呪術師の宿
北西区のはずれ。私たちは、呪術師の宿があるというその場所にたどり着いていた。
だが、辺りにそれらしい建物は見当たらない。あるのは民家や、もう使われていないであろう廃屋。そして、大きな庭つきの館だけだ。
「聞いた限りでは、この辺りだと思うんですが……」
私の言葉に、彼女も必死に背伸びをして周囲を見回している。なんとなく小動物みたいだ。
――ここに至るまでに私たちは、互いの過去を明かしあった。
私が探偵となるに至る経緯を話し終えたとき、彼女はその両目から大粒の涙を流していた。彼女にも双子の弟がいるというから、私の話に感情移入してしまったのかもしれないけれど、彼女の弟さんはまだ生きているという。だとしたら、私の体験に、涙を流すまでの感情移入が可能だろうか?
だが、もし、彼女の話しに一つだけ偽りあるとしたら……。
そう思考をめぐらせ虚空を見つめていた私の視界に、私を見上げるようにしたフィリアさんの小さな顔が入ってくる。その手には、『大丈夫ですか?』と書かれた木板。
いけない、彼女にとって不吉な考えを巡らせてしまいそうになっていた。……もし私の予感が正しかったとしても、彼女がそれを隠したのなら、それは私にいらぬ気を使わせないための方便だったのだろうし、私がそれを知る必要はない。むしろ、そんなことには気が回らず、自分の過去を明け透けに語って彼女に涙まで流させてしまった私は、とんだ配慮不足だった……。
こういうところ、まだまだだなぁーと反省しつつ、そんな感情が彼女に伝わってしまえば余計に心労を与えてしまうだろうから、それは決して悟られぬよう、
「すみません、大丈夫です。少し考え事を」
と返す。
が、彼女はそんな私の浅はかな気遣いなど全てお見通しであるような深い慈しみをもって、『それなら、よかったです』と言わんばかりの笑顔を向けてくれる。
――あの日探偵となってから、私はずっと血みどろの世界に生きてきた。いやなものも、たくさん見てきた。どうしてこんなことをしているのだろうと思うことも、何度もあった。……だから、たまにこうやって天然の優しさに触れると、それだけで心が救われた気持ちになる。
世界には、こんなにも心の優しい人だっているのだと。
私はその人たちのために、妹との約束を果たすために、探偵をやっているのだと。
それを、思い出させてくれるから。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、フィリアさんはまた笑ってくれた。
その笑顔にまた、救われる。
だけど――、これから向かう場所は、私がいつも生きている場所。陰湿で、血みどろで、いやなものが渦巻く世界だ。だから、そんな世界から、きっと彼女だけは……なにがあっても、フィリアさんだけは、私が守ろう。
私は彼女の笑顔を受け止めて、そう決意した。
そして顔を上げて、見つけた。
大きすぎて宿屋だなどとは思わなかったが、その館へと通じる黒鉄の門には小さな板が掛けてあって、こう書かれていた。
『グラムルの宿』
多分、私の視線を追って、フィリアさんも気がついたのだろう。
その板を、じっと見つめている。
「……行きましょうか」
私の言葉に、彼女は小さく頷いた。
私がこの町にたどり着いた頃は頭上にあった太陽が、今は西に大きく傾き、地平線にその姿を触れさせようとしていた。
私たちは赤く染まる雪と氷の町を視界におさめながら、黒ずんだ門に手をかけた。
* * *
私たちがその黒ずんだ門に手を掛けると、門はギギギと音を立てて開いた。……私はまだ、門を押していない。隣を見れば、フィリアさんも呆気にとられている。
つまりこの門は、ひとりでに開いている。
錆びた鉄の擦れ合う音があたりに響き渡って、私たちは揃って顔をしかめる。途中で止まってしまうのではないかと思うほどたっぷり時間を掛けて。しかし門はひとりでに、最後まで開ききってしまった。
「入って来い……ってことでしょうね」
フィリアさんは完全に萎縮してしまっている。しかし、
「フィリアさん、本当に、入りますか?」
私の問いに、彼女は小さくも力強く頷いた。であれば、私にはそれを止める権利なんてない。わたしにできることはせめて、
「念のため、私の後ろに」
彼女の身を守ることだけ。彼女が首肯したのをみて、私は歩き出す。フィリアさんは私の外套の裾を摘んで、私の背に隠れるようにして後をついてくる。
呪術師の宿。その前庭に、足を踏み入れる。
そもそも宿に前庭があるというのがおかしな話しなのだが、呪術師が宿をはじめたのは最近の話しだというし、恐らくこの館は、元は別の誰かのものだったのだろう。その持ち主は今はどこか別の場所に移り住んでいて、長い間空けられていたこの館を呪術師が買い取って、そこで宿屋を経営している、ということであれば合点がいく。
どこの誰から買い取った館なのかは分からないが、相応の身分の誰かだったはずだ。それも、おいおい調べることにするとして……今は、周囲を警戒すべきだ。ここはもう、呪術師の手のひらの上なのだから。
――前庭は、荒れ果てていた。
少なくとも、客を呼ぼうという気概は感じられない。
館まで続く石畳を半分ほど歩ききったところで、後ろ手に、少し前にきいた耳障りな音。振り向けば、入り口の門が今度は独りでに閉じていく。……どうやら完全に歓迎ムードらしい。
今更引き返すなんてことはしない。私たちは前へと進む。
私は今のうちに、館を観察した。
館の正面は前庭。左右は深い雑木林に囲まれていて、さらにその周りを石造りの塀が囲んでいる。古ぼけた館は、高さからしておそらく二階建てだと思われる。……本来なら建物の階層構造は窓を見て判断するのだが、この宿はそれができない。……どういうわけか、少なくとも館の正面には、おおよそ窓と呼べるものが存在しなかった。
(呪術師らしく秘密の実験でもやるために、外から中が見えないようにした、とか……?)
