5、家庭崩壊
なんだかんだ言って、監視は予定通りに続行した。小此木も当然というべきか、前と変わらず全うな学園生活を送っている。俺との勝負のことを全然気にかけてなかった。
そりゃそうだ、俺がどんなに鍛錬をしたって、短時間で小此木に敵うような体にはなれない。カメとウサギの比なんかじゃない、ミジンコとロケットくらいの差が俺たちの間にはあった、
でもそこまでなめられていると思うと、やはりいい気分じゃない。
いくらミジンコみたいな人間と言えとも、プライドはある。相手にされないほど、人は深く傷ついてしまうものだ。
勝負だけじゃない。
仕事も、友情も、恋愛も。
しかし一方、俺がいつも小此木を無視しているのも少しくらいは反省した。少しくらいだけだ。
まあ、彼みたいになれば、周りの一人くらいに無視されても痛くもかゆくもないと思うが。ましてやこの彼が全力でなめている俺になら尚更だ。
ふむ、やはり反省の必要はなかった。
でも勝負が終わるまでは小此木に留意したほうがいい。
こうして二日後の放課後、俺は小此木を尾行した。
明日のことを考えると、今日の夜小此木が動く可能性が一番高いと俺は踏んだ。もし怪しい店に入ったとか、不審人物と接触したとか、そんな場面があれば即刻証拠写真を撮ってやる。そして世界中にこのことをばらして、小此木は正々堂々に勝負もできない、汚い小細工で勝とうとしたクズ人間だと皆に知らせるんだ。
正直言って小此木が本当にこのようにずるを考えているのなら俺的には助かる。だって勝負は所詮あいつをつぶす手段の一つで、もし勝負せずにつぶせるのならもちろん上等だ。俺もくだらない小細工しなくて済むし。こう見えても実は自分がクズだと定義した人間に進んでなるのは、俺も結構いやなんだ。
しかし小此木は全くその傾向を見せてくれない。
友達と別れた後、彼は殆ど寄り道せずにすたすたと歩いた。
男を尾行するなんて、こんな状況じゃなければ本当に真っ平御免だ。芸がなさすぎる。
それにしても小此木の警戒心のなさに感服した。彼は小心者で、一番周囲に目を配っている人間だと思ったが、やはりただの高校生はここまでか。
それとも俺の尾行技術が高すぎたかな?
いや、多分原因は小此木の不用心でも、俺の尾行技術でもない。
俺が地味すぎて、すでに町の景色と同化しているのだ。
言い得てなんか悲しい。
でも待て、ずっと気にしないようにしていたけど、やはり俺は通行人の注目を集めている。
小此木に気を取られすぎて、俺が物陰に隠れる度に周りの人に不審がられている。
これだけじゃない、よく思ったらクラスメイトが小此木と別れた際に全員が俺のほうへ不自然にちらっと見た。
まさか、彼はとっくに気づいているのか?
なるほど。
なら説明がつく。彼が大人しいわけだ。
こんなちゃらい男が男同士だけで帰宅なんて寂しいことするはずがない。そもそもなんで彼女の美咲が一緒にいないんだよ。
すべてが演出なんだ。
俺を騙すために、俺を油断させるために小此木はわざと平凡な高校生を装っていたのだ。
そのことを知って、俺は返って気が楽になった。
なんだ、こいつも俺と同じクズじゃないか。
しかし尾行がばれたからと言ってそこで諦めるわけにもいかない。丁度小此木も家に着いたみたいだし、もうちょっと外で張り込みでもしてみよう。
改めて小此木の住んでる家を見ると、やはりこいつはいい家柄を持っていると分かった。
一戸建てが並ぶ住宅街でもこいつの家が一際目立っている。
外装はまだ新しい、庭も丁寧に手入れされているらしい。建築のセンスもいいが、何よりもそこら全体が家庭というものの雰囲気を醸し出している。
中に住んでいる人の教養が簡単に窺える。
教養が高い――聞こえはいいが、大体古来より国を亡ぼす陰謀者や謀反者はそこらの教養の高い人からなっているのだ。だからはっきり言おう、教養が高いほど信用に値しない。
小此木もまた然り。
しばらくして、二階の一部屋に明かりがついた。
どうやらそこが小此木の部屋のようだ。
そんなこともあろうかと、俺は事前に用意した双眼鏡を取り出した。
レンズを目に当て、小此木のいる部屋を視界に収めた。
天井以外何も見えない。
それもそうだ。高低の差がありすぎる。
もうちょっと高い場所を探そうと見まわして周囲の地形を確認する。
すぐ隣に電柱があった。
これなら高さも調節できるが、手を回してみて太すぎて登れる気がしない。
捜査範囲を拡大して、三十メートル離れた公園の滑り台が目に入った。
あの高さなら丁度よさそうだ、距離の問題も双眼鏡で何とか補える。
公園には砂遊びをしている子供が二人いた。構っている暇はないので直ちに滑り台の頂点に登った。
双眼鏡を掛けて、顔を小此木のいる部屋に向け、そしたら部屋の中で机にうつ伏せている小此木が見えた。
自宅までストーキングされて、そして今も知らないところで俺に見られていることを流石あの小此木も思っていまい、とことんリラックスを享受しているようだ。
ズームして、更に小此木の表情も見えるようになった。
ほー、なんて愛しい眼差し! こんな風に見られた女の子はきっと幸せすぎて死んでしまいそうになるだろうな!
