4、嵐作戦始動
小此木はその次の日学校に帰ってきた。クラスの全員が盛大に祝いをした。
たった入院二日でそこまでやるとは、友情万歳って泣いて叫ぶべきか? それとも俺が自演乙って皆の気持ちを代弁したほうがよろしいか?
冷やした目線で奴を睨むと、小此木は目を逸らした。美咲もむっとして、いつものべたべたの感じではなかった。
昨日病院で、俺が出た後、小此木と美咲が一体何を話したかは知らないが、この様子だと、どうやら喧嘩したらしい。
当初の目的とは随分離れたが、まあ、これであの二人も少しは大人しくなるだろう。
一日中、小此木は俺に近寄らなかった。時々監視されてるような気もしたが、前のと比べれば全然気にする必要のないレベルだった。おかげで誰にも邪魔されずに、俺は小此木を倒す計画をじっくり練ることが出来た。
名付けて、嵐作戦。
残るのは必要な道具を揃うだけだ。
日曜、来週の作戦準備のために街に出た。
一通りリストに書かれたものを全部買って、時間は丁度正午過ぎになった。
近くのレストランを探している途中、寅ラーメンと言うラーメン屋を見掛けた。
曽我の話によれば、確かに彼の父が経営しているラーメン屋もここら辺だった気がする。それに、寅ってよく考えたらトラと言うわけで、タイガー、大我と何らかの関連があるかもしれない。
ちょうど腹もすいてきたし、俺はとにかく入ってみることにした。
いや、善人になろうなんて大それたことは微塵も考えてない。ホモ疑惑を掛けられたことを何とかしたいと思ったのは否定しない。
「いらっしゃいませ! お一人様ですか? もしよろしければカウンター席へどうぞ」
思ったよりも席は埋まっている。ていうかカウンター席以外ほぼ満員じゃん。こんな店が潰れそうだなんて、日本もう終わっちゃうじゃない? やっぱここは曽我家の店じゃなかったのか?
そんな疑問を抱きながら席に着く。とりあえず今は腹を足すことだけを考えよう。
メニュを眺めて、一番無難そうなとんこつラーメンにした。
「とんこつラーメン一丁入りまーす」
「あいよ」
どこかで聞いたような声だ。
頭を上げると結構手馴れな動きでめん玉をゆでる曽我大我がいた。
やはりここだったのかい!
軽くガッツポーズを作ると曽我と目があった。
「なんでお前がここに居んだよ!?」
友達を連れて来いって親父に頼まれたのはお前じゃないか! いやっ、こいつが友達だなんて認めたわけじゃない、断じて。
「ていうか、よく一人で入れたな」
曽我は作業をこなしながら俺のほうへ寄ってきた。
「で、なんか用でもあるの?」
仮にも俺は客なんだ。この店が潰れそうになった原因はお前のその態度だな! 曽我大我!
