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この手に  作者: 詞乃端
振り続ける雨
2/11

彼と彼女

雨が降る。

しきりと鼓膜(こまく)を叩く雨音に、レックスは眉を(ひそ)めた。

雨は嫌いだ。それは、彼に過去を突き付けるものだから。過ぎ去りし日々は、雨を契機に、悪夢となってレックスの前に姿を現す。

(かつ)て彼を縛っていたものと、決別して久しい。

逃げたつもりはない。全て終わったことなのだ。当時の自分にとって、最良の決着の付け方が、人から見れば最悪だっただけ。

思考の鈍化をレックスは自覚した。その記憶に想いを()せると、いつの間にかそれに(とら)われてしまうのだ。

「レックス~」

物思いに沈むレックスを、どこか能天気な声が呼び戻した。

「この雨、いつ止むのさ」

「知るか」

「あ、そう。 ……雨は、もう飽きたなぁ。 青い空が見たいよ」

「そうか」

「晴れたら、明日の仕事、付いて行って良い?」

「だめだ」

「即答ですか……」

かくり、と肩を落とした娘は、フェリスといった。今日と同じような雨の日に、怪我をしていたところをレックスが拾ったのであった。猫を意味するその名の通り、黄土色(オーカー)の癖のある短い髪と金色のあどけなさを残す瞳は、彼女に妙に猫めいた印象を与えていた。

「奪う者は、奪われても文句は言えねえぞ」

「別に仕事を手伝いたいわけじゃないよ。 晴れた日に、一緒に散歩したら、楽しいかなって思っただけ」

「別に明日である必要性はないだろうが」

レックスの呆れたような物言いに、フェリスは子供のように唇を尖らせた。

「いいじゃん。 行きたい時に行ったって」

ぷいと、レックスから背を向けると、フェリスは再び窓へと向き合う。窓の向こうの空は、古びた建物達に切り取られているうえに、灰色に濁っている。レックスには、見ていて楽しいものでもないが、フェリスにとってはそうではないらしい。それがかけがえのない絶景であるかのように、熱心に窓から(のぞ)く景色を眺めていた。――その(たぐい)(まれ)な能力故に、生まれた時から研究所に囚われていたフェリスは、空というものに強い憧れを抱いていたらしい。だからだろうか、それがどんなに変哲のない景色でも、フェリスは宝物であるかのように見るのだ。

向けられた彼女の背は華奢(きゃしゃ)で、長身のレックスの片腕に収まってしまいそうに頼りなげだ。しかしその身体に秘められた力は、レックスのそれに勝るとも劣らぬほど強力である。

――それでも、フェリスは戦いの場に出てはいけない、とレックスは考える。知らないままである方が、幸せなこともある。生死をかけた戦いも、奪い奪われる覚悟も、(おり)の外を知らずにいた飼い猫には似合わない。もっとも、今は脱走し、野良猫当然だが。

彼と彼女を分けるのは、戦場を知るか否かの経験。それは()まわしくも、レックスという男の根幹をなす過去。そして、決して覆すことのできぬ事実。

――雨の音が続く。

嗚呼(ああ)、現実はいつだって残酷で。もしもという仮定は、苦みを感じるだけの(なぐさ)めにしかならない。彼が彼として生まれた時から、その地獄を知ることは確定していたのだから。

「レックス?」

フェリスの不思議そうな声がした。

……どうも、調子が悪いらしい。今までとは違い、今日は、過去を振り返ってばかりいる。思い出したところで、ひたすら苦いだけなのに。

レックスは、額に手をやり、目を閉じた。彼が座っていた、古ぼけたソファーが軋む。吐いた息は、湿気を帯びた、気だるげな空気の中に溶けていった。

「おーい」

何時の間にか傍に来ていたフェリスが、レックスの目の前で手を振る。レックスが鬱陶(うっとう)しげに見やるも、彼女が気にする様子はない。

「何か変なものでも食べたの? ……いや、それはないか。 あー、でも、レックスの胃袋の方がデリケートだった可能性もあるか~」

「うるせぇ」

好き勝手言い始めたフェリスを、レックスは(にら)む。それがあまり効果を成さないのは、フェリスがレックスのことを恐れていないからか。

ふと、自分にとって相手は何なのか、という、馬鹿げた疑問が脳裏を(かす)めた。それは、レックスが今まで注意深く目を()らしてきた問い。答えを出す気もない、空虚(くうきょ)な質問。手を付けてしまったら、何かが確実に変わってしまいそうで。

レックスはまた黙り込んだ。そんな彼を(いぶか)しく思い近付いたフェリスは、突然、その(たくま)しい腕に抱きかかえられる羽目になった。フェリスは目を白黒させたものの、不思議とその腕に抗おうとする気が湧かなかった。研究所にいた人間のものとは違い、彼女に不快感を与えないもので、どうしてか、自分に(すが)りつくようだと感じたから。

二人の静かな息遣いは、未だ続く雨音にかき消される。

どれほどそうしていただろうか。

「……持ってしまった者の苦悩も、持たざる者の嘆きも――」

レックスがぽつりと呟く。

「――決して、相容れることはない、か……」

雨が、降っていた。

忘れられない光景の中では、いつも。

――『何故お前が』

自分を責めていたのは、仲間だと思っていた人間だった。

――『お前だけが』

原因は、どうにもならない、嫉妬(しっと)

――『僕は、何もないのに……』

彼の力を(うらや)む人間の方こそ、レックスは羨ましかった。あらゆるものを焼き尽くす炎の代償は、当たり前の生活で――。本当は、特別な力なんてなくて良かった。自分が特別だという声に、吐き気がした。誰が好き好んで、手を汚すものか。

――殺戮(さつりく)の為の道具でいられたら、きっと楽だったのに。けれど、自分は、咎人にしかなれなかった。

無慈悲な炎を身の内に宿して生まれ、それを以て敵を(ほふ)り続け。そうしてこの手に残ったのは、遺された灰さえ失った、空虚以外の何物でもなく。

閉じた(まぶた)の裏にある世界は、ただ暗い。

「レックス」

おずおずと彼の頬に触れてくる、温かな指先。

嘗て、何も掴めなかったこの手には、今、確かな温もりがある。

レックスは、呼びかけに答える代わりに、フェリスの首筋に顔を(うず)めた。

「むぎゃっ」

フェリスが奇声を発したものの、レックスはそれを無視する。そして、硬直した華奢な肢体を一層強く抱きしめた。


――気が付けば、雨は、止んでいた。



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