閑話 妖魔とお忍び Ⅲ
レイラがお忍びでトリフェーンに行ってから三週間が経った頃、ようやくシリルが帰ってきた。
特に変わった様子もないので、お忍びのことはバレていないようだと安堵する。
少し深く考えすぎていたようだ。黙っていれば分かるはずもないのだから。
すっかり安心したレイラはのびのびと、シリルがいなかった間の出来事を話した。
「それで、クラリスったらデリックの子供に一目惚れしたみたいなの。」
まだ四歳の男の子だが、目鼻立ちは整っていたし将来は安泰だろう。元大嫌いなボンボンのデリックだが、頭はまあまあ良かった。蚯蚓やゴキブリをぶん投げてくる所はレイラと同レベルだったが。
「まだ、娘のそういう話は聞きたくないな……。」
引き攣った顔でシリルは言った。複雑な父親心はレイラには分からない。
ことりと机の上にお茶の入ったカップを置いてから、シリルの隣に腰を下ろした。
「クラリスも七歳だもの。そろそろ色恋の話も出てくるわ。」
「はは。あ、そういえばクライヴと王城で会った。」
娘の色恋の話から逃げるように話題を変えたシリルに苦笑しながら相槌を打つ。
「確か近衛騎士か何かよね? 元暗殺者なのに良かったのかしら。」
彼の所属していた暗殺組織はアドルフとケントの手によって壊滅しているし、メリルによる躾も済んでいる。全てはセオドアの采配だ。面白いとは思うが、彼の経歴を知った側近たちは面白くなかったようで、クライヴからの手紙には殺伐とした毎日を送っていると書いてあった。
「腕は確かだからな。陛下も理事長の教育は信頼しているんだろう。」
「そうね。」
カップに手を伸ばして、鼻先に近付けお茶の香りを確かめる。
(うん。上手く淹れることができたわ。)
芳醇な香りに満足して、レイラはお茶を口に含んだ。
「なあ、レイラ。俺に隠してる事あるよな?」
突然、胡散臭いまでの満面の笑みでそんなことを言われ、レイラは噎せた。
ごほごほと両手で口から吹き出したお茶を抑える。シリルに大丈夫かと背中を擦られるが、全く大丈夫じゃない。
布巾で濡らしてしまった机や絨毯を拭いながら、全力で脳みそを動かし始める。
シリルは確信を持って言っているようだ。一体、誰がレイラのお忍びをバラしたのだろうか。
(アルヴィンさんは興味ないことはすぐ忘れるもの。やっぱり、メリルさんかしら?)
いや、もしかすると鎌をかけているだけかもしれない。ここはしらばっくれよう。
「浮気を疑っているの?」
気持ち、眉を下げて問いかける。実際は少しも下がっていなくて硬い表情なのだが。
「妖魔から聞いたぞ。そんなにお仕置きされたいのか?」
……そっちか。レイラは何故か穏やかな気持ちになった。
(アルヴィンさんの言った通りになったわ。)
飼い犬に手を噛まれるとはこういったことなのだろう。自嘲的な笑いが浮かんでくる。
あの妖魔。ウィラードとは違った意味で制御が利かない。
給金は妖魔に必要ないが、それに代わる対償はレイラが払っているのに。
たまに怪我をしたときに血が止まるまでは、流れる血が勿体ないのでブレットに与えている。
一体だれがお前を雇っていると思っているんだ、と陳腐なセリフを吐いてしまいたいが今は堪える。
(後で私が酷い目に合わせるわ。覚悟していてもらわないと……。)
レイラがそう決意したところで、後ろからぐい、と抱き寄せられた。
「あ、あの。少し待って頂戴。」
「言い訳を考えてるのか?」
「違うの。えっと……ひゃっ!」
かぷりと耳を甘く食まれ、レイラはたまらず声を上げる。
弱点を真っ先に狙ってくるとは、なんて卑怯な。両耳を両手を使って隠してからシリルを睨み付ける。
「今回ばかりはあの妖魔に感謝だな。あいつがいなければ気付けなかっただろうし。」
「でも、ちゃんとブレット連れて行ったわ。それに怪我もしてないもの。心配かけたくなかったの。」
「ハロルドの奥さんも被害に遭ってた、っていう情報も分かってたらもう少し対処できたんだけどな。」
対処。その対処とはレイラの行動に対するもの、ということだろうか。
首筋にかかるシリルの吐息にびくつく。まずは何よりも先に夫の感情を抑えた方が良いだろう。
とは思ったが、言いつけを破った上にそれを隠蔽しようとしたことが悪質だと云われ、お怒りのシリルの思うがまま説教とお仕置きが夜遅くまで続いた。
次の日の朝にレイラが思ったのは、次はもっと上手くやろうという固い決意であった。
どこまでも斜め上を行く妻の思考回路を理解しているシリルには、お見通しだったが。
◇ ◆ ◇
庭で、娘と息子が遊んでいるのを、シリルは仕事部屋から眺めていた。
面倒くさい貴族のお仕事だが、責任感だけはあるので最後まできっちりやりたいとは思っている。
疲れたときに、仕事部屋から子供たちの様子を眺めるのは日課だ。
子供から少し離れたところにはレイラと妖魔がいる。
どうやら、お忍びのことを告げ口した妖魔に文句を言っているようだ。シリルと一緒のとき以上に喋っているような気がして、少し嫉妬する。
怒っているからこその言葉数だとは思うが、妻は妖魔のことを信用しすぎだ。
――妖魔はレイラのことを愛している。
ウィラードやアドルフから、レイラが死んだときに身体や魂を持って行かれないようにくれぐれも気を付けろと忠告されている。死んでいても、妖魔にとってお気に入りなことに変わりはない。生きていなくても究極を云えば問題ないのだ。
大して危機感を持っていないレイラには教えるつもりもないが。
彼女に懸念を伝えたところで、その時は仕方ないくらいにしか思わないはずだ。
残された家族のことも考えてもらいたいのだが、彼女は生きている自分にしか価値はないと思っている。
依りやすいレイラの身体は、多くの何かにとって価値があるものになるのに。
ただ、妖魔がいることによってシリルやフィンドレイの使用人たちの負担が減っているのも事実で、レイラが妖魔の手を離さない間は、色々諦めることにしている。
なんだかんだ、妖魔もレイラに弱いらしく、今回の告げ口をした時だって――。
『あまり、レイラ様をいじめないでくださいね。あの方も貴方に悪いと思っているから、不器用にも隠しておられるのです。』
とレイラを庇うようなことを言っていた。
あの妖魔がシリルに従ってくれるのは、ただ単にシリルがレイラを一番深く傷付けられるから、だ。
彼女を真綿に包んで大切に囲っていたい妖魔は、レイラが危険なことをしてシリルに怒られるのを何よりも嫌う。
身体的なものより、精神的な傷の方が重症だと考えているのだろう。
大分気に入らない理由だが、妻を大切に想ってくれる者がいるのは心強い。
仕方ないので年老いてどちらかが消えるその時までは、レイラの好きにさせよう。
「父さま!」
「ねぇ、父さまも一緒に遊ぼうよ。」
庭から、部屋にいるシリルを見つけたのか子供たちが大きく手を振っている。
いつの間にかブレットは消えていて、レイラは子供たちの隣にいた。
「もう少ししたら行く。」
大きな声で返して、シリルは笑みを浮かべた。
お付き合いくださりありがとうございました。