俺がしかめっ面で曽我を睨んでると、彼の後ろからでかい拳骨が現れて、曽我の頭を思いっきり叩いた。
「あいてっ!!」
「バカたれ! お客様に向かってなんて口聞きやがる! もうお前など要らん、今日はさっさと上がれ!」
「お、サンキュー親父!」
そう言って曽我はすでに俺の前から消えた。そして二分後普段着に着替え終わって、俺の隣の席に座った。
「チャーシュー麺、チャーシューたっぷり!」
「あいよ」
注文を終えると、曽我は頭を傾げてずっと俺のほうを見た。
「変な食べ方だなあ」
そりゃどうも。
他人の前で食事を取るのは正直言って、あまり好きじゃない。それは、マスクをずらさなければならないからだ。こうなると、どうしても自分の正体がばれるリスクが大きくなるわけだ。だから食事中はなるべく俯いて、箸を握る手も、空いてる手も顔の側面を塞ぐようにしている。それがいわゆる変な食べ方だろう。
「んで、うちの味、結構いけてるっしょ?」
曽我の注文したやつが運ばれた。こいつが食べ始まると少しだけ静かになった。
この時店の中はすでに行列ができている。どう考えても潰れる寸前の店ではなかった。それにこの味も確かに癖はあるけど、食べれば食べるほど病みつきになりそうだ。
食べ終わった後、俺はマスクを元の位置に戻して、そして一応気になってることを聞いてみることにした。
「嘘だな」
「は?」
「店が潰れるって」
「ぷぅゔっ、けほ、けほ」
すると曽我はめん汁を噴き出した。
「けほ、お前、その話信じてどうする? お前らのために吐いた嘘じゃないか!」
「あん?」
「お前の頭には花が咲いてんだな。ったくどんな思考回路してるんだよ。なんか変なのが入ってきたなぁって思ったら……って、おい、まさかそれでうちに来たのかよ!?」
俺が黙ると曽我は急に塩らしくなってきた。
「えと、なんか、すまん! わざわざ来てもらったのに。あ、今回は俺が奢るよ! てか奢らせて! これでチャラにしよう、うん」
と、勝手に自己完結したらしい。
「お前、実は結構いい奴だね」
付け加えるように曽我は俺を見ながら意味ありげに言った。
全く何なんだよ! 貶したり褒めたり! どうせ俺はバカだよ、簡単に騙されちゃうんだよ! これで満足か?
こんな店、さっさと畳んじまえ! チャラにしたい? いいえ、そうはさせない。
俺は伝票を鷲掴んで会計を済ませ、店を後にした。
もう二度と来るか!
しかし十メートル歩いたところで、買い物袋が店内に置き去りにされていることに気づいた。
戻るかどうか迷ってる最中、曽我が袋を掲げて店から飛び出た。
「ごめんごめん、調子に乗りすぎた! もうほんっとにこの通ぉーり」
ぺこりと曽我は頭を下げた。
まぁ、こいつもわざと嘘をついたわけではない、いわば善意の嘘だ。別に許してやらなくてもないわけじゃなくもない。ふむ、ここは寛大に処置しよう。
俺は曽我の手から袋を受け取った。
それが許しのサインだと分かったらしく、曽我もすぐにいつもの調子に戻った。
「これからどうするの? もしよかったら付き合うぜ。おかげで店番から外してもらったしね」
「帰る」
作戦必要なものは一応揃ったし、これ以上ここに留まる理由もなくなった。
「だったら送るよ」
好きにしろ。
俺が歩き出すと曽我は少し斜め後ろについてきた。先のことが気に病んでいるのか、ずっと喋るのを我慢してるように見えた。
電車に乗って三駅、下りてから歩く五分、曽我がついに沈黙を破った。
「俺さ、この間色々な人に聞いてきたんだ、お前ら一年の時のこと」
どんだけお節介なんだよ、お前は。
「小此木は、俺も訳分からないんだよっていうし、鈴村には聞けそうにないし、お前はこんな調子だし。で、あの篠崎早百合っていう子に聞いてみたわけさ。どうも訳ありっぽい反応だったよな」
早百合? そういえば、俺が小此木のメッセージを捨てたとこを早百合が見たって美咲に言われたっけ。
「お前が入院してる間に自害だの、精神崩壊だの、こんな噂を流したのもあの子だったそうだ。全くひどい話だ。そりゃ、確かにお前は変わった行動を取るし、それでもちゃんと筋は通ってると俺は思う。んで、お前が事故に遭った日に何をしてたって篠崎に聞いたらそいつが慌てて逃げたのさ」
つまり、早百合が半年前の事故に関与してるってこと? 珍しくも曽我が俺の興味を引くような話をしてくれたので、少しだけ彼のことを見直した。
「な、正直に答えて、お前、今小此木のことを一体どう思ってるの?」
「大っっっっ嫌いだ」
即答だった。
「はぁ、だろうな」
どうも腑に落ちない反応だった。誤解を解くために、俺は腹を括った。
言ってやる。
「いいか? お、俺はホモなんかじゃない。ちゃんと好きな子、いるんだ」
「ほー? 誰だい? 言ってみろ」
「さ、佐伯さんだ」
言った、言ってやった!
