6、嵐
予報通り嵐がきた。
授業中に風がうるさくて、先生の講義もろくに頭に入らなかった。
まっ、風がなくても授業なんざ聞く気にはならないんだが。
午後すぎ、雨も降りだした。世界が狂ったように鉛色のカーニバルが始まった。
こんな天気で決闘だなんて、正気な人がするはずがない。
小此木が正気でないことは承知だ、だから必ず来る。だがこんな天気なら面白がって見物しにくる輩も大分減るだろう。これが真の狙いだ。傍観者が少ない分、俺がインチキしたことがばれる可能性も減るからな。そしてこの天気なら余程警戒しない限り、小さな動きや音に気付くのは無理だろう。
放課後、俺はわざと小此木の前を通って校舎裏に向かった。まずは俺が逃亡者でないことを示さなければならない。おい、あいつマジでやる気だ、とクラスメイトがざわめく姿が簡単に想像できてしまう。
外は土砂降りだ。突風と合間って傘を差すのも一苦労になりそうだ。それに傘を差したとしても、体の八割はびしょ濡れになってしまうだろう。マスクをつけるなどとても無理だ。
傘の場合はね。
そのためにあらかじめカッパを持ってきたのだ。全身を包み込み、視線こそ悪くなるが、雨に濡れる心配は完全になくなった。
校舎裏はまだ誰もいない。むしろ誰かいる方がおかしいのだ。聞こえるのは風の音と雨の音、そして自分の息がマスクにかかる音。
ああ、まるで自分がこの荒れた天気を征服したようで、とても気持ちがいい。
程なくして小此木が現れた。
間抜けが。天気予報も確認せずに傘一本で来た。
小此木はゆっくりと俺の方に目をやると傘をたたみ、後ろの取り巻きに預けた。
少し気になったが、やはり小此木の取り巻きその壱は現れなかった。ラーメン屋に行った日から曽我の様子はずっと変だった。
「タっくん、本当に優ちゃんと喧嘩するの?」
美咲は相変わらずのようだが。
「大丈夫、きっと優も思うところあるから、本気は出さない。でもどうしても聞きたいこととがあるんだ、引く訳にはいかない」
「せめて屋内でしようよ」
眉を顰めて小此木の腕を掴んだ。
小此木が美咲の差してる傘から出ようとすると彼女はいきなり上こすった声で叫んだ。
「行かないで!」
小此木を含めて取り巻き全員が驚いたが、俺としては面倒臭いこの上ないグダグダな展開だ。
何だこの女、本気で小此木が俺にやられるとでも思ってるのか? それともこの勝負の公平性を疑っているのか?
ムカついた。
小此木め、こちは雨に打たれて待ってんのに、ちんたらやってんじゃねえよ!
「おいコラ、お、怖気付いたのか? さっさと出て来いよ」
「ごめん、今すぐいく」
小此木は美咲の手を振りほどくと雨の中に入った。
しかし美咲が間髪入れずにまた傘を差して小此木についてきた。
「おいおい、い、いい加減にしてよ、本当にやる気あ、あんの?」
俺が冷やかすと、小此木は振り返って美咲の肩に手を置いた。
「心配すんな、俺が勝って、昔の優を取り戻すんだ」
「風邪引いちゃう」
「風邪くらい、優の痛みに比べりゃどうってことないさ」
ようやく美咲を説得したらしく、小此木は俺の方へ向き返って近づいて来る。
雨に打たれて間もなくびしょ濡れになった。癖の強い髪は殆ど造形を崩さず、雨が髪の毛をつたって落ちると弾いて、髪の毛に躍動感さえ感じられた。頬両側の髪だけがぺったりと張り付いて、いかにも闘う勇者の英姿って感じだ。
クソ、濡れてもイケメンはイケメンってのかよ。
「ん? どうした? 投降するなら今だよ。いくら相手が優だとしても、俺は全力でいくよ」
余裕たっぷりの感じで小此木は構えを取る。
自分の彼女の前で本気は出さないって言ったのは先の誰だ!? お前は恥という言葉を知らないよな!
