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第2章 古都の再会と、不器用な「奇跡」

1996年

【崩れゆく既成概念】


 1990年代初頭、日本社会はまるで足元から砂が崩れていくような、巨大な地殻変動の只中にあった。

 1993年。戦後の日本を形作ってきた、38年間にわたる自民党の一党支配がついに終わりを告げた。

 細川護煕内閣を首班とする「非自民・非共産連立政権」の誕生。

 テレビのニュースキャスターが、高揚した声で「55年体制の崩壊」と繰り返す。


 それは、進が四畳半の安アパートで、擦り切れるほど読み込んでいる政治学や法学の教科書が、目の前の現実によって次々と「過去の遺物」へと書き換えられていく、目まぐるしい変革の象徴だった。

 昨日までの正解が、今日には通用しない。

 既成概念という壁が音を立てて崩れていく。


 しかし、社会がどれほど劇的な「新時代」を謳おうとも、進の生活というミクロな世界に変化はなかった。

 ただ、机に向かい、冷え切った指先を息で温めながら、六法全書という名の「理性の檻」に閉じこもる日々。

 司法試験という、天空に聳え立つ巨大な絶壁を見上げ、一歩ずつ、血の滲むような歩みで岩肌を登り続ける孤独な格闘。

 世間が連立政権の行方や選挙制度改革に一喜一憂し、狂騒に沸く傍らで、進は四畳半の静寂の中で、一人だけ時間の止まった世界に取り残されたような、逃れようのない焦燥感と戦っていた。


【幻影の再来】


 1996年。京都の冬は、骨の髄まで浸透するような、鋭利で硬い静寂を纏っていた。

 司法試験の短答式の結果を待ちながら、暗い部屋で基本書を捲っていた進のもとに、一通の報せが届く。

 かつて大阪の定時制高校で、共に夜を分け合い、空腹と孤独を凌いだ美智子が、東京から自分を訪ねて京都に来ているというのだ。


 京都駅の冷たい喧騒の中で、進は美智子と再会した。

 人混みの中に立つ彼女は、かつての面影を残しながらも、どこか壊れかけた陶器のような、触れれば砕けてしまいそうな危うさを漂わせていた。

 東京での生活。婚約の破棄。

 キャリアの挫折。

 そして、1995年のあの地下鉄での惨劇。

 彼女が背負ってきた空白の時間は、進が司法試験のページを捲り続けてきた指先よりも、はるかに深く、痛々しくひび割れていた。


「伊崎君。私……もうあそこには、いられないの」


 彼女が絞り出した声は、冬の北風にかき消されそうなほど細かった。

 進は、狭いアパートの机に積み上がった、埃をかぶった司法試験の参考書を見つめた。

「美智子さん。僕はまだ、暗闇の中にいるんだ。君を構ってあげる余裕なんて、どこにもない。試験に受かるまでは、自分のことで精一杯なんだ。今の僕には、他人の人生を背負う重さは耐えられない」


 それは冷徹な拒絶のつもりだった。

 自らの合格を第一に考える受験生としての、正論のはずだった。

 だが、美智子はただ、静かに首を振った。

「構わなくていいの。邪魔もしないわ。ただ、あなたのそばで、あなたのページを捲る音を聞いていたいだけ……一人でいるのが、怖いの」


 二人を包む京都の冷気は、かつて大阪の夜の高校で感じたあの「共鳴」を、より切実で、二度と逃れられない宿命のようなものへと変質させていった。


【空回りする献身】


 こうして、古都の片隅で二人の奇妙な共同生活が始まった。

 美智子は、自分の内側に潜む「壊れた何か」を隠すように、自分を「普通」の、あるいは「良き伴侶」という既存の枠に嵌めようと必死に足掻いた。

 そこには、一般的な新婚生活の輝きは一切なかった。

 結婚式も、煌びやかな指輪も、甘い新婚旅行もない。

 あるのは、司法試験の六法と、乏しい預金通帳、そして互いの傷を舐め合うような静寂だけだった。


 美智子は、自立しようと必死だった。

 京都の街を歩き回り、スーパーのレジ打ちから事務作業まで、幾つものパートタイムの面接を受けた。 だが、運命は非情だった。


 いざ職場に立つと、彼女は周囲の人間関係の機微が読み解けず、立ち往生した。

 上司からの複数の指示が、まるで霧のように頭の中で混ざり合い、優先順位を失う。

 時計の針を意識し、早くこなそうとすればするほど、体は金縛りにあったように硬直した。

 結局、どの仕事も数週間と持たず、彼女は震える手で職場へ退職の電話を入れる。その繰り返しだった。


 家事もまた、彼女にとっては逃げ場のない迷宮だった。

 洗濯物の山を前にして、どこから手をつければいいか分からず立ち尽くす。料理を始めれば、鍋の火加減と味付けの工程を同時に進められず、パニックに陥る。

 進が勉強の合間に顔を上げると、部屋は混沌の中に沈んでおり、美智子は暗い隅っこで膝を抱えて泣いていた。


 進の心には、抑えようのない焦燥が沸き上がった。

(なぜ、当たり前のことができないんだ。僕の勉強時間さえ、君の涙によって削り取られていく)

