1──1 未来
――――私の未来、何にもない⋯⋯。
橋本なゆたは、現在24才。
H大学の大学院を春に卒業して無職のままだった。
今後なゆたには何の予定もなくなってしまった。
大学の研究室にそのまま残って、何となく教授の“助手”みたいな事をしている。正規の職員ではなく、あくまでも教授個人の雑用をする秘書のような状態だ。橋本祐三教授はなゆたの父親、つまり父親の手伝いをしているだけだった。
なゆたの家は父子家庭で、兄弟も姉妹もいない。父親と2人だけだ。母親は、なゆたが1才になる前に離婚して家を出て行ったそうだ。赤ちゃんの扱いに途方に暮れていた父親を見かねて、父親の1つ下の妹が同居し幼いなゆたの面倒を見てくれていた。なゆたが高校生になった時に、叔母はやっと義務を終えたかのように、付き合っていた外国人と結婚をし、海外に行ってしまった。
なゆた、という名前は宗教学者の父親がつけてくれた。ちょっと珍しくて、男の子か女の子かわかりにくい名前。初めて聞いた人は、大抵とまどったように、『なゆた、さん?』と聞き直す。
漢字で書いたら那由他と書くが、ひらがなで届け出をしてある。
那由他は仏教の経典に出てくるサンスクリット語で、無限の数の単位らしい。経典では“極めて長い時間”を表す表現で出てくる。
父親は娘が生まれた瞬間、この子はこの世に出てきて世界の一部になった、と思ったらしい。
父親のイメージでは人はみんな無限の時間、空間に溶け込んでいる存在で、宇宙と個人には境界もないそうだ。
そんな存在だという名前を娘につけた。
なゆたが小さい頃に、いつもは恐ろしく無口な父親が珍しく饒舌に話してくれたので、なゆたにもそのイメージが強く残った。
「宇宙には一面、天の網みたいなものが張り巡らされているんだよ」
父親が言う。
「どんな小さなことでも共鳴し合う。空間に溶け込むなゆたの、ほら、今、呼吸しただろう? そんなささいな、ほんのちょっとの動きでさえ、天の網を震わせて全宇宙を震わすんだ」
話を聞きながら目を瞑ると、宙に一面天の河のようなキラキラの天の網。
私の指先が動いたらその動きで網が震えていく、星のまたたくような音が耳に聞こえるような気がした。
父親は学界では著名な宗教学者だが、かなり無口で、娘のなゆたに対しても頷くぐらいでほとんど声を出さない。いつも研究に没頭していて、変わり者だとH大でも言われている。家に帰ってくる時は夜中になるし、大抵は大学にそのまま泊まり込んでいるので、家では父親とめったに顔を合わす事はない。
高校生になるぐらいまで、なゆたは、学校以外の時間はほとんど父親のいる研究室で過ごしていた。留守宅に帰るには幼すぎたため、叔母が仕事から迎えに来てくれるまでの時間、しかたなく父親の側にいたからだ。
下校時間になると、まっすぐ研究室に帰る。
父親は、なゆたをチラッと見ると黙って頷きまた本に戻ってしまうので、2人でほとんど会話もせずに過ごしていた。室内でぬいぐるみと遊んだり折り紙をしたり、たまに絵を描いたり。小学生になってからは1人で宿題をして、ソファーでお昼寝して、本を読んでいた。
なゆたは大人しくて周囲を困らせるような事もなかったので、毎日幼い子供が大学の部屋に来て過ごしているとは大ぴらに気づかれていなかったようだった。
研究室は大学の広い敷地の一番端にあり、窓のすぐ外は自然の山が広がっている。
生徒がほとんど専攻しない学部で、人の出入りもめったにないので、研究室はいつも静まりかえっていた。
なゆたは研究室のソファーの背に座って、窓から外を眺めるのが好きだった。足が宙に浮いて、まるで木の枝に座っているようなつもりになる。父親の言う無限の空間に、今、私が足を揺らした、この動きも響いているのかもしれない、なんて考える。
ぽーん、と足をあげる。
この振動は天の網に伝わる。
目の前に広がる、夕空を震わせている。