ていうかあいつ一体何を見ているのだ。
彼の視線の向けた先は自分の手だった。
いや、正確に言えば手の中に握っているものだった。
携帯だ。
でも少し違う。
多分携帯の本体ではなく、携帯に繋がっているなにかだ。
思い出し笑いのよう、小此木はにやりと笑った。
ああ気持ち悪い。
こいつは一人の時、いつもこんな気色悪いことをしているのか?
あまりの驚きで俺は滑り台から落ちそうになった。
暗くなり始める前に、子供の母と思わしき人物が現れ、子供たちを連れ去った。俺が子供の遊び場を占拠したことに余程腹が立ったらしく、めっちゃ睨まれた。
ほどなくして晩餐の時刻になった。
俺も腹が減ってきたが、やはりもうちょっと我慢して小此木の動きを確かめたい。
小此木の家は四人家族だったようで、両親と妹がいる。
四人が食卓を囲って賑やか食事をする光景を見るとなんだかむかつく。
俺の家族もみんないいやつだ。
いいやつだけど、父は仕事で滅多に返ってこない、兄は独立しているし、ディナーは大体母と弟三人だ。おまけに弟は俺のこと嫌っているみたいだし、母は俺たちの仲を取り繕うことで精いっぱいだ。
昔はあんなんじゃなかった気がする。
俺の家も小此木家みたいな暖かい雰囲気に満ちていたに違いない。
でもそれがどういう光景か、俺はどうしても思い出せない。
感傷から抜け出せず、俺はぼやけてきた視界で小此木を捕え続ける。
笑い、談笑する小此木はこの世界の美しい物を代表するよう俺の周囲を覆う暗闇の外側で輝いた。
認めたくないが、俺たちの今の立ち位置が現実で、そしてこれから来る時間も多分このことは覆せない。
勝負なんて悪あがきしても、俺は今のままだ。
みすぼらしいピエロ、マスクを取り外すこともできないピエロ。
段々自棄になっていくところに、小此木の表情の小さな変化に気づいた。
――口元が不自然に吊り上げ
――寂しい
そう、彼の笑顔の後ろはそういう類の感情が潜んでいる。その原因は不明だが、今なら言える、あれは全部作り笑顔なんだ!
この発見が俺に絶大な動力を与えた。
ああ、そうさ、俺はピエロのままでもいい、だがこいつは王子の座から引きずり降ろしてやる、その仮面もずたずたにしてやる!
興奮して目眩したか、それとも現実か、一瞬小此木がこっちを見た気がした。
ばれてる!?
