第5章 届かない司法試験
【「情報の格差」という断崖】
大学生活は、華やかな喧騒とは無縁の「労働の連鎖」であった。
給付される奨学金は、未来への投資である学費へと消えていく。
日々のパンを購い、屋根を維持するためには、幾つものアルバイトを綱渡りのように掛け持ちしなければならなかった。
講義が終われば、大学の学食の調理補助のアルバイトに走る。
それが終わったら、次の深夜アルバイト。
街のどこかにある現場へと走り、深夜に疲労困憊の体を引きずって寮へ帰る。
司法試験合格――。
その悲願の前に立ちはだかったのは、学力以前に「情報の壁」だった。
予備校に通い、洗練された攻略法を手に取るエリートたち。
一方、進が目にした予備校の受講料は、彼が額に汗して貯めた蓄えを、一瞬で灰にするほど無慈悲な額だった。
「……無理だ」
立ち尽くす進に、一筋の光を投げかけたのは、友人の高橋だった。
「二人で教材を出し合おう」という提案。
彼らは、一年型落ちゆえに二割引で投げ売りされていた予備校のカセットテープを買い求めた。
1年前の講義なら、安く手に入る。
進は、その元テープを丁寧にダビングし、複製したテープを自分の相棒とした。
安物のカセットレコーダーから流れる講師の声。
それを進は、それこそ「正義」への唯一の糸口であるかのように、テープが擦り切れ、磁気が劣化するまで、何度も、何度も繰り返して聴いた。
【奨学金という名の「見えない鎖」】
月5,000円の寮費は魅力的だったが、進はあえて孤独なアパート暮らしを選んだ。
寮の喧騒や付き合いは、彼から「法と向き合う時間」を容赦なく奪ったからだ。
自室を持てたのは、大学の学生課が紹介してくれた企業による給付制奨学金の恩恵だった。
月に30,000円。
だが、それは救済であると同時に、冷徹な契約でもあった。
「一定以上の成績を維持しなければ、即打ち切り」 一度でも足を踏み外せば、この学び舎から放り出される。
その強烈なプレッシャーが、進の背中を常に机へと縛り付けた。
また、毎月、近況報告という名の手紙を書かないといけなかった。
報告することなんてない。
進は、そう思った。
手紙を書かない月が2カ月続いたとき、学生課から呼び出しがあった。
今のままだと、給付制奨学金が打ち切りになるという。
進は謝罪し、手紙を3カ月分書いた。
本当は書くことなんてないと思った。
しかし、給付制奨学金を止められてしまえば、生活出来なくなる。
それからの進は、
「元気です」
「いつもありがとうございます」
といった、形だけの手紙を送り続けた。
ただ後日、進はこの時の行動を激しく後悔する。
見ず知らずの他人に、何の見返りもなく、お金を毎月下さる方などいない。
あの給付制奨学金は、凄いことだったのだ。
進がそれに気付くのは、まだ、だいぶ先のことであった。
本来なら、サークルで仲間と議論し、法理を戦わせたかった。
だが、その時間はすべてアルバイトに削り取られた。
一日の勉強時間は、捻り出しても二時間が限界。
司法試験に現役で受かる人達は。みな1日8時間以上は勉強していた。
進の勉強時間は、一般的な司法試験受験者の半分にも満たなかった。
在学中に挑んだ試験の結果は、無情にもすべて「不合格」であった。
【法学の「格差」と友の情】
3年生のとき、民事訴訟法のゼミで進は新たな壁に直面した。
富裕層が多く通う東京の私立大学出身の芦田助教授は、当時は珍しかったワープロでのレポート作成を学生に強要した。
ワープロは一台10万円はする代物だ。
進は芦田に金欠で買えない旨を直訴したが、「それくらい用意できないならゼミに来るな」と言わんばかりに聞き入れられない。
「親御さんに頼めばすぐじゃないか」
芦田教授はそう言って笑った。
進は、その窮状を、友人の深村に話した。