元々はあいつが雨で頭が痛くなるまで勝負を引っ張って行くつもりだったが、もう我慢できん、一秒でも早くあいつをぶっ飛ばしたい。
シュッと風を切りながら俺は突進した。右手を前に構え、小此木からの攻撃を受け止める準備に入った。
俺の右手は怪我をしている、今も全治とは言えない酷い状態だ。このことは周りが周知で、小此木も勿論知っている。勝負って言ってきた以上、相手の弱点につけこんで攻撃するのはごく当たり前のことだ。だからあえて俺は自分の弱点を晒し出し、小此木の攻撃を誘った。いや、確かに右手は弱点だったが、それは半時間前のことだ。俺はここにくる前こっそりとトイレで右手の制服の下にスチールパイプを仕込んだ。小此木がここを攻撃すれば、痛い目に遭うのは間違いなく彼自身。俺の弱みが返って最大の武器になったって訳だ。
勢いつけて一気に小此木の手前までやってきたが、そいつが一切反応を見せてくれない。
試しに左手で一発殴って見たがやはり反応がない。
「なーんだ、これだけか? 全然効かないな!」
小此木は全く動揺せずに立ったまま俺を見る。
また人を見下すような真似を。これだけの訳ないじゃないか!
少し離れて、助走して全力体当り。俺の捨て身攻撃を予想していなかっただろうか、小此木はバランスを崩し、俺を抱えたまま共倒れていく。
着地の一瞬に小此木の体を押して、自分への衝撃を緩和した。
美咲が叫ぶと、俺はすでに無事に立ち直り、水溜りで無様に転がっている小此木を見降ろした。
しかしやはりと言うべきか、よく鍛えされた小此木はすぐに体勢を立て直した。
ここは大人しくヒットアンドアウェイを実行しようと決めて、俺は小此木が立ち上がった瞬間で逆方向に走り出す。
「おい優! どこに行く!? まだ勝負は決まってないぞ!」
必死に俺を呼び止めようとしながら小此木は後をついてきた。その後ろは美咲たちの取り巻きも傘をさしてこっちに向かってきた。
汚い野郎って言われてもいいさ、とにかく今は混乱が必要だ、次の作戦に移す前にできるだけ人目のつかないところに行きたい。
二百メートル走って丁度疲れたところ小此木に追いつかれた、観客は傘のせいで随分長い距離をおいていかれた。
「どういうことだ、いきなり逃げ出して!?」
小此木が肩を掴むと、俺はぷんっと振り返った。
「こういうことだ」
左手の制服に仕込んだ拳銃を取り出して小此木の胸に突き立てた。
締まらない顔で笑っていた小此木が視線を降ろし、拳銃に気づくと顔色を変えた。
「えっ!?」
「ピエロを追い込むとひどい目に遭うぞ。笑わせるのが得意ならば、泣かせるのも簡単なんだよ」
台本通り、俺は練習してきたセリフを口にする。
「ピエロって誰がだよ?」
「まあいい、早く降参することだな、今なら命だけは助けてやってもいい」
「待って、優、それ、冗談だよね」
汗か雨か分からないほど小此木の顔は濡れている。
「さあね」
我ながら今の超格好良かったと思う。
小此木は口をつくんで考え込んだ。そしてようやく決心がついたようで、また笑って俺を見る。
「優が撃てるわけないじゃないか。どんなことがあってもそれだけを俺は知ってる。誰よりも真っ先に人のことを考える優が、こんなことできるわけがない」
「はあ?」
心底呆れた。
小此木のお花畑頭には俺がそういう風に映ってるのか? それとも彼はこの期に及んで俺を褒め立てて命乞いしようとしているのか? 見苦しいぞ。
「どけ、ほ、本当に撃つぞ」
「どかないさ。もし優が本当に俺を撃とうと考えているのなら、俺はもうすでに死んでいるも同然だ。優はいつも平気なふりして、実は一人で悩みを抱え込んでるんでしょう? 俺バカだからさ、優がはっきり言わないと分からないよ。優の病気も俺全然気にしないし、優の悪口を言う奴も俺が許さない。俺はずっと昔のまんまだよ、だから、ね、戻って!」
ごちゃごちゃごちゃごちゃうるさい奴だな!! もう沢山だ、あとでどんなにお願いしても無駄だからな。丁度後ろの連中も近くに来たし、俺は指に力を入れて、引き金を引いた。
バンっ
「いたっ!」
雨で発砲の音が随分小さく聞こえたが、それもまた好都合だ。
小此木は拳銃に撃たれた部位を抑え、一歩後ろに下がって、悲しい目で俺を見た。
なんだ、その顔は。
悔しい、憎い、そう言った感情がどこにも見当たらない、あるのはただ悲しみ、それも絶望に近い悲しみ、まるで本気で俺を信じ、俺に裏切られたような顔だ。
こんなはずじゃなかった。俺はこんな顔を見るために彼を勝負に誘ったんじゃない。
そう、小此木はぎしりと歯を食いしばって俺を呪いながら未練たらたらで死んでいかなければならない。彼は俺を恨み、そして俺に楯突いたことに後悔しなければならない。なのになんだこいつは、こんなあっさり、すっきり死のうとしてんじゃないか!? 俺が信じてきたことを、俺の生きている基盤を、彼は揺るがそうとしているのか!?