俺の答えに相当驚いたらしく、曽我は口を半開きにして、暫く言葉も出さなかった。
「さ、佐伯さん? どこの佐伯さん?」
「そ、曽我も、いつも彼女のことをく、口にしてるじゃない」
よし、これでホモ疑惑は完全に消えた!
ちょうど家に着いたので、ここで区切りよく曽我とさよならした。
「優? 外の男子、誰?」
と母。
「クラスメイトの人」
「ずっと外に立ってるよ?」
「度肝を抜かれたんじゃない」
月曜の朝、俺は一生一代の決定を実行する。
小此木が自分の席に着くなり、俺はトンっと立ち上がり、自ら彼のほうへと近づいた。
クラスの連中は俺の異常な行動に気づき、離れた場所でひそひそと議論し始めた。
普段おとなしく見える彼らは実は誰よりも混乱を望んでいる。この変わり映えない日常に刺激がほしいと願っている。俺が奇行を走るのと、どこかのいじめられっ子がストレスで自殺する新聞と、彼らはきっとぎゃあぎゃあ騒ぎながら同じ気持ちで傍観するに違いない。
「優ちゃん、どう、したの?」
一人だけが傍観者の輪から出て、俺の進む道に立ちふさがった。
八の字になった眉をぶら下げて、心配でたまらないと言った表情で美咲は俺の腕を取ろうとする。この女は俺と二人きりの校舎裏であんなに切れかかったのに、病院のときといい、今といい、やはり彼氏の前では温厚な大和撫子のイメージを保ちたいらしい。
彼女を押しのけて、俺はさらに前へ一歩踏み込む。まだどうしたらいいかわからずに席に座っている小此木を見下ろす形になった。
思考の余裕を与えるな、どんどん攻めて、あいつの精神防壁を崩すんだ!
「ゆ、優? なんか様子がおかしいよ?」
とんっ!
俺は右手で小此木の机を強くたたいた。そして手の中の果たし状を小此木に突き刺す。
興奮して右手の傷も忘れた。叩いた振動でびりびり疼いたが、なんとか耐える。
「小此木辰彦! お前にし、勝負を申し込む!」
まだ痛む右手でびしっと小此木を指さす。
すると周囲の空気が一変した。
「勝負?」
五里霧中に俺を見上げる。
「お前をぶっ倒す!」
もともと敬遠されていた俺だが、この発言でついクラス全員を敵に回した。
なんだこいつ? と外野からこう言ったような視線を飛ばしてくるが、そんな奴らのことはどうでもよいのだ。
俺の目的はあくまで一つ、小此木を精神的に追い込むことだ。彼がいつも見せている余裕がなくなればきっと仮面をはがすのも楽になる。
人間は一番困っているときこそ本性を現すのだ。
小此木の反応を伺う。
彼はゆらゆらと立ち上がり、まるで空でも落ちてきそうな目で俺を見ている。
かなり効いた。小此木は間違いなく動揺している。
「優の考えてること分かんないよ! 一体どうしちゃったっていうんだよ!?」
頭を抱えて目を瞑る、よほど苦痛に感じているようだ。
しかし彼はまだ勝負を承諾していない、さらなる刺激が必要だ。
「この弱虫が! ビビッて勝負もできないってのか? なら要求は簡単だ、お前の携帯ストラップを寄越せ」
何度も練習して、一気に長いセリフを言った。所々が棒読みになってるのが少し気になるが、小此木の歪んでいく顔を見ると意思はちゃんと伝えたのでよしとする。
「やだっ」
俺が手を伸ばすよりも先に小此木が断った。まるで駄々っ子みたいだった。
なんとなくこのストラップは彼にとって特別な意味があると思ったが、どうやら当たりのようだ。
「そんなにこのストラップが大事なのか? な、なら観念して正々堂々と勝負することだな」
