第3章 路上の福音と、声への目覚め
【宣告される「強制」の二文字】
美智子との静かな生活。
その幸福の裏側で、進の足元には底なしの沼が広がっていた。
大学を卒業し、司法浪人の道を選んだ進を真っ先に襲ったのは、かつて「跳ね橋」と呼んで自分を救ってくれたはずの、日本育英会からの督促だった。
アパートの固定電話の受話器を握る進の手は、微かに震えていた。
「……そこをなんとか、返済の猶予をいただけないでしょうか。今は司法試験の勉強に専念しており、まとまった収入が……」
電話の向こうの担当者は、事務的で冷淡な声を返した。
「規定ですので、例外は認められません。お支払いがない場合は、法的な手続きに基づいた強制徴収に移らざるを得なくなります」
進の背中に冷たい汗が伝わる。
「強制徴収」という言葉が、これから学ぼうとする法律の刃となって自分に向けられている。
さらに、担当者は追い打ちをかけるように言った。 「本人が無理であれば、当然、連帯保証人の方へ請求がいくことになります」
進の脳裏に、鹿沢慎之助の顔が浮かんだ。
自らも苦境にありながら、身寄りのない進を引き取り、高校へ行かせてくれた恩人。
かつて友人の連帯保証人となって夜逃げされ、辛酸を舐めたあの鹿沢さんに、今度は自分が迷惑をかけるのか。
(それだけは、死んでもできない)
受話器を置いた進は、暗い部屋で一人、決意を固めた。
勉強時間を削ってでも、金を稼がなければならない。
【三足の草鞋と、止まった時計】
美智子との生活を守りながら司法試験の頂を目指す日々は、進の肉体を極限まで摩耗させていった。
その一日は、まだ街が深い闇に沈んでいる午前4時前に始まる。
始発前の冷気に身を縮め、進が向かうのはサンドイッチ製造の工場だった。
午前5時から10時まで、ベルトコンベヤーから流れてくるパンに、機械的に具材を挟み続ける。
冷房の効きすぎた室内で、指先の感覚がなくなるほどの単純作業。
「1分1秒を惜しんで勉強したいのに、自分は何をしているんだ」
そんな焦燥を、マヨネーズの匂いとともに飲み込んだ。
10時に退勤すると、休む間もなく母校・黎明大学へと自転車を走らせる。
昼時は学内の弁当販売のアルバイト。
かつて自分が憧れた、そして今は自分の居場所であるはずのキャンパスで、進は「売る側」として声を張り上げた。
「お弁当、いかがですか!」
学生達が楽しそうに通り過ぎる横で、進は小銭を数え、生活を繋いだ。
午後、ようやく手に入れた「勉強時間」は、大学図書館の静寂の中にあった。
しかし、開いた『基本六法』の文字は、疲労の重みに耐えかねた瞼の裏へ消えていく。
(寝るな……寝てはいけない……)
必死に抗っても、朝からの重労働で体は鉛のように重い。
気づけば数時間が経過し、夕暮れの光が机を照らしている。
捗らない学習計画への絶望感。進は、己の不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。
そして夜。
夕方からは学習塾での講師。
子供たちの前では「教育者」の顔を作り、正解を説く。
しかし、深夜にアパートへ帰り着く頃には、進の魂は抜け殻のようになっていた。
跳ね上がった苛立ちと、噛み合わない歯車
制御不能の重圧
しかし、運命は弱者にさらなる試練を強いる。
京都市内の学習塾で掴んだ非常勤講師の職。そこは、進にとって「教育者」としてのプライドを保てる唯一の場所のはずだった。
だが、三足の草鞋による慢性的な睡眠不足と疲労は、進の自制心を確実に削っていた。ある日、中学受験を控えた小学生のクラスを指導していた際、あまりにやる気のない生徒たちの態度に、進の中で何かがぷつりと切れた。
「やる気がないなら帰れ!」
進は手近にあったパイプ椅子を、威嚇のつもりで強く床に叩きつけた。しかし、椅子は進の予想に反して猛烈な勢いで跳ね上がり、あろうことか教室の天井を直撃した。「ゴン!」という鈍い音が響き渡り、教室内は凍りついた。
