プロローグ
橋本なゆたは、今、クリアファイルから紙を取り出したところだった。
A4サイズの大学のレポート用紙、1枚、2つ折り。
手が冷たくなって震えている。
祈るように、紙を唇に当て、少しでも落ちつかせようとした。
うつむいたので、長い髪が、手にあたった。
父から手渡されたこの紙には、なゆたの1番知りたい事が書かれている。
3日⋯⋯ 、あれ?、3回夜が来たから、4日目かな⋯⋯
心臓がドキドキして、口から出てきそうだった。
このまま気を失いそうだ。
知りたくてたまらない、けど、知りたくない。
息を吸って、手の震えをとめようとする。
早く見たい、でも怖い、でも見たい⋯⋯ 。
右手の指で少しメモをめくった。
しっかりした鉛筆の文字が見えた。
『橋本祐三 教授』
父の名前が冒頭に書いてある。
思わず、ギュッと目をつむった。
父は大学で宗教学を教えている。
このメモは歴史科の学部長をしている教授が、研究室に不在だった父宛に急いで書いたものだ。
でも内容は、仕事のことではない。
なゆたについて書かれているはずだ。
4日前の夜に、なゆたは自分で父にあることを頼んだ。父が学部長になゆたの頼みを伝え、それについての返事が書かれている。
唇から細く息を吐いて、そっと目を開けた。
『先日の件ですが、
お嬢様と結婚すると⋯⋯ ⋯⋯ 』
(えっ?)
瞬間、頭が真っ白になった。文字を、見間違えたかと思って、手で目を少しこすった。
『お嬢様と結婚すると、木暮亮介が了承いたしました。』
私と結婚すると──。
亮介先生が──。
了承した──。
心臓がどくんどくん、と大きく動き、なゆたは身体中が熱くなったと思った。
何度見ても、短い文面は、同じ。
木暮亮介が、橋本なゆたと結婚する、という、簡潔なメモ。
(亮介先生が⋯⋯ 。)
亮介に出会って、今年7回目の春。
なゆたは亮介の顔を思い出して、心がずきんとした。
(亮介先生が好き。)
その気持ちだけで、なゆたは毎日過ごしている。
ずっとずっと片思いだった亮介を、考えるだけで涙が出そうだった。
でも、なぜ、亮介がこんなにあっさりと『了承いたしました』なんて返事をしたんだろうと思った。
その場で断られるかもと怖かった。
一度お話だけなら、ぐらいの返事を期待していた。
(こんな簡単に答えるなんて、誰でもよかったの?)
そう思ったら、心がぎゅーっと苦しくなった。
誰でもよかった、なゆたじゃなくても。
(だって⋯⋯ 。)
亮介は、なゆたを知らないから⋯⋯ 。
顔も見分けられない、大勢の生徒の1人。
ゼミの生徒でもない。
専攻も違う。
7年たっても、亮介はなゆたの存在すら認識していない。
春の朝。
太陽の光が明るく部屋を照らす。
リビングの真ん中で、なゆたは手にしたメモを、何度も読み返した。