一度はそう推測してみたが、少なくとも壁に、最近改築した様子はない。そうなると、呪術師はこの館を誰かから買ったはずだという私自身の推測と符合しない。
つまりどちらか一方の推測が間違っていることになるのだが、仮にこの館がもともとは呪術師のものではない、という推測が正しいのだとしたら、一体なぜ、窓が存在しないのだろうか――。
と、そんなことを考えている間に、正面扉へとたどり着いてしまった。
私とフィリアさんは顔を見合わせて、扉に手をやる。そして今度こそ、二人でその扉を開けた。
暗闇に包まれた館の中に、仄かに赤みが混じった光が差し込む。
私たちは半分ほど扉を開けて、その光を踏むようにして中へと入った。
――そこは、エントランスだった。
天井からは大きなシャンデリアが吊るされていて、微かに入り込んだ光を怪しく反射している。
正面には大きな階段があって、踊り場を経て二階へと通じている。
そして、その正面の階段のすぐ脇に、誰かが立っていた。
……いや、最初は、枯れ木かと思った。こちらに一歩、ゆったりと動くことをしなければ、私がそれを人だと認識するにはもうしばらくの観察を必要としただろう。それほど、生気の薄い人物だった。
灰色のローブに身を包んだ、痩せぎすな男――だろうか。
フードを目深にかぶっていて表情はうかがえない。視線がこちらを向いているのかさえ定かではなかった。
ただ男は、一言こう口にした。
「夕食の準備が、できております」
その声は、まるで死の間際に一言、この世へ怨嗟を呟くような、そんな不吉さを湛えていた。
そして枯れ木の男は、右手の通路へと、床を滑るように、ゆっくりと歩いていく。
フィリアさんを見て、言う。
「ついていきましょう」
彼女は、小さく頷き返してくれた。
私とフィリアさんは、男の後をついていく。廊下は一度左に折れて、あとはそのまま真っすぐ。突き当りに、扉があった。
そこで男は足を止め、私たちに向き直ってこう訊ねた。
「確認しておきます。あなた方は今夜、この宿にお泊りになる。――それで宜しいですか?」
視界の端で、何かが動いていた。
見れば、それは「賢者の羽ペン」と、「賢者の手帳」だった。
それらは、その場所で行われた会話を、自動で記録する「魔法具」だ。
この会話を、言質にするつもりなのだろう。
私はフィリアさんに顔を向けて、彼女が頷くのを見てから答える。
「はい」
するとローブの男は大儀そうにゆっくり頷いて、
「では、お入りください。皆様、お腹を空かせてお待ちです」
扉を開けた。
その中には長テーブルがあり、奥には暖炉。
長テーブルはナプキンで覆われ、その上には燭台が三つ。
皿は全部で五枚用意されていて、その皿の前の席には既に、三名の先客が腰を下ろしていた。
一人は、一目で高貴な身分であると分かる美丈夫。
一人は、大きな腕輪をした少年。
一人は、華奢な身体を可憐な衣装で包んだ、まるで人形のような女性。
誰もが、私たちに目を向けている。しかしその眼は、三者三様の感情を湛えていた。
私とフィリアさんは、軽く会釈をして、ひとまずは何も言わずに、空いている下座の席へと腰を下ろす。
ローブの男は暖炉の前まで歩いてゆき、私たちに振り返る。
そして――
「さあ、今日のお客様がようやく揃いました。お待たせした方は申し訳ありません。では……」
こうして、それは幕を開けた。
「晩餐会を、始めましょう」
この館――いや、呪術師の宿を舞台にして起きる事件の、その幕が。