刺激が功を奏したのか、小此木の表情が少し変わった。疑念が吹っ切れたように真っ直ぐ俺を見つめた。
「優が勝負したいのなら、しよう」
小此木のこの言葉に野次馬が不可解そうな声を出した。
狙い通りだ。これで世論的に小此木は俺より劣勢になった。全能な彼は出来損ないの俺の挑発に乗ったのだ。次の勝負も、たとえ俺が負けても、まあそれはそれで誰もが予想していたことだが、俺には何の悪影響も来さない、もともと最悪な立場に俺は立っているだしな。でも逆に考えたら、そう、例えば小此木が負けた場合、彼の長年築き上げてきた地位、名声、それら全部を俺は一瞬で叩き潰せるのだ、もちろんその仮面をもだ。
「さすが小此木辰彦、男の模範だ。い、いいか? 三日後放課後で校舎の裏庭、来なければ負けとみなす、ストラップも頂くわ」
小此木は携帯を握り締め、頷いた。
ずっと横で見ていた美咲は心配そうに小此木の腕に手を添え、
「タっくん、あんなストラップ、優ちゃんに譲ればいいのに、どうしてバカなことするの?」
と言った。
「ごめん、美咲にはきっと分からないよ、これは俺と優二人の問題だ」
無理矢理自分の手が引き離されていくのがショックだったらしく、美咲はかすかに唇を震わせた。
どうやら小此木は他言無用俺との勝負に乗ってくれたようで、俺はマスクの下で声を出さずに盛大に笑った。当然の如く、俺が笑っていることを誰もか気づくはずがない、そしてこの勝負の真意をも。
目的を達成したので、俺は自分の席に戻ろうとする。
「待って」
小此木に呼び止められた。
「一つ、一ついいか?」
立ち止って、うんざりした表情で小此木を睨む。
「俺が負けたら優の言うことなんでも聞くから、でももし、もし俺が勝ったら一つだけ優に答えてほしいことがある。約束して、俺が勝ったらどこにも逃げないで正直俺の質問に答えて。いや、今度は優が逃げても必ず俺は追いつけるからな!」
「いいだろ」
まあ、約束してやろう。こちらも多少なリスクを背負ったほうがインセンティブにもなるからな。もともと三日後で本当に俺に勝てるとでも思っているのか? この俺が何の計画もなく三日後の放課後を選んだとでも思っているのか?
万が一、万が一俺が負けても質問次第で俺は黙秘権を使うがな。
俺が席に戻った途端、教室がいつものように騒ぎだした。いや、いつも以上だ。
教室に居る殆どの人が小此木を囲って、彼に質問を投げた。
平日根暗くて非行動的な俺が、少しでも行動を起こせばこれだけのインパクトのある大事件になるとは、俺自分も驚いた。
脱ぼっちなんて、俺が思えばいつだってできちゃうんだな。
少々己惚れているところに美咲が寄ってきた。
見慣れていた穏やかな顔ではなく、剣幕張って聞いてきた。
「私に見せつける気なの?」
何のことだろう。見せつけてきたのはいつもお前のほうじゃないか、その演技とやら。
聞こえないふりして、俺は教科書を適当に手に取って開いてみた。
すると美咲が通路側で俺の座高に合わせるようにして、しゃがんだ。
「優ちゃんは私のことが嫌い? そうでしょう? なら直接私に向けてきなさいよ、どうしてわざわざこんなひどいことばかりするの?」
「い、言ってることの意味が分からん」
そう答えると美咲が一遍の曇りもない透き通った眼差しで見つめてきた。簡単に男を惚れさせてしまいそうな真摯な顔だ。
「ね、今私の前に座っているのは一体誰?」
どういうことだ?