いや、何かおかしい。
確かにあいつの体に銃弾を撃ちこんだのに、あいつまだ立っている。雨で濡れているから服着ても出血しているところから血が流れ出るはずなのに、小此木がまるで無傷だった。
人間の体じゃないのか!?
カッパを着てもやはり水は中に漏れてきた。先まで気にしてなかったが、今この情勢で初めて俺はマスクが水でびしょびしょになっていることに気づいた。
またこの感覚だ、気持ち悪い、呼吸が止まりそうだ。頭の中にもう一人の自分がいるみたいで、ずっと俺に話しかけてくる。
うるさいうるさいうるさいうるさい!!
頭が裂けそう、涙も鼻水も雨も分からない液体が顎を伝って、喉のあたりまで、胸のあたりまで滑り落ちてくる。
鈍った思想で何とか再び小此木の体を狙って発砲した。
血が出ない。今度は小此木は眉ひとつ動けずに銃弾を受け止めた。
そうか、そういうことか。きっとあいつがこんなに余裕でいられるのは最初から俺の考えていることを分かってるんだ。俺が購入したこの拳銃もきっといつかあいつに差し替えられたんだ。
しかし、まだ諦めるわけにはいかない。
頭が少し回復したすきに俺は最後の武器を取り出した。使う機会はないと思ったが、持ってきてよかった。
大金を払って買ってきたスタンガンだ。小此木を倒すことが出来なくても、これで痛めつけるには十分だ。
濡れた右手でスタンガンを握り締めた。
もう小此木の顔を見る勇気もなくなった。彼を驚かす余裕もなくなった。自爆装置を付けるピエロのように、震えながらスタンガンのスイッチを入れた。
俺は、到底小此木に敵うことが出来なかった。
スタンガンもすでに彼に改造され、ただの漏電ガンになった。
凄まじい痛みが右手から伝わってきて、衝撃のあまりにスタンガンを投げ飛ばしてしまった。
ああ、痛い、痛いよ、右手の感覚が全部なくなった、またあの日、車にはねられた夜みたいだ。
心がもっと痛い。
――クリスマスイブで街道向こうのイルミネーション下にキスする辰彦と美咲を見るときよりもだ。
「……丈夫? 大丈夫? おい優! しっかりして!」
誰かに呼び覚まされたかと思ったら小此木だった。
どういう神経して喧嘩相手の心配しているのだ?
それはさておき、俺は先にマスクの安否を確認した。
濡れているが、確かにここにある。
もう最悪だ。拳銃も、スタンガンも、俺がインチキしていることがここにいる全員にばれている。
やはりピエロは所詮ピエロ、王子もまた王子のままだ。
まあ、もうこれ以上嫌われることもないだろうし、俺は別に今日のことで落ち込んだりはしない。
すべてが最初の振り出しに戻っただけさ。
ゆっくりと振り返り、俺はこの場から離れようとした時、美咲が俺の落とした拳銃を拾って奇声を上げた。
「何これ!? どうして優ちゃんがこんなものまで持ち込んでるの? 頭おかしいでしょっ!?」
傘を捨てて美咲は小此木の方へ行って彼の怪我を確かめようとする。小此木に触れる寸前で止められた。
「来ないで! まだ勝負は終わっていない!」
「でも怪我が!」
「おもちゃで怪我するものか!」
小此木は美咲に目もやらずに叫んだ。
「もう俺は怒った! 優にお仕置きしなければならない! 美咲! そしてお前らもついてくるな! いいな!」
逆上した小此木は有無を言わせずに俺の左腕をもぎ取るではないかの勢いで掴み、俺を引き連れたまま走る。
見たこともないすごい迫力だ。俺の頭の中に想像したどの怖い小此木よりも、今目の前にある方が断然鬼に似てた。
俺は本当にこんなやつに勝とうとしたのか? なんて無謀な!