上の階の住人が血相を変えて降りてくる騒ぎとなり、進は厳重注意を受ける。「キレたら何をするかわからない人」というレッテル。それは、余裕を失った進の、悲鳴のような暴発だった。
【虚無を導く苦行】
そんな中、進は一人の高校生の個別指導を任される。担当科目は現代文と日本史。両親は一流大学への進学を熱望していたが、当の本人は、隙さえあればプレイステーションを握りしめ、ゲームの海に逃避する毎日だった。
「大学に行って、何をしたいんだ?」
進の問いに、生徒は画面から目を逸らさず「特にない」と短く答えた。
(無理に進学する必要などないのではないか……)
進の脳裏をそんな思いがよぎる。しかし、現実はそれを許さない。
学費を全額出してもらえる恵まれた環境。静かな学習部屋。望めば何でも手に入る場所。
それなのに、なぜこの少年は目の前の「切符」を捨てようとするのか。
定時制高校時代、空腹と眠気に耐えながら、廃刊寸前の古本を一文字ずつなぞっていた自分。学費を稼ぐために図書館で立ち尽くしていた自分。
進は、内側に煮えくり返るような辛い気持ちを押し殺し、虚無に等しい指導を続けた。
結局、学力は最後まで横ばいだったが、偶然にも兵庫県内の中堅私立大学に一般入試で滑り込んだ。
「合格だ。よかったな」
進の言葉に、返ってきたのは絶望的な一言だった。
「……遠いから、そこ行かない」
何のための指導だったのか。積み上げた時間は何だったのか。進は徒労感に打ちひしがれた。
【繰り返される喜劇と悲劇】
怒り狂ったのは両親だった。
「あんな中堅大学しか受からないなんて、指導が悪い!」
塾に激しいクレームを叩きつけた両親は、息子を大手予備校に通わせると言い張った。
対応した塾の業務主任は、進の横で静かに、しかし毅然と告げた。
「残念ですが、予備校に行っても今のままでは伸びないでしょう。どうしても浪人されるなら、まずは本人の覚悟を固め、管理の行き届く個別指導を継続すべきです」
だが、進歩のないプライドに支配された両親がその忠告を聞くことはなかった。
数年後、進の耳に風の便りで噂が届いた。
翌年、予備校に通ったその少年は、前年に合格したはずの中堅私大にさえ不合格となり、消息を絶ったという。
恵まれた環境が、必ずしも人を強くするわけではない。
その残酷な対比が、進の心に冷たい澱を残した。
【無給の山小屋、孤独な合宿】
追い打ちをかけるように、塾の恒例行事である「夏期勉強合宿」が始まった。
京都北部の峻烈な自然に囲まれた山小屋で2泊3日。
進はこの合宿に講師として駆り出されたが、それは驚くべきことに「完全無給の奉仕活動」であった。
自分の生活費さえ削っている進にとって、無給で拘束される時間は拷問に等しかった。
山小屋の夜、静寂の中で受験生たちが眠る横で、進は一人、翌月の奨学金返済の計算をしていた。
教育という聖域の名の下で行われる搾取。
進の心は、教え子たちへの情熱と、自身の困窮の間で激しく揺れ動いていた。
【立ち退きという名の追い風】
司法試験という名の長いトンネルを歩み続けていた進。
そんな彼に、ある日、風変わりな転機が訪れる。
住み慣れた京都の安アパートが、都市計画による道路拡張の対象となったのだ。
「立ち退いてほしい」
役所の担当者から提示された補償金は150万円。
それは、極貧生活を続けてきた進にとって、天から降ってきた巨万の富にも等しかった。
「150万……。美智子さん、これがあれば、君に苦労をかけずに済むかもしれない」
通帳に刻まれた数字を見つめ、進が呟くと、美智子は不安そうに首を傾げた。
「引っ越すの? この部屋、狭いけど、私は好きだったよ。伊崎君がいつもここで勉強してたから」
「ああ、でもこれはチャンスなんだ。新しい場所で、やり直せる」
二人は新たな転居先を探し、運良く20万円ほどの費用で引っ越しを終えた。