心の中で彼女の質問への答えを探ってみた、だけどそんなの心当たりがあるはずもなく、俺は迷った。
何かを言い返そうとした時に、美咲がジワリと自分の顔を近寄せてきた。
本能的に後ろに引いて距離を取る。気恥ずかしいとかそういうんじゃない。
あの円らな、綺麗で大きな目が怖いのだ。
「タっくんは誰にも渡さない。お願いだから、もうこれ以上何もしないで」
俺の耳元に小声でささやいて、美咲は立ち上がった。もう一度彼女を見ると、美咲はすでに従来のあの可愛らしい笑顔に戻っていた。
俺に向けて小さく手を振ったあと、後列の自分の席に戻った。
先まで緊張で気づかなかったが、いつの間にか俺の右腕は手形の痕ができていた。
古傷と相まって、暫くやけどしてしまったように痛んだ。
できれば美咲が先自分に見せたあの態度も彼女の演技であってほしい。
必要な時には冷酷に振る舞うこともまたこの世の処世術の一つだ。だから時々彼女があのような行動を取っても至って正常。
しかし美咲のことはどうあれ、俺が決定したことは敢行するのみだ。なにせ、この決定は俺の、そしてあの子の、これからの高校生活のすべてが賭けているからだ。
先、小此木に挑んだ勝負を三日後にしたのは戦術的を有利にするだけではない、戦略的に小此木の実力を測る時間を獲得するためでもあった。
己を知り彼を知らば、百戦殆うからず。
ああ、なんて素敵な言葉! この孫子とやら人のお蔭で、俺は自分の言い出した勝負に勝てる確信が持てた。
――俺は小此木をよく知っている、そして彼は俺をなめている。
普段の俺を見ればなめられて当然と、誰もそう思うだろう。けれど俺の病弱な体はただのカモフラージュに過ぎない。何の努力もせずに勝てる相手だと小此木に信じ込ませるための見せかけだ。俺の身体能力の低さも正しく今この策略がうまく働くために神様が調整したに違いないと俺は確信した。
そう、小此木はきっと丸腰で応戦してくる、彼にはその自信と、そして能力がある。しかし道具使っちゃいけないなんて俺は一言も言っていない。少々公平性に欠けるが、ばれないようにすればこっちのもんだ。
とは言ってもまだ油断は許さない。だからあらゆる手段を使って、俺は小此木に要らぬ小細工をさせないように監視する。勿論彼をもっと「知る」ためにも兼ねて。
体育の授業。
腕の不自由さも顧みずにグラウンドに出た。
余程俺の出現に驚いただろうか、体育の先生が俺を見て言葉も出なくなった。
すでに集合の時間も過ぎたのに、男子たちはまだ整列していない。多分彼らはただ目の前のことをどう対処していくのか分からないだけだ。
それでも顔色一つ変えず俺は彼らにとって変なことをする。
頑なに小此木の右となりに立ち、整列の邪魔をする。
全員が俺の存在に気に入らないらしく、いらいらが見て取れるようになってきた。
まあ、そんなの俺の気にすることじゃないが。
「えーと」
体育の先生はまるで俺を見るのが初めてのように名札を確認しながら俺の名を呼んだ。確かに半年近くの入院生活で、そして退院しても碌に体育の授業に出なかったが、教え子の名前を忘れるだなんて、いくらなんでもひどすぎる。
渋々と俺は手を上げた。
「どういう、心境の変化かな? それとも遅れたエープリルフールの冗談かな?」
先生は肩をすくめて、アメリカンジョークを言ったつもりのようだが、ちっとも笑えない。
前列の男子二人が先生に近寄り、彼の耳元で何かひそひそとしゃべった。
すると先生の表情に余裕がなくなり、つい目も俺から逸らした。
「コホン、ああ、先のことは気にしない。では授業を始めます。と、その前に、えーと」
必死に頭を掻いて、先生は再び視線を俺に向けた。
「君、その、せめて最後列に並んでもらえるか?」
この先生の言動に不満を感じたが、俺とて空気くらい読める。ここは大人しく彼の言うとおりにしよう。
俺が離れて行くのを見て、小此木は何かを言おうとしたが、しかと無視してやった。
俺の目的はあくまでも彼の監視と調査であって、彼に情報を漏らすようなことは全力で阻止すべきだ。そのために彼のほうからの接触は問答無用無視に徹する。
しかし偽情報なら喜んで流し出す。