ただ小此木の憤怒に呑み込まれ、俺はなす術もなく彼に引っ張られて、その場から去った。
視界の横に美咲が無力に地面に座り込み、こっちの方をぼんやりと見た。
丁寧に手入れされた髪の毛が雨で絡まって、くっついて、平日の彼女とは違う、一種の狂気さえ感じられた。
美咲の姿が完全に建物に遮断される前に、一瞬だけ目があった。
間違いなく、それは嘘偽りのない憎悪の目だ。
グラウンドを抜け、体育館の裏で小此木が止まって、手を放してくれた。
「いきなり怒鳴ってごめん!」
いつもの軽い語調で言った。
今更芝居を売ってなにをするつもりだ。
しかし俺にはすでに強がる気力も残っていない。いくらカッパ着ているからと言って、やはり雨の中にいるのはまずかった。俺は大人しくインドア活動していれば十分だ。
「もう優もネタ切れって考えていいよね?」
俺が黙りこくって地面を見ると、小此木が強引に俺の顔を彼にあわせた。
「じゃあ俺の勝ちでいいよね?」
相変わらず美形の顔だ。そんな俺でも嫉妬してしまいそうな。
「うん」
自分も驚くほど素直に頷いた。
「じゃあ約束守ってもらうよ」
約束? ああ、そうか。自分の勝利に確信しすぎて、負けた場合のペナルティを忘れてしまった。
「じゃあ、言うよ。
――マスクを取って」
!?
小此木の柔らかかった声が急に鋭く擦り切った騒音になり、鼓膜、脳天、魂を貫通した。
ああ。
そういうことか。
偽善な顔しやがって。
やはりこいつは俺を消すために来たのだ。
全身が無自覚に震えだした。寒さでもない、恐怖でもない、まるで物理の授業で振動を解説している条規のように、俺はただ小此木の言葉に震えずにいられなかった。
「俺の目を見て」
カッパの帽子が外され、小此木はそのまま俺の顔を浮かせた。
「ゆっくりでいいから、頑張りましょう」
ピエロは醜い、だから自分の素顔が分からないように濃い化粧をする。俺は化粧こそしなかったが、化粧よりも便利なマスクを使った。彼女以外は誰にも俺の素顔を見せてはいけない、特にこの男にだ。マスクを外せばきっと俺は彼女を失望させてしまう、俺の存在意味さえなくなってしまう。
脱力した腕で小此木の手を振り払う。
「聞いて、優! 俺の話を聞いて! マスクを付けても、付けなくても優は優のままだ、他の誰でもない。どんなに優が変わろうとも俺は昔でも、今でも、これから先ずっと優だけを見つめている。優が笑ってくれればそれだけで俺がここにいる理由になる」
笑う?
ピエロはいつでもどこでも笑っているさ、そういう風にできているんだ。所詮お前は俺をうまく口車に乗せて、指一本汚さずに俺を自滅させようとしているだけだな!
しかし抗えない。どんなに必死に頑張っても体が動かない。
小此木の手が伸びてきて、耳のあたりにマスクの紐に触れた。
「これから一緒に頑張りましょう」
何の対策も思いつかず、俺は目を瞑って、ただ自分の死刑宣告を待った。
一秒、二秒、三秒……
おかしい、反応がない、と思って目を開けたが、小此木の腕が誰かに取られていた。
「そいつを放せ」
「曽我には関係ない」
「関係あるかどうかは俺が決めることだ」
サッカー部部員同士、友達同士の小此木と曽我がすごい剣幕で睨み合っていた。一週間前のこの二人の仲がまるで嘘のようだ。
「今の、本気で言ってるのか?」
「ああ、本気だ」
「どうしても俺の邪魔をする気だな」
「いや、邪魔じゃない。ただお前にはこのマスクを外す権利がないと判断しただけだ」
小此木は俺と曽我を交互に見て、頭を傾げた。
「どういうことだ?」
「こういうことだっ」
この言葉が完全に雨音に消される前に、曽我が一歩前を出て、手を振りかざした。次の瞬間、骨と骨がぶつかる鈍い音だけがして、小此木は頭を殴られ、よろめきながら数歩後ろに下がった。
口の端から血が流れて、それを拭おうとする小此木に、曽我は近づいてぐいっと彼の襟元を掴んだ。
「そんなもんじゃないだろう、佐伯がお前のせいで味わってきた痛みは!」