  だが、それ以上に彼を動かしたのは、彼女が放つ「孤独の共鳴」だった。

 あの日、母を失い、叔父に本を捨てられ、大学卒業後はパンの耳を囓っていた自分。

 世界から見放され、正しくあろうとしても拒絶される者の震え。

 それは他でもない、進自身の魂の記憶だった。


【叔父・政夫の壮絶な学問への憎しみ】


 泣き崩れる美智子の姿を見つめながら、進の脳裏には、かつて叔父・政夫が吐き捨てた罵声が鮮明に蘇っていた。

 政夫は、自身の母親――進にとっては父方の祖母・智代――を、呪いのように激しく恨んでいた。


 進の祖母・智代は、元庄屋の名家のお嬢様育ちで、没落した後も、周囲の嘲笑をよそに難しい哲学書や新聞ばかりを読み耽る女性だった。

 高い教養を持ち、知識人との交流を何よりの喜びとしていた。

 しかし、その一方で、彼女は家事を一切こなすことができなかった。

 食事は作れず、掃除も行き届かない。

 生活能力が完全に欠如していたのだ。

 祖父・治郎蔵との喧嘩は絶えず、ついには先祖代々の伊崎家の財産をほとんどすべて食い潰してしまった。


「本なんか読んで何になる。あんなものは人生を狂わせる毒だ!」


 政夫が進から本を取り上げ、学問を徹底的に否定した理由。

 それは、家を壊し、父を苦しめた「学識ある、家事のできない母」への根源的な恐怖と嫌悪の裏返しだったのだ。

 進は後に、祖母の実家が没落した旧家であったことを知り、彼女もまた、古い時代の慣習から現代の荒波へと放り出された犠牲者であったと理解した。

 彼女もまた、自分の「居場所」を文字の中にしか見出せなかったのだ。


 叔父が正義だと信じた「額に汗して働く」こと。

 けれど、その正義は今、目の前で泣き崩れる美智子をも、かつての祖母のように「無能」として斬り捨てようとしていた。


(……叔父さん、僕は、あなたのようにはならない。そんな単純な思考で、人を裁きたくない)


【決断という名の「奇跡」】


 ある夜、アパートの電球が切れ、暗闇に包まれた部屋で、進は震える美智子の肩を強く抱き寄せた。

 彼女は「役立たずでごめんなさい、生きていてごめんなさい」と、自分を責める呪文のように繰り返している。

 社会の歯車として回転できない彼女。

 家事という日常のルーチンすら回せない彼女。

 それでも、あの未曾有の惨劇を生き延び、今ここに、温かい呼吸を刻んでいる。


 進は、自分が一生をかけて追い求めようとしている「法」とは何なのかを考えた。

 弱肉強食の理論を補強することか。

 それとも、こうした「生きづらさ」の淵で、声を上げられずに溺れかけている魂を、泥の中から引き上げることか。


「美智子さん。もう、頑張らなくていい。普通になろうとしなくていいんだ」


 進は結婚を決意した。

 それは決して合理的な選択ではなかった。

 司法試験という針の穴を通るような難関を目指す者にとっては、自らの首を絞めるような、無謀な重荷だったかもしれない。

 だが、その時。進の脳裏には、ある旋律が流れていた。


 さだまさし『奇跡〜大きな愛のように〜』


 進は愛知県、信州、更に大阪、京都で励んできた。

 美智子は岡山、大阪、東京、そして京都。

 進は阪神・淡路大震災で九死に一生を得た。

 美智子も、死の影が漂う地下鉄を潜り抜けた。

 二人が生きて再会できたこと。

 その確率の低さを思えば、それはすでに「奇跡」と呼ぶにふさわしい。

 何かができるから愛するのではない。

 そこに存在し、共に命の灯火を絶やさずにいること。

 その一事だけで、彼女を愛し、守る理由は十分だった。


 進は、美智子の不得手や空回りを、もはや責めることはしなかった。

 後に、彼女のこの「不器用さ」には、発達障害という現代的な名前が付くことになる。

 しかし、専門的な診断名が下るずっと前から、進は知っていた。

 彼女が流す涙は、誰よりも純粋に「正しくありたい、誰かの役に立ちたい」と願った魂が、現実の壁にぶつかって散った火花であることを。


「君は、君の歌を歌えばいい。僕がそれを、一生かけて守り抜く」


 古都の小さなアパート。

 枕元には司法試験の六法全書。

 その隣には、美智子が不器用に淹れた、少し冷めた茶。

 進は、不器用で、しかし誰よりも深い慈しみに満ちた、新しい人生の頁を静かに捲り始めた。

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