小高い山に建てられた大学からは、駅や街並みが一望でき、夕方には西側の山並みに沈む真っ赤な夕日が綺麗に見えた。研究室の窓は北向き。なゆたの右手側、沈む夕日に真っ赤に染まる空がだんだんと色を変え 世界が暗くなっていくのを飽かず眺めた。鳥が黒い小さな影のように巣に帰る。雲が夕日に細長く照らされ日々違う景色を見せる。
母親は最初から家にいなかったので、思い出せる事もない。こうやって家ではなく研究室で過ごす生活が当たり前だと思っていたし、叔母も同居してくれていたのでちゃんと毎日普通に過ぎていく。
父親は、
「なゆたは宇宙に溶け込んでいるのだから、みんなと言わば1つの存在だ、孤独なんてないよ」
って何回もなゆたに言った。
父親なりに特異な環境と、そうして育っている子供の心を気にしていたのかもしれない。
叔母はあくまでも叔母としてなゆたに接していた。自身が忙しく働いていたので、仕事が終わった8時ごろやっと研究室に迎えに来てあわただしく食事、お風呂、出来るだけ急いでなゆたを寝かせる。
叔母はとても優しくなゆたの世話をしてくれたが親がわりではなかった。兄の子供の面倒を見てくれていただけだった。なゆたはずっと叔母に申し訳ない気持ちを持っていた。
叔母はそのころ30代、なゆたが生まれた時はまだ20代だったんだな、と今になって思う。
なゆたが高校生になった4月、待ちかねていたように叔母は家を出て結婚をした。なゆたはもう学校の帰りにも研究室には行かず、誰もいない家に帰宅し、1人で食事も作ってきちんと食べた。それからずっとなゆたは一軒家で一人暮らしのようなものだった。
たまに帰ってきた父親と顔を合わす日がある。
また朝が来て、学校に行って帰宅して寝て、翌朝が来る。自宅と学校だけを行き来する。
淡々と年月が過ぎていく。
毎日、しーんと誰もいないリビングで1人、夕日にそまる空を見る。
小さいころ研究室で眺めていたように。
大学のすぐ近くの自宅も、山の斜面に建っている。目の前に遮る建物もないので、夕焼けに染まる街も、山並みに沈む夕日も、真っ赤に照らされる雲と空も、全部見えた。
部屋が、夕日に赤くそまる。
寂しい気持ちになる。
指を動かしてみる。
(天の網を震わせたって、いったい、誰に響いているの?)
と思った。
無限の空間に虚しく吸い込まれていくみたいだ。
父親が世界に溶け込む存在になるよう想いを込めて名前をつけてくれた。きらきらと天の網が世界を包み、震えて響きあって孤独なんて感じない世界。
そうだったはずなのに。
逆にくっきりと自分だけ切り離されたみたいに感じる。世の中に自分1人しかいないみたい。
誰かと一緒にいたい。
思った事を話したい。
好きな人のために何かしたい。
私の震えが誰かに響いて、私はその人の震えを感じたい。
宇宙規模の話なんていいから、ただ1人の人に響き合う存在になりたいだけだ。
1人きりの私の周りは、いつの間にか重くて濃い灰色の泥みたいなイメージになっていた。濃度で息も出来ない、上下も、縦横もなくて、それが永遠に続いている気がする。天の網も泥の中で囚われたように震えない。気の遠くなるような無限の泥の中で身動き取れず、1人で永遠に漂う。怖かった。
未来がそんな世界になっていくようだった。
今までは、中学生になる、高校生になる、大学生になる、大学院生になる、何とか細い道があった。今はどこにも道がない。
父親には学問がある。それが、彼の道になっているんだろう。でもなゆたは学問に1人で向き合い続ける生き方なんて、泣きそうだと思う。考えたくもない。
(私は?)
泥に飲み込まれる⋯⋯ 。
この先何も見えなくなって、必死で手を伸ばす。
思い浮かぶのは、心が響きたい人。
それにしがみつく。
一方的になゆたの気持だけで、勝手にしがみついている。
――――木暮亮介先生。
彼に感じている気持ちだけが、灰色の泥の中に鮮やかな色彩を持っている。
彼の存在を灯火にして、無限の空間を何とか進む。
飲み込まれそうになりながら。
それしか未来に見えるものがなかった。