曽我のこの言葉に打ちのめされたように、小此木は動かなくなった。ほんの一瞬だけ俺のほうを見て、すぐに目を逸らした。
どうやらまた曽我に助けられたようだ。
徐々に体の調子も戻ってきて、小此木が曽我に足止めされている内に、俺はなるべくここから離れようとした。
もう振り向きはしない。
あの二人がこれから喧嘩しようか、和解しようか、俺には関係ない。
俺は一刻も早くあの危険な男の傍から離れなくてはならない。もう勝負などどうでもいい、こいつの命も、仮面もどうでもいい。とにかく俺は今後一切小此木という人間と関わりたくない。顔も見たくない、声も聴きたくない、名前も思い出したくない。
誰もついてくる気配はなかった。
雨のせいで耳が遠くなってるけど、それでも後ろに美咲の叫び声とそのほか何人か口論する声が聞こえた。
ふらつく足で体を運びながら、雨の中をさまよった。どこを見てもぼんやりしていて、今まで馴染んだ街の景色が出口のない迷路に変わったような気がして、俺はひたすら不安に感じた。
目的を失った俺はこれから一体どこへ向かえばいいだろう。
家に帰った後、帽子が脱がされたせいで体がずぶ濡れていることに気づいた。靴の中もぺちゃぺちゃと水が溜まっていて気持ち悪かった。
母が心配そうにどうしたのって聞いてくれたが、答えられるはずもなく、俺は黙ったままシャワーを浴び、着替えたら自分の部屋に籠った。
あの子のために小此木と決着を付けなければならないのに、俺は無惨に破られ、挙句に彼女にしがみつくことしかできなかった。
「もう学校に行きたくない」
「そっか」
相変わらず優しく微笑む。俺がどんなダメになっても、多分彼女は俺を見捨てたりしない。それなのに、俺は彼女に何もしてあげられない。ずっと彼女を守ってるって思ったのに、実は守られているばかりだった。
「小此木ももう会いたくない」
「そっか」
会う度に自分が削り去られていく気がして、自分じゃ自分でなくなる気がする。
「怒らない?」
「ううん」
「あのさ、実は小此木、彼女いるんだ」
「分かってるよ」
ありったけの勇気をかき集めて言ったのに、彼女はまるで当たり前のようにすんなりとこの事実を受け止めた。
苦笑いの後、寂しそうに俯いた。
雨が鞭のように窓ガラスに叩きつけられ、風音と窓のガチャガチャの音、その狂乱な現実こそが彼女の心の不安を映し出しているのではないかと感じれた。
一週間前の俺だったらきっと自信満々に彼女を慰めてやれただろう、けど今は彼女と一緒に小此木から逃げることしかできない。
誰かが帰ってきて、母と会話してるような声が聞こえた。それもやがて壮絶な雨音に揉み消され、何の意味も持たないまま、俺の頭から過ぎさった。
「ね、交代、しよっか」
不意に彼女のこの言葉に目眩がした。早かれ遅かれ、これは俺たちが必ず行う儀式だってこと、俺には分かってる。けれど、俺が何も成し得ず、この残酷な世界に彼女を投げ出すことはできるのだろうか。
それでも彼女は自分からそう言ってきた。半年前、二進も三進もいかず、病室で一人で泣いてたあの子が自ら俺の手助けから独立しようと言ってきた。
彼女はついに小此木のことを断念したのか、それともこんな顔でも小此木と対面する覚悟をできたのか。
彼女の申し出に躊躇してるうちに、ドアがノックされた。
「優、入るよ?」
ぼんやりと聞こえた母の声に、入口のほうへ目を向けると、ドアが開けられ、そして、あの男がそこに立っていた。
驚きのあまりに瞬きするのも忘れた。手探りでマスクを求めたが、それもすでに遅かった。
――あの子の醜い素顔を、あの人は見てしまったのだ。
「曽我君、ゆっくりしてていいのよ」
母は飲み物を卓袱台に置くと、男に言って、外に出た。
曽我大我、どうしてこいつがここに居る、小此木と喧嘩したのではなかったのか!
「ごめん、急に押しかけて。どうしても気になって」
それよりも、こいつ、あの子の顔を見て何とも思わなかったのか?