手元に残ったのは、130万円の純然たる「軍資金」である。
進はその半分を奨学金の返済に充て、心の重荷を下ろした。
そして残りの半分を、かつてはパンの耳を囓りながら見上げるだけだった、司法試験予備校の正規受講料へと注ぎ込んだ。
正規の講義、最新の教材。それらは独学で泥を啜ってきた進の知識に、瞬く間に血を通わせた。
受講後ほどなくして、進は難関とされる司法試験の択一試験に合格を果たす。
「受かったよ、美智子さん! 一次試験を通った!」
進が合格通知を掲げると、美智子は弾かれたように立ち上がり、パタパタと進の元へ駆け寄った。
「すごい……すごいね。伊崎君、ずっと夜中まで頑張ってたもんね。お祝い、何がいい? 私、頑張って何か作るよ」
「ありがとう。でも、ご馳走は最終合格まで取っておこう。今は、この扉が開いただけで十分だ」
【神隠しの街、再会の二人】
ささやかな自分たちへのお祝いとして、二人は映画館へと足を運んだ。
劇場を埋め尽くしていたのは、日本中の人々を魅了していた宮崎駿の『千と千尋の神隠し』だった。
スクリーンの中で、名前を奪われ、八百万の神々が住まう異世界で必死に生き抜こうとする少女・千尋の姿。
進は、それをただのアニメーションとして観ることはできなかった。
かつて名前ではなく「とろっくさい伊崎」と呼ばれ、理不尽な大人たちの支配下で自分を見失いそうになった少年時代の自分。
そして、異邦人のように都会を彷徨い、法という名の契約を頼りに生き抜いてきた自分。
「千尋、頑張ってたね。名前を取り戻せて、本当によかった」
映画が終わった後、目を輝かせる美智子の横で、進は自分もまた、自らの手で「伊崎進」という人生の主権を取り戻しつつあることを確信していた。
「……そうだね。僕たちも、この街でしっかり生きていこう」
異世界の湯屋から日常へと戻る千尋のように、進もまた、択一試験合格という一つの関門を抜け、新たな決意を胸に京都の街を歩き出した。
【停滞する日々、夜空の旋律】
しかし、合格の二文字を掴みかけたその時、進の心にある変化が生まれていた。
自分が解けるようになること以上に、法律の面白さを「誰かに伝える」ことに、抗いがたい魅力を感じ始めていたのだ。
進は次々と資格を制覇し、ライセンスを掌に収めた。しかし、現実は甘くない。
ありとあらゆる予備校に履歴書を送り続けたが、返ってくるのは冷ややかな不採用通知ばかり。
美智子を養うためのアルバイトに追われ、講師への夢が夕闇に溶ける幻影のように思えた夜、進は深夜のラジオから流れるある曲に耳を止めた。
キンモクセイ『二人のアカボシ』
明星が輝く夜空の下、進はこの歌詞を噛み締めていた。
立ち退きによって新しくなったはずの道路も、今の自分にはどこへも続いていないように思えた。
美智子を連れて、この出口の見えない現実からいっそ逃げ出してしまおうか。そんな弱気が、ふと頭をよぎる。
横で眠る美智子の寝顔を見つめながら、進は拳を握りしめた。
「逃げるんじゃない。この道を、僕たちが歩くための道に変えるんだ」
【沈黙の果てに届いた封書】
そんな葛藤の日々に、ついに終止符が打たれる。
一通の白い封書が、アパートの郵便受けに刺さっていた。
これまでの薄い定形外封筒とは違う、独特の重み。
震える指で封を切ると、そこには力強い言葉が並んでいた。
「講師職の面接、および模擬講義の案内」
それは、大手公務員試験予備校からの招聘状であった。
誰も見向きもしなかった進の経歴の中に、泥を啜りながら這い上がってきた「執念」を、見抜いた者がいたのだ。
進は、その紙を握りしめ、隣で洗濯物を畳もうとして戸惑っている美智子を強く抱き寄せた。
「美智子さん、呼んでくれた。僕の声を聞きたいと言ってくれる場所があったよ」
京都の冷たい冬が終わりを告げようとしていた。
進の人生という名の「講義」が、ついに最初のチャイムを鳴らそうとしていた。