深村は京都・寺町の中古電化製品店でアルバイトをしていた。
「進、これを使え」
深村は店長に掛け合い、特別優待カードを作ってくれた。
おかげで中古とはいえ新品同様のワープロを、新品の半額以下で手に入れることができた。
深村の無言の友情が、芦田の冷徹なエリート意識に傷ついた進の心を救った。
とはいえ、4万8千円の出費は、実に痛かった。
芦田の横暴は続いた。
今度は高級ホテルでのダンスパーティーへの全員参加を命じたのだ。
チケットは男性は1枚4,000円、女性は3,500円。
しかも1人4枚のノルマが課された。
自分の分を除いた3枚を売らなければならない。
進は友人の元山に1枚売ることができたが、残りは売れなかった。
自分の分も含め、計11,000円。
単位を盾に取られた進にとって、それは血を吐くような出費だった。
【夕暮れのキャンパスと、静かなる『Liberte』】
1991年、卒業の季節。夕闇に沈むキャンパスを、進は一人歩いていた。
思うように進まぬ学習、同期との埋まらぬ温度差。
どれだけ手を伸ばしても指をすり抜けていく「司法試験合格」という名の二文字。
周囲が就職という安定したレールへ乗り換えていく中、進は依然として、終わりの見えない知の断崖に立っていた。
進はウォークマンを装着し、カセットテープが回転する小さな音を聴いた。
再生されたのは、岡村孝子のアルバム『Liberte』のタイトルチューンだった。
挿入曲:岡村孝子『Liberte』
透き通るような、しかし芯の強い歌声が、焦燥に波立つ進の心に、静かな凪をもたらした。
一体、自分は何のために戦ってきたのか。瓶を拾い、小銭を数え、擦り切れたカセットテープの声を追いかけた、あの狂気じみた日々。
世間から見れば、それは単なる「報われない苦労」に過ぎないのかもしれない。
しかし、進の心は凪いでいた。一度たりとも、この険しい道を歩んだことを後悔したことはなかった。
【孤独を背骨に変えて】
「未来だけを信じて、昨日を捨てる……」
進は小さく呟いた。
過去の貧しさを呪う自分も、父の影に怯える自分も、この四年間、大学の図書館で法律と格闘し続けた時間が、すべて洗い流してくれたような気がした。
結果こそ伴わなかったが、歯を食いしばり、独りで踏ん張ったという事実こそが、これからの人生を支える強固な背骨になる。
校舎を見上げる進の顔に、冬の京都の風が吹き抜けた。
その風は、どこか進の孤独を労うように優しかった。
大学という章は終わる。
しかし、法という名の高嶺を目指す、進の長い旅路は、今ようやく始まったばかりだった。
【崩れゆく時代、届かない衝撃】
1991年。世の中は「バブル崩壊」という未曾有の地殻変動に見舞われていた。
華やかだった狂乱の宴は終わりを告げ、日本中が急速に冷え込んでいく。
その象徴的な出来事が、友人の高橋の身に起きた。
大手証券会社に見事就職した彼は、まさにバブルの寵児となるはずだった。
しかし、彼が研修を受ける予定だった建物に、過激派によるものと思われる爆弾が投げ込まれたのだ。
もし高橋が、あと僅かでも早く出社していたら……。
受話器越しに聞いた彼の震える声は、社会が牙を剥き始めたことを物語っていた。
しかし、司法試験合格を目指し、非常勤の塾講師として日銭を稼ぐ進にとって、バブルの崩壊はどこか遠い世界の出来事、あるいは他人ごとに過ぎなかった。
もともと「泡」のような恩恵など一度も受けてはいない。
地を這い、一歩ずつ崖を登るような生活を送る彼にとって、景気の浮沈よりも、目の前の判例をどう読み解くか、明日の講義でいかに生徒を惹きつけるかという現実の方が、遥かに切実な戦いだった。
時代がどれほど揺れ動こうとも、進の孤独な歩みが止まることはなかった。