「き、気になる?」
「怪我、とかしてない?」
曽我がそういうと近寄ってくる。
俺は頭を横に振りながら本能的後ずさった。
「こ、怖くないか?」
「怖い? どうして?」
「き、傷、とか、裂けた口、とか、ぴ、ピエロみたいな笑顔、とか」
「いや全然。ていうかこの前体育の授業でもう見たし」
体育の授業? 校庭五週の後か? やはり俺はマスクを外して吐いたんだ。それを見て、曽我はおかしくなったのだろう。
「俺、その後篠崎に全部吐いてもらったんだ。クリスマスイブのこと。小此木のやつ、彼とならいい友達になれると思ったのに、あんなひどいマネしやがって」
「違うわ。辰彦のせいじゃないの」
今まで黙ったままの彼女が急にしゃべりだして、曽我がきょとんとした。
「曽我君、だね。はじめまして、ていうのも変かな。とにかくよろしくお願いします」
「えっとぉ?」
「佐伯です」
曽我は目を丸くして彼女を見つめた。
「事故のことは残念だったけど、辰彦のせいじゃないの。そもそも美咲から辰彦を奪おうとしたのは私です。だから、これは全部罰だったと思うの」
「全部、覚えてるのか?」
「うん」
「じゃあ自害のことも? あれは本当だったのか?」
曽我が体を乗り出して聞くと、彼女は少し顔を逸らした。
「それは、言えない」
「ではやっぱり鈴村がでっち上げたのか。顔のことも。おかげで学校の連中全部お前のことを怖がってたぜ。ああ、そりゃ失恋で自分の顔にナイフ突き立てる女だもんな、想像しただけでビビるよな。でもどうしてこの女、嘘も真実も分別つかないくせに、他人のことを助けようとする、ちっちゃくて弱いくせに、サッカー部の男と果し合いをしようとする、碌に喋れもしないくせに、元彼の注意ばかり引こうとする。おまけに自分の気持ちを欺いて、元彼のこと大嫌いとかいうし、ホモとか訳の分からないこと言うし」
「ややこしくてごめんなさい」
「いや、佐伯が悪いわけじゃないよ」
会話が止んで、ザーという雨の音だけがした。風は大分弱くなって、いたずらに疲れてぐっすりと眠った子供のように、時々だけかすかな寝息を立てる。
こんな微妙な空間でしばらく沈黙すると、彼女が語り出した。
「私はね、本当は辰彦に感謝してるの。だって辰彦のおかげで、私は自分のことを好きになれた。でもやっぱり私が余計な勘違いするから、辰彦に迷惑ばかりかけた」
「その言い方は狡いよ。俺が小此木だったら、きっとお前をこんな風にしなかったのに」
「え?」
「いや、なんでもねえ」
曽我はそういうと申し訳なさそうに俯いた。
「もし佐伯のが勘違いだっていうのなら、俺のは何なんだよ!」
と床を叩いた。そしてまた頭を上げて、聞いた。
「佐伯は今も小此木のこと好きだよね?」
うん、とうなずく彼女。
「なら仕方ないや。ところで、彼、まだいるの?」
彼? 俺のことか?
「い、いるよ」
と答えてやると、曽我は口の端を上げて笑った。
「ったく分かりやすいんだな。こんな変な奴のどこがいいんだよ」
それは褒めてるつもりなのか?
「もし、もしもの話だけど、小此木がいなくて、俺がホモだったら、付き合ってくれる?」
は?
俺がこの言葉の真偽を確かめるために曽我を見るが、そいつはまじまじと俺を見つめている。
付き合う? 曽我と? 小此木とか無関係に、全人類が俺ら二人だけになっても、その選択肢はない。それにしても、この前俺のこと散々嘲笑ったくせに、実は自分がそっち系だったなんて、超ありえない!
それがツボだったのか、俺はつい堪えず、卓袱台を叩いて笑い出した。
「お、お前だったのかよ、本物は! よ、よくも俺を恥ずかしいことを言わせやがって、きゃははは」
調子に乗りすぎたのか、曽我は怒ったようにぐいっと俺を捕まり、そしてあろうことか、顔を押し付けてきた!
「んぶぅんー!」
初キス! 俺の初キスが男に!!
全力で抗おうとした矢先に、曽我が俺を解放してくれた。
「やっぱホモのままじゃ気に障る。もう一度小此木と話し合ってみるよ。今度は俺が知ってる君のこと全部話す。別にあきらめたわけじゃない、こうでもしないと俺たち全員前に進めないんだ。だからもう少し、君も頑張れよ、優!」
はん!? 下の名前で呼んだな! このホモ野郎!