準備運動でペアストレッチすることになった。俺と組みたがるやつはいないと思うが、小此木は多分俺と逆だ。だから小此木と組むチャンスを確保するためにはじめる前に彼のいるほうへと向かった。
他の人たちは相変わらず器用に道を空けてくれる。
そして驚いたのは、小此木の周りが真空状態だってことだ。
さすがに俺も少しは戸惑った。
こいつ、クラスでは人気高そうなのに、実は男子に嫌われているんじゃない? だってさ、このぼっち様、俺と同じだぜ。
まあ、同じぼっちでもあっちは女にモテすぎた反動みたいなもんで、俺のとは断じて違う。
「やっ、やあ」
教室の小此木とはちょっと違った爽やかで、照れくさくて、恋でもしているかのような挨拶だった。
俺が女だったら百パーセント惚れていたぜ。
なーんてな。
無視して、丁寧に「よろしくお願いいたします」とお辞儀をした。
小此木は少し困っているようになって、それでもすぐに「よろしくお願いします」と返した。
小此木は俺より頭一つも高い。身長差のせいで、俺はストレッチでかなり苦労をする、特に背中合わせストレッチの時。でもそれも全部計算済みだ。
俺は弱い、小此木を背負うこともできない。俺は軽い、小此木が思えば簡単に俺を投げ飛ばせる。
そのことを小此木に知らせてほしかったのだ。
もちろんそれだけじゃない。
俺はわざと疲れたふりしてストレッチをやめた。そして小此木がまだ背を向けているときにぎゅっと彼の二の腕を握った。
「えっ!?」
と驚いて間抜けな声を出しても無視する。
「おお、き、筋肉だ、硬い!」
と俺は自分の二の腕をつつきながら感心したように呟く。
小此木が呆気にとられているうちに彼のズボンを捲り上げ、健康なふくろはぎが見えた。形からして力ありそうだ。
対照的に、俺は自分のふくろはぎをも見せた。病的に白くて、自分の体重以上なものを負担するのが到底不可能のような細さだ。
「触ってみて」
俺がこういうと小此木は固まって動かなくなった。
どこまで疑い深いんだよ、お前は!
仕方なく強引に彼の手を取って自分のふくろはぎを触らせた。
「ほら、全然筋肉ないよ?」
目を上げると、小此木が頭を充血させながら息を荒くしていた。
「同じ人間なのに、こうも作りが違ってくるんだね」
「う、うん」
なにが「うん」だ! むかつく! 病院に入れられたからこんなにも縮んじまったんじゃねえか、お前は自分の犯した罪さえ覚えてないらしいな!
さらに太腿も見せてあげようと思ったが、腕の動きが後ろから伸びてきた誰かの手に止められた。
「やめとけ。皆が見てる」
曽我の声だった。
振り向くと言われた通り、男子全員がにやにやとこっちに向けて笑っている。
「準備運動終了。おいそこの三人、聞いてるのか?」
体育先生の声と同時にひそかな笑い声も聞こえた。
どうやら俺の貧相な体を見てクラスの連中は面白がっているようだ。
呆然としている小此木を置いて、俺は先自分がいた位置に戻った。
筋肉のことを差しおいても、俺の体の小ささは多分クラスで一、二位を競う。現に、最後列に並べって言われて、それが何の違和感もなくここが自分の身長に一番ふさわしい位置だとすぐに分かった。そして骨の付き方、まるで他の男子たちと違う。その分だと女子の中に混ざっても見分けがつかないくらいだ。
まっ、多分俺は入院してなかったとしても、体格は今のままだ。
小此木のほうを見る。
先までぼっちだった彼の周りは何人か仲良さそうに彼に話しかけている。
あの人たちの態度がどうしてこうも変化しやすいのか、俺には理解できずにいた。
ふと見ると、小此木と曽我以外、誰もが仮面をしながら俺に笑いかけてくる。
気色悪い。
ああ気色悪い。
どいつもこいつも何かを企んでいやがる、やはり彼ら全員が小此木とグルだったんだ。
何を信じ、何を疑い、一瞬自分の精神世界が崩壊していくような気がした。自分の周りは敵意だらけだとこれ以上ないほど認識した。
結局、俺の味方は彼女だけだ。彼女以外の者はすべて信じちゃいけない。
その後、校庭を走らせた。体育の先生が一度十週と言い出して、俺を見て何かを思案したようで、五週と言い換えた。