ありえない、ここはすでに真っ暗、三十メートルも離れている、彼のいる明るい屋内で俺が見えるはずがない。
でもこの憶測はどんどん膨らみ、結局俺はあの場所に居てたまらずしっぽを巻いて帰宅した。
「どこ行った!?」
それが家に帰って飛んできた一番目の言葉だった。
父が戻ってきてる。
よく見ると、怒っているようだ。
「こんな遅くまで一体どこにいた? 皆お前のこと心配してるって分かってる!?」
靴も脱げずに、父に引っ張られて屋内に上がった。
「お父さん!」
慌てて母が間に入って庇ってくれた。
「もう優が無事に帰ってきたじゃない!」
「だから無事じゃなかったらどうすんだ!!」
あまりの怒られっぷりに俺はひどく後悔した。
確かに俺は家族が待っていることをきっちりさっぱり忘れてしまった。
そうだ、小此木と絡むと、俺はいつもいつも周りのことが見えなくなってしまう。これはおかしいのだ、まるで一種の呪いのようで、俺の日常のすべてを破壊しつくしていく。
「もうこの話はやめよう? 優も帰ってきたことだし、お腹もすいたし、ご飯にしましょ? ほら優もさっさと靴脱いで手を洗ってきなさい」
母が催促すると、俺は靴を脱いで大人しく手洗いに行った。
「あの子怖がってるじゃない。焦るのは分かるけど、折角戻ってきたのに、我慢してよ」
「もうあんな様子見てられないよ」
親たちの小声での対話が聞こえてくる。話の意味はよく分からないが、とにかく重くて、心に突き刺さる。
トイレから出たときにはすでに静寂が訪れていた。
食卓に着き、誰もいただきますもせずに黙々と箸だけを動かす。
ご飯以外のおかずは全部冷え切っている。父が一周間振りに帰ってきたので、母は腕によりをかけて食事を用意した。それを熱々のうちに美味しくいただくはずなのに、いただけたはずなのに、俺の存在で台無しになった。
ごめんなさいも言えない。
ただ冷めたおかずと苦い感情を飲み込むだけだ。
ああ、先小此木家が見せてくれたあの光景が羨ましい。
せめて。
せめて小此木みたいに偽の笑顔だけでも作れたらいいのに。
目が霞んでご飯も喉から通らない。
「携帯はどうした?」
ぽつりと父が聞いた。
「どうしたって聞いてんの!」
また怒り出す父を止めて、母は俺の背中を撫で下ろすながら言った。
「携帯電話どうしたの? お父さん沢山電話掛けたよ?」
「忘れました。家に、忘れました」
母が父に目線を送ると、父は片手で顔を覆った。
「やっぱり学校やめよう」
「えっ?」
「学校やめてもっと大きな病院に行こう」
「お父さん……」
「大きな病院ならきっとまだ治せる方法があるんだ。こんなの、おかしいんだ。俺たちの優はこんなんじゃないはずだ。もっと明るく、よく笑う子なんだ、こんなの、こんなの……」
言葉を続けず、父は拳を握りしめて下を向いた。
泣き声が聞こえてきて、母は震える父の肩を抱いた。
「優も健もちゃんとご飯食べて。お母さんはお父さんと相談したいことがあるから少し離れるね」
そう言って、母は泣いてる父を押しながら自分たちの部屋に入った。
学校やめるってどういう意味だろう。もし本当にあの息苦しい場所を通わずに済むのなら、病院に入ってもいいや。
病院なら小此木みたいなやつはいないからな。
「あんたのせいでこの家はもう終わりだ」
弟は食器を片付け、こう言い捨てて二階へ上がっていった。
うすうす気づいていた。
みんなが不愉快になったのも実は全部俺のせいだ。
俺がおかしくなったからだ。
でもどうして俺はおかしくなったのだろう。
どう考えてもあの事故が原因だ。
そう、小此木が全部悪いのだ。
許せない、俺だけじゃなく、俺の家族も彼によって狂わされた。
早速食事を済ませ、明日の準備に取り掛かる。
自分の部屋に戻ると、彼女はまだ起きていない。
まあいい、そのほうがやりやすい。
この前買ってきた物を鞄に収める。
これらがあればもう恐れることなどない。
明日で、このいかれた因縁に終止符を打つのだ。
ふと開けっ放しの引き出しに眠っている彼女の携帯に目が行った。
ここ数か月ずっと使われていない。
というのもちょっと違う。俺が使わせていないのだ。
急にそれが気になって、俺は再び携帯の電源を入れた。
ものすごい不在着信だ、見るのが怖い。
その発信者の殆どが辰彦という名前の人からだ。
小此木辰彦。
ああおぞましい。
一日一通りしつこく電話掛けてきてる。
そんなに彼女のことが気になるのか? それともただ彼女の苦しむ声を聞きたいのか?
