていたのです?」
老人は緊張し、唾を飲み、男に訊いた。
男は叫ぶのを止め、ただ呟くばかりだった。
「あれを手にした者は、この世のすべてを見渡す事が出来る。手にした者が、この世を支配出来る。決して一人の人間の手に渡してはならない。たとえ、それが法王であっても……」
時間が経ち、暖炉にそろそろ新しい薪をくべなければならない頃、老人は外で雪車を用意し、男を待った。しばらくして旅支度を終えた男が小屋から出てきた。
吹雪はいっそう強くなり、男が小屋の扉を閉める前に小屋の中に風が入り、暖炉の火を消した。書き留めた紙の束が部屋の中を舞い、床を散らかしたが男は気にも留めず、老人の元へ歩み寄り、雪車に乗った。
「さぁ、行こう」
「よろしいのですか? 行方が解らなくなれば、法王様に仕える者共が、きっと貴方様を追いますぞ」
「当然だな。しかし今まで何百年も、我が家系はこの『文章』を守り続けてきた。それはこれからも同じ事。これから生まれてくる我が子孫にも、同じ――いや、それ以上の苦労かも知れないが、例え茨の道とて、すべて我が血で、我が家系がなそう。例えそれが法王に刃向かう結果になったとしても……」
男は『文章』を入れた袋を腰にぶら下げ、一度撫でると正面を見据えた。強風が雪の粒を運び、棘よりも鋭く、顔を突き刺した。雪車が走り出せば、痛みは尚、増すだろう。
真っ白で何も見えなくなった先の風景を眺めながら、男は老人に言った。
「だが、お前は関係が無い。お前は私の、こんな馬鹿げた思い付きに付き合う必要など無いのだぞ」
老人は黙って赤い鼻を震わせ、犬達に合図をした。雪車が走り出すと、また鼻を震わせ、強風に声を掻き消されるのもお構いなしに、男に向けて呟いた。
「仕方がありませんな。それが私の宿命。――貴方様の家系は、その『文章』を守る事。私の家系は生涯、貴方様の家に仕える事。――私共の一生は、私どもが生まれる遥か昔から既に決められていたのですよ」
先の見えない吹雪の中、二人を乗せた雪車は、先の見えぬ未来へと進んで行った。