俺が反応を出す前に曽我は素早く身を翻し、部屋から出て行ってしまった。
なんてやつだ、ピエロの口を見て発情する変態か、こいつは!
ともあれ、こいつのおかげで気持ちが少し晴れた気がした。先彼女に聞かれたことの答えも出てきた気がする。
「やはり、俺ももう少し頑張るよ」
『ピンポン』
『ピンポンピンポン』
パッと目を開けると、辰彦も同時に今やっていることの恥ずかしさに気づいたように、顔を背けた。
「と、とにかく見てくる」
辰彦がそう言って部屋を出ると、私はすぐ衣装を正した。
玄関から声が聞こえてきた。
「原さん、こんにちは、えーと」
「大丈夫か? さっき物凄い叫び声聞こえたんだけど」
「あっ、そのことか! イヤホン付けてたらテレビの音量気づかなかったので、お騒がせしてすみません」
「しっかりしてよ? 危うく通報するところだったよ」
「ほんっとーにすみません」
来訪者が去った後、辰彦は決まり悪そうな顔して現れた。
「やっちゃったね」
「私のせい」
「いや、多分ホラーを選んだ時点でアウトだ。佐伯ぜんっぜん怖がらないから、事前調査失敗だな」
「直接聞けばいいのに」
「そのほうがロマンあるじゃない?」
辰彦は隣に座り、先のこともあって、なんとなく気まずい雰囲気になった。
「あー、あのな」
いきなり手を掴まれた。
「やっぱり先のことはごめん。雰囲気に飲み込まれてさ。男ってこういう生き物だから、だから、えーと、あの、そうだけど! 佐伯のことを大事にしたいから、こういうことはやっぱりもっと大人になってからにしよっ! ああじゃなくて、したいのはやまやまだけど……」
「うん!」
と手を強く握り返した。
――佐伯のことを大事にしたい。
この言葉が何回も何回も頭の中に響いた。もうこれ以上女の子として、恋人として、辰彦から求めるものはまだあるのでしょうか。
あれからあっさり時間が過ぎて、日も沈み、帰らなくてはならなくなった。
別れ際に、急に辰彦に呼び止められた。
「色々ありすぎて、忘れるところだった。はい」
手を突き出し、辰彦は何かを渡してきた。
携帯ストラップのようだ。紐にはステンレスのリングが吊るしている。リングの中にハート状の鈴が飾ってある。
「知り合いに頼んで作った、俺が設計したストラップだ。世界中探しても佐伯のと俺のと、この二つしかない」
「あ、なんか書いてある」
鈴の反面にやたらと可愛い「S.Y.」が刻んである。
「それも俺が書いた、佐伯のイニシャルなんだ」
「ありがとう! でもどうして急に? 今日はなんか特別の日なの?」
「ほら、二年前、佐伯が初めて塾に来た日。だから今日は知り合って二周年記念日なんだ」
辰彦が恥ずかしそうに頭を掻くのを見ると、鼻が酸っぱくなって、涙が浮かんできた。
「あの、実はさ、このハート取り外せるんだね……」
そう言われると、鈴の部分を下に押して、少し力を入れたら本当に取れた。
「えーと、だから、ね……」
「はい、あげる」
多分辰彦の考えていることと被って、私は迷わず手の中のハートを彼の手に渡した。
すると辰彦は顔を真っ赤にして、ずっと握り締めているもう一本の手を出して、私の手の上に開いた。ハートの鈴がちりんっという音と同時に落ちてきた。
「別に複雑な意味はないんだ、ただ、ただ……えぇい、うまく言えねえ!」
「O.T.」という文字を刻んだハートをリングに付けて、思いっきり顔を辰彦の胸に埋めた。
「えっ、どうしたの?」
「辰彦の心臓の音を覚えてるの。鈴の音を聞くたびに思い出せるようになるの」
「大げさだな、聞きたければいつでも来いっての」
しばらくして、名残惜しそうに辰彦から離れると、彼が聞いてきた。
「あのさ、佐伯は今でも俺のこと小此木さんって呼んでるよね。恋人なのに、そろそろ下の名前で呼んで欲しいな」
「なら私も苗字じゃなくて、名前で呼んでほしい」
「オッケー」
「辰彦」
「優」