電源を切って引き出しにしまいこむとストラップがチリンっと鳴った。
見たことある。小此木が持ってるやつと同じだ。
ステンレス制のリング、中にはハート形の鈴が嵌めている。よく見ると鈴の裏面はO.T.という意味不明な下手な文字が刻んである。
ったく、こういうの持ってるから小此木にバカにされるのだ。
それにしてもこんなもののために勝負に乗ってきた小此木もどうかしてる。
私が臆病過ぎたでしょうか、辰彦の彼女と衝突するのが怖くて、学校では付き合うことをみんなに内緒にしようと辰彦にお願いした。辰彦はそれはおかしいと愚痴ったが、最後は折れてくれた。
表面上はまた辰彦の付属品に戻った私は、辰彦の彼女に会う度にいやらしい愛人の気分になっていった。
辰彦の彼女は鈴村美咲と言って、非の付けところのない「彼女」だった。
中学から同じクラスだった辰彦を好きになって、一緒の高校に進学して、ようやく勇気が出て告白した。
美咲は何度も告白のことを楽しそうに話してくれた。即オッケーを出した辰彦もまた格好良かったと言った。
しかし秘密裡に辰彦と付き合っていくうちに、もしかしたら美咲より、辰彦は自分のことをもっと好きじゃないかと思った。それが美咲に対してとんでもない罪悪感になり、これ以上欲張っちゃいけないと自分への戒めにもなった。
十二月に入ってすぐ、辰彦は私を彼の家に呼んだ。
辰彦の家族は留守だった。両親は妹と遊園地に行ったと辰彦は言う。
「あっ、別に計算したわけじゃない! 急に決めたんだ! ほら、それに、今日佐伯を呼んだのは渡したい物があるから」
「渡したい物?」
「まだ秘密」
辰彦は意地悪っぽく笑い、まず私を彼の部屋に招き入れた。
部屋はきれいに整理されていて、そして驚いたのは部屋にあった書籍の量だ。
辰彦の成績がいいのは才能があるからだけじゃない。彼はきっと私の知らないところで、私以上の努力をしてきた。
「ん? 気になる本とかある?」
辰彦が飲み物とお菓子を持ってきて、そして本棚に目を釘付けにされた私を見て言った。
「ううん、小此木さん本好きかなぁって思って」
「そんなんでもないよ、全部趣味とか三日坊主で買ってきた入門本とかばかりだよ。結局どれも長く続かず、本だけは残った」
「それでもすごいと思うの。私なんか、教科書しか持ってない」
「私なんか、は禁句だ。自分を生んでくれた人、愛してくれた人に失礼だろ?」
「ごめん」
「あとな、学校の小此木辰彦は皆に好かれるようにフランキーな人を演じているが、家に帰ったら少しでも自分のポジションを保とうとがちがち勉強する。実は打算的で嫌な奴だよ?」
「そんなの、私全然嫌じゃない」
「だろう? 俺も同じさ。佐伯は素敵な人だ、ただ自分の良さを気づいていないだけ」
「なんかこの会話、すっごく恥ずかしい! でも、そっか、小此木さん学校で全然勉強してるように見えないから、私、きっとこの人は天才だなぁって誤解してた」
「いや誤解じゃないぞ、俺は正真正銘の天才だ」
「へー、認めるんだ」
私が少し引いたのを見て、辰彦はにやっと笑った。
「そうだとも。なぜなら昔は人々が俺をこう呼んでいた、天然の斎藤と、略して天斎」
「ぷっ、斎藤じゃないでしょ! 天然なのは認めるけどね!」
「ええ、そこは否定してよ」
二人きりになると、私たちはいつものように漫才じみた会話をする。辰彦がぼけて、私が突っ込む、一時は本当に二人だけでもずっと楽しく生きていけると自信を持てた。
しばらく雑談して、辰彦は映画鑑賞会でもやろうと言い出した。
「実は結構前から見たいと思っていたがね、一人で見るのが怖くて」
「怖くて?」
「ああいやっ、二人なら絶対怖くないはずだ、ははは」
やけに緊張して、テレビに電源を付ける辰彦がどうも怪しく、何か企んでいるように見えた。
一旦映画が再生されると、辰彦は横に目もくれずに鑑賞に集中した。私はますます彼の考えていることが分からなくなった。
辰彦が選んだのは最近話題になっているホラー映画だった。孤島に漂流された主人公一行が島に潜む謎の幽霊の呪縛からひたすら逃げる話だった。
