エピローグ 不完全な双葉、満開の刻
【異邦人の帰還】
大阪の喧騒の中、進は今も教壇に立っている。
進は公務員試験予備校の講師として、数多の若者を公的機関へと送り出してきた。
だが、六十を過ぎた彼の主戦場は、もはや教卓の上だけではなかった。
「タロ、準備はいいか?」
「ワン! いつでもいけるよ!」
自宅の一室。
ホワイトボードの前で、進はパペットのイヌ「タロ」を左手にはめ、声を張る。
カメラを回すのは、妻の美智子だ。
かつて定時制高校の廊下で進と言葉を交わしたあの日の少女。
美智子は今、進の最大の理解者であり、唯一の撮影スタッフとなっていた。
気がつけば、美智子が進の伴侶となってから、もう30年以上の月日が流れていたのだ。
進が始めたYouTubeチャンネルは、瞬く間に社会人たちの間で評判となった。
民法、行政法、憲法。
そして、地方自治法から時事問題まで。
難解な法律の条文、世界情勢が、進の脚本とタロのユーモラスな掛け合いによって、血の通った「生きるための知恵」へと姿を変えていく。
進はかつて定時制高校に通った。
中学ではそこそこ勉強ができた進も、定時制高校に通ううちに学力が落ちた。
一時は偏差値32にまでなってしまった。
でもそこから61にまで上げて大学に受かった。
その後も様々なアクシデントがあった。
司法試験を受けるのをやめ、宅建試験の講師から公務員試験の講師になった。
コロナ禍があり、公務員試験改革があった。
それでも、めげなかった。
全てを乗り越えて這い上がった男の言葉。
そこには、エリートには決して真似できない、泥を啜った者特有の説得力が宿っていた。
【「個性」という名の認定】
進と美智子には、共通の「診断名」がある。「発達障害」
ADHDとASDだ。
かつて進は、
「自分はなぜ普通の人と違うのか」
と悩んだ。
「なぜこれほどまでにこだわりが強いのか」悩んだ。
好きなこと、関心があることには、いくらでも打ち込める。
でも、苦手なことは、とことんダメだった。
また、異常なまでの執着、拘りがあった。
それは、幼少期からずっとだ。
同年代の仲間と話が合わない。
進はずっとそれを気に病んできた。
だが、それは愛すべき個性なのだ。
美智子もずっと悩んできた。
寮生活に馴染めず、何度も寮出を繰り返した。
就職しても仕事が続かなかった。
アルバイトやパートタイムさえ無理だった。
家事もできない。
料理の段取りが分からない。
片付けもできない。
だから、婚約を破棄された。
自分は、ダメな女だと思ってきた。
だが、それも個性なのだ、
今、二人はそれを「足かせ」とは呼ばない。
「私たちは、少し尖った双葉だっただけだね」
美智子がファインダー越しに微笑む。
かつて進は、母・千夜子の友人・鈴木から「栴檀は双葉より芳し」と言われた。
優れた人間は幼少期からその片鱗を見せるという意味だ。
幼い進は悩んだ。
父・俊郎に似ている進。
最近時々、鏡を見ると、昔の俊郎の写真そのものになりつつある進。
進の外見、体質は、別れた父・俊郎にそっくりだ。
俊郎は、母・千夜子を苦しめ、進も苦しめた。
でも、もう進は怖くなかった。
「栴檀は若葉より芳しからず」
それが、進の答えだ。
インドの栴檀の木は、若葉の時は香らない。
日本のセンダンは、そもそも成木でも香らない。
平家物語は、誤った内容をそのまま記していた。
北条氏政も、有能だったのでは、と言われるようになっていた。
汁かけご飯の逸話も、後の創作だと言われ始めた。
見た目が似ていても、中身まで同じとは限らない。
性格は、遺伝しないこともある。
進は、それも分かっていた。
進の過度なまでの集中力は「説明の分かりやすさ」への拘りとなった。
定時制高校の寮で空瓶を拾い集めた粘り強さは「受験生を一人も見捨てない」情熱へと転化した。
美智子の独特の感性は、進の尖った言葉を丸く包み込む、温かな映像美を作り出した。
それは、どちらも「欠陥」ではない。
二人は、ようやく「個性の認定証」を手にしたのだ。
【霊たちが見守る風景】
カメラの回るスタジオの片隅。
現世の二人には見えないが、そこには柔らかな光の渦があった。
それは、進の母・千夜子と、その父・進の祖父である治郎蔵の霊だ。
千夜子も治郎蔵も、笑顔で2人を見守っている。
今でも進は、理不尽な批判に晒されることがある。
進のYouTubeチャンネルが有名になるにつれ、アンチが増えたことも知っている。
心ない言葉が時々、コメント欄に並ぶことも知っている。
でも、二つの霊は、ただ、暖かく佇んでいた。
そして静かに微笑んでいた。
千夜子は霊体になって、もう50年になろうとしている。
治郎蔵は、70年近くになろうとしていた。
【黄金色の夕映え】
撮影が終わり、美智子が淹れた茶を二人で啜る。
窓の外には、京都の街が夕日に染まっている。
進はかつて、高速バスの窓から不安な夜の光を見た。
だが、今目の前に開ける風景は、未来を照らす穏やかで心地良い光だ。
「進さん、次の動画は『連帯保証の恐ろしさ』にする?」
「ああ。タロにこっぴどく叱られる役をやらせよう。あんな悲劇は、もう周りで起きてほしくない」
鹿沢慎之助が、かつてしくじった過ち。
それを他の誰かが味わうことがないように。
その鹿沢は、昨日、久しぶりに進たちに会ったばかりだ。
80を過ぎた今も元気でたまに京都に遊びに来る。
借金から解放された今は、明るく過ごしていた。
進はタロを机に置き、美智子の手を取った。
二人の手は、多くの労働と苦難を越えてきた証として、少し節くれ立っている。
「栴檀は双葉より芳しからず……か」
進がふと呟く。
「たとえ双葉の時に香らなくても、いつか自分だけの花が咲く。僕が証明したかったのは、それだけだったのかもしれない」
美智子が静かに頷き、二人は再び、明日への脚本を練り始める。
背後で、霊体となった進の母・千夜子の祈りが黄金色の粉雪のように降り注ぐ。
孤独な異邦人だった少年は、今、自らの居場所をその手で作り上げ、誰かの道を照らす「光」となっていた。
(完)