要らぬ気遣いだ、と思えたのも最初の二週、俺の体力ではおそらく五週目以降はたとえ這いつくばってもかなり厳しくなりそうだ。
少しだけ体育の先生に感謝した。
なんとか最後まで走りぬいても、運動不足、それとも俺はそもそも運動なんかできないように仕上げられていたのか、止まった瞬間吐き気がした。
いや、多分俺は吐いた。あんまりの気持ち悪さでマスクをもぎ取った、ような気もした。だけどそのあとのことはよく覚えなかった。
再び目を開けたときはすでに横になっていて、目に映っているのも青空ではなく、白い天井だった。
反射的にまずマスクの装着を確認した。
よかった。
どうやら最悪の事態は防いだようだ。
俺としたことか、小此木を攻めることばかり考えて、危うく足元をすくわれるところだった。もうちょっと慎重にいかなければ。
「起きた?」
聞き慣れた優しい声につい体が反応してしまう。
しかし声の主を確認できた瞬間、心が乱れてしまった。
小此木だった。
どうしてこいつがここに? 今こいつ何をしようとしている?
ちょうどこの前病院で小此木にしたことを思い出すと悪寒が全身に走った。自分が一時の興奮でしようとしていたことがこれほど怖くて、恐ろしくて、絶望的なことだったと今更思い知った。
身を縮めて小此木から距離を取って助けを呼ぼうとした。
「しー」
と彼は指一本を立ててジェスチャーを作った。
「となりに人が寝ている」
言われてみれば確かにそうみたいだ。少しだけ落ち着いて、そしてようやく今自分は保健室にいることを確認できた。
「なんでこっちの授業に出たの? 本当にびっくりしたよ」
意味不明の笑みを浮かべて小此木が言った。
いつもそうだ。
こいつはいつも善人のように優しく接してくる、傷つくのはいつも俺と彼女のほうだ。なのに、何も知らないふりして傷口に塩を塗りたくる。
小此木が俺の左手に触れた。
気持ち悪いが手が固まって逃れられない。
ああ、どうしてこんなに苦しい。
気が付いたら俺は泣いていた。
悔しい? 寂しい? 憎い? 怖い?
そんなんじゃない。
ただただ切ない。
心の声が叫ぶ、だけどよく聞こえない。
マスクが邪魔で邪魔で今でも千切りたい。
小此木を追い込むつもりだったが、俺は自分を追い込んだ。
一体どうなってるんだ。
俺は一体誰なんだ。
鼻水をすすり、顔をそっぽに向いた。
「あ、ごめん」
小此木はそう言ってもきっと腹の中で俺の失態を嘲笑っているのだ。
手が解放された。
「もう何も聞かない。俺が優と勝負するまで全部お預けだ。だから安心して、皆にも言っておくから、ね?」
安心? 何に対してのだろう?
いいか? お前が目の前にいるだけで、俺は安心できない。
この心臓が破裂しそうな感覚は全部お前のせいだ。
だから絶対に、俺はおまえを倒す。
そうひそかに決心した時に、仕切り布の後ろからまた一人が現れた。
「先生に伝えておいた……もう起きたのか」
「あ、曽我、ありがとう」
小此木は入ってきた人にそう言うと、また俺のほうに向いた。
「曽我が運んでくれたんだ」
何とか上半身を起こして礼を言おうとしたが、曽我が片手を上げて顔を逸らした。
「何も言わないで。俺、只今とんでもない過ちを犯してしまったかもしれない。一生分の後悔をすることになるかもしれない。でも謝ったりはしない。だから、何も言わないで」
「曽我、どうしたの、さっきから?」
「小此木には悪いが、何も言えない」
従来の曽我と打って変わって、今の彼は陰気くさい感じもした。それを感じ取ったのか、小此木も気になって、彼のほうに向いた。
しかし曽我は小此木の行動に気にもせず、窓の外を眺めていた。ふと、曽我が口を開いた。
「な、小此木、一つだけ聞きたい。お前は佐伯のことどう思ってる?」
「好きだ」
「そ」
曽我は簡潔な言葉だけを残して、保健室から出て行った。
そんな彼よりも、小此木の回答が俺を大きく動揺させた。
こいつ、まだあの子のことを諦めていない。まだ嘘をついて、あの子を苦しめようとしている。
させない。
どんな手を使っても、小此木からあの子は必ず守る。小此木があの子と会うのはもう二度とない。
そう、こいつを倒して、あの子が外に出ても大丈夫な素晴らしい世界を作るのだ!