辰彦に気を取られすぎたか、私の想像力がなさ過ぎたか、それとも辰彦が近くにいることで安心しすぎたか、私は始終穏やかな気分で映画を見た。
辰彦の手は所在なさげに床に円を描いているが、それを取るかどうか迷った。
ふいに後ろのクローゼットと本棚の間に隠された何冊の本が目に入った。
『デートの誘い方』に『女性の心理』に『映画の楽しみ方』
そういえば辰彦との出会いもちょうどこんな季節の午後だった。初めて塾に行って、初めて完璧な人間を知って、初めて男の子に憧れを抱いた。すれ違ったまま卒業してもまた辰彦と一緒の学校、一緒のクラス、そして隣席になった。それでもやはり私たちは平行線のままだった。でも今になって、私は知った、私はただずっと逃げているだけで、辰彦が自分の線を私のほうへ近寄せようと努力しつくしていた。こんなに今、私が幸せに満ちているのも全部辰彦のおかげだ。
迷う必要などもうどこにもない、私はただこの腕を抱きしめればいい。
映画のクライマックスに乗って、私は音楽に合わせてぎゅっと辰彦の腕に抱き付いた。
深呼吸して。
「きゃああ――」
「へ?」
「きゃあああ――」
目もあけずにただ叫んだ。
「今のそんなに怖かった!?」
「きゃあああ――」
「ちょっ」
「きゃああああ――!」
「今の絶対わざとだろ!」
「きゃあああ!!」
「今の俺をバカにしてるな!」
「きゃっ!」
「ああああああ!」
「きゃああああ!」
私のバカが辰彦に伝染したように、彼もおかしくなった。最後はただの馬鹿笑いになりはてた。
映画は絶叫の中で終わり、いつの間にか私は床に倒れ、辰彦が私の上に覆いかぶさるような形になっていた。
先の騒ぎがすぎて、胸の鼓動がまだ収まらないうちに、勢いでキスしてしまいそうな雰囲気だった。
「どうして私なの?」
つい最後の理性で小声で聞いた。
「そんなの決まってるじゃない」
「決まってる?」
「好きだから」
そう言って、辰彦は急に塩らしくなって、私の上からどいて、正座した。
「あのさ、佐伯は自分の魅力を分かってなさすぎ。一生懸命で、真っ直ぐで、誰よりも人のことを思っている、こんな可愛い人佐伯以外会ったことがない。いいか? 人は皆宝箱を持っている。宝箱は木箱、鉄箱、銀箱、金箱もあるかもしれないが、箱自体は重要じゃない。その中身こそが宝箱の価値なんだ。で、どうやら他の誰でもない、佐伯が持ってる宝箱には俺の一番好きな佐伯手作りお弁当が入ってるらしい」
「お弁当ってなによ! 前半まで名言ぽかったのに、お弁当で台無しよ!」
「いやね、途中で宝箱を弁当箱にしたほうが分かりやすいかなぁって思ったよ。それにほら、佐伯の作ったお弁当ほんっとーにうまかったよ」
「実は遠まわしで私は木箱って言いたいのね」
「え?」
「くす、冗談。でも、ありがとう」
笑って辰彦を見上げると、彼が優しく頭をなでてくれた。
「それと、この笑顔が大好きだ」
まるで真夏の太陽に照らされたかのように全身が火照っていく。思考も短絡して、辰彦に彼女がいることも綺麗さっぱり忘れた。いいえ、もともと辰彦には彼女がいないかもしれない、私の前では辰彦が美咲と手を繋いだことも一度もなかった。
自ら唇で辰彦の口を塞いだ。
ずるいって言われてもいい、酷い女って言われてもいい。
私にだって、好きな人とキスするくらいの権利はある。
辰彦は最初の一瞬驚いて、そのあとすぐ応えてくれた。
キスに味はなかった、でも甘い余韻がした。頭が真っ白になって、味覚の処理が遅れているかもしれない。
過呼吸が起こしそうに私も辰彦も息を荒くさせ、まだ未開拓の領域に足を踏み入れようとする小ウサギのように心臓をパクパクさせた。
気が付いたらまた私が押し倒され、先の体勢になった。
「優しく、して」
「いいの?」
「うん」
目を瞑って、上着のボタンがゆっくりと外されていくのを感じる。
この先どんなことになっても考えないようにした。辰彦がしたいのなら自分の全部をあげてもいいと思った。




