#22 コノ手ノヌクモリヲ知ラズニ
病室の天井を、凪はぼんやりと見つめていた。枕元の体温計はまだ微熱を示しているが、今日退院することになっている。
重い体も、頭痛もとっくに慣れた。
静かに扉が開く音がして、綾女が顔をのぞかせた。
「おはよう、凪。起きられる?着替え手伝うからね」
荷物をまとめ始めた綾女に、凪がゆっくり問いかける。
「……霊符はこっちにください」
凪の着替えを整えていた綾女の手が止まる。
「しばらく霊災対応には出なくていいわ。本家からの出動命令もないから」
綾女の言葉に、凪は背筋が寒くなった。
「……どうして?」
ぽつりと漏らした言葉に、綾女は眉を下げる。
「もう、あそこに戻る必要はないわ。あなたはまず、傷を治して元気になることだけ考えなさい」
凪は目を伏せた。胸の奥が、じわりと痛む。
(“器”であることを果たしていない俺には、何の価値もないのに……)
鼓動が大きくなる。
息が苦しい。
「……凪?どうしたの、凪!」
呼吸が整わなくなった凪に綾女が駆け寄り背中をさする。
「……戻りました……凪さん、どうされました!」
「思ってた以上に、凪がね……」
身をかがめて背中で呼吸をする凪に、綾女がゆっくり話しかけリズムを整えていく。
「ごめんね、驚かせてしまったわね」
斎に渡された水のペットボトルを見つめた凪は、綾女の言葉に何も答えない。
「あなた、もう心も体も限界なの。自分でもわかってるでしょ?」
「でも、俺は”器”だから。早く扉を顕現させないと」
「焦らなくていいんです。あなたは冥府の管理下、つまり私が管理することになりました」
「……なに?また監視が始まるの?」
凪は微動だにせず、淡々と言葉を紡ぐ。
自分への落胆と、本家の失望にさいなまれていた。
自分の存在価値を自分で失った。
凪にとっても”器”でいることが、すべてだった。
「違います。私と一緒に暮らしていただきます」
「なにそれ。今度は四六時中の監視?」
「違うわ」
綾女がいつになく、はっきりと、少し怒気を含んで凪の言葉を遮った。
凪の顔を両手で挟むと、自分のほうへとグイっと上げる。
「私と、斎さんはあなたに生きてほしいの。本家にいたらあなたは確実に壊れてしまうわ。だから、斎さんに冥府に行ってもらって、冥府令を受け取ってきてもらったの」
「冥府令って、閻魔大王の代行書?」
「そうよ。閻魔大王からあなたの保護の勅命が下ったの」
「……なんで?」
「私が、あなたを守りたいと直訴したからです」
「……なんでそこまで」
「あなたが大切な人だからですよ、凪さん」
斎の言葉に、綾女の眉が一瞬上がる。
(凪のことになると、ずいぶん流暢に話すのね)
斎本人も気づいていない感情に、一足早く綾女が気付いた。
***
斎は席を立ち、窓のカーテンを少しだけ開ける。秋の日差しが優しく病室に射し込む。
「……綾女さんが車を回してくれています。準備ができたら、出ましょう」
凪は黙って頷いた。
ベッドに座っている凪に斎が手を差し出した。
「ゆっくりで構いません。今日は風が気持ちいい日ですよ」
病院を出ると、外の空気が肌にやさしく触れた。凪は久しぶりに感じる季節の匂いに、目を細める。
そして車に乗り、ほどなくして、新しい生活の始まる場所へと辿り着いた。
――古びた木造の一軒家。瓦屋根に落ち葉が舞い、縁側には風鈴の残響だけが微かに揺れていた。
***
縁側に座る斎の隣で、凪はぼんやりと夜空を見上げていた。鈴虫の声が響く秋の夜。
ふと、凪が口を開く。
「……俺、何もしなくていいのかな」
斎は視線を向けるが、すぐに答えなかった。
「本家にもいない。霊災にも出ない。器としての役割も果たせてない。……じゃあ、俺って、なんなんだろう」
その声音には、自嘲と戸惑いが混ざっていた。
「今まで“須皇家の器”としてしか、生きてこなかった。"器"だから必要とされてただけで……そんなのはわかってるけど、今、その役割を果たせない俺は価値がないんだろうな」
その言葉に、斎は静かに口を開いた。
「私は、あなたが“器”だからここにいるのではありません。……あなたが、あなたであることが、ここにいる理由です」
凪は、唇を噛んだ。
「……やめろよ。そんなふうにされたら、俺……どうしたらいいか分かんないんだよ……!」
凪は顔を背け、肩を震わせる。
「ずっと、“器”としてしか生きられなかったんだよ……!感情なんか出したら、“使えない”って捨てられるの、分かってたから……!ずっと我慢してきたのに……」
震える声が、夜の空気に溶けていく。
「優しくされると、壊れそうになる……!……俺は、”器”でいることしかできないから……!”器”じゃない俺は、生きる意味もないっ」
言葉の最後は、涙にかき消された。
「……凪さん」
斎が震える背中に手を添えようとした瞬間、凪がそれを振り払った。
「……優しく、しないで。俺に触らないで……」
こんなにも脆く、繊細なこの人を俺は守ることができるだろうか。
膝を抱えて震える凪に、斎の心が揺らいだ。
だが……
「壊れそうになったら、俺が何度でも支えます」
凪の背中に手を添えると、びくっとはねた。
「大丈夫。ゆっくり慣れていけばいい。あなたは愛されていい」
ぶんぶんと頭を振る凪のこぶしに力が籠る。
「あなたは”器”である前に、一人の人間なんですよ、凪さん」
「……でも、俺は」
それは小さな、凪の声だった。
その声を斎は逃さない。
凪の頭をそっと、抱き寄せる。
「……俺に、凪さんを甘やかさせてください。凪さんに優しくする権利をください」
「……あんたは"器"の管理者なんだろ?俺が扉を顕現させるのを見届けるまでの守人なんだろ?」
「それは、俺の仕事です。今は、斎として凪さんにお願いをしているんです」
凍り付いた心の奥に、温かいものがともった気がした。
「……”器”じゃなくても?」
「俺は凪さんが大切です」
低く、穏やかな声。
「……泣いても、大丈夫です」
その言葉に、凪はついに堪えきれず、斎にしがみつき、泣きじゃくった。
斎は優しく抱き寄せ、凪が泣き疲れて眠るまで、静かに寄り添い続けた。