気が付いたら辰彦に後ろから抱きしめられていた。
分からない。
辰彦は何を思い、何をしようとしているのだろう。
戸惑いながら顔を後ろに向けた。
そこには真っ赤になって目をきつく閉めた辰彦だった。
「よかった。ずっと嫌われてるのかと思った」
「えっ」
「俺、こんなにアピールしてるのに、佐伯はちっとも応えてくれないからきっとダメと思った」
ダメって。
「好きだよ。俺も佐伯のことが好きだよ」
「えっ」
夢を見ているのだろうか。
こんなにも近くて、温かくて、心臓の音も聞こえそうで。
夢じゃないなら冗談だろうか。
振り返り辰彦の顔を良く見て確かめようとしたが、そのまま辰彦が私を彼の胸におさめた。
「佐伯、好きだ。俺と付き合ってくれないか?」
私は俄かに自分の耳を疑った。
いいのでしょうか。
こんな簡単に幸せを掴んでいいのでしょうか。
「私が小此木さんのそばに居てもいいですか?」
「なんでバカなこと聞くの? そばにいて欲しいから付き合ってくれって言ったんじゃないか」
耳元で囁かれた言葉がとても優しく、私を夢見心地にさせた。
うん、と、つい返事をしてしまった。
手を辰彦の背中に回して、胸の鼓動が一層高まった。
あ、聞こえる、辰彦も私と同じように心臓をドキドキさせている。
傷だらけで壊れそうな心がどんどん修復され、満たされて行く。
辰彦から告白されることは夢にだって一度も見たことがなかった。
少し落ち着いて、私たちは体を離れて、屋上の貯水タンクの石台座に腰をおろした。
「あぁ、なんかずっと空回りしてるような気がしてきた」
「うん」
「でも、佐伯は俺のこと好きって言ったけど、全然そんなそぶり見せてくれなかったよ?」
「心の中にしまってるもの」
「で、いつから好きになった?」
「分からない。多分高校に入って初日」
「ああ、俺が挨拶して急に逃げ出した日? じゃあ俺のほうが全然先だな」
「えっ?」
「俺は中学二年、佐伯とカラオケ行ってからずっと好きだぜ」
「えっ!?」
「ほら、あの時、始めて佐伯が笑ったのを見て、俺驚いたよ? こんな綺麗に笑う人もいるんだねって、あれからずっと佐伯から目が離れなくなってた」
「やっぱりさっきのはなし!」
「ん?」
「やっぱり私も塾の時から小此木さんのことが好きになったと思う」
「俺はカラオケに行く前から佐伯のこと気になってたぜ」
「私は塾に入ってから小此木さんのことが気になってた」
「でもあの時佐伯全然俺のこと構ってくれなかったじゃない!」
「小此木さんこそ、あれからカラオケずっと誘ってくれなかったじゃない! いっぱい歌の練習したのに!」
「えっ、佐伯が嫌がるからてっきりああいうの嫌いかなぁと思って」
「うぅ」
ムキになって辰彦と口論見たいなことしたが、一旦終わった振り返ってみれば、それが可笑しくつい笑った。
「何だよ、結局最初から誤解してただけじゃないか! もう二年も時間無駄にしちゃった!」
急に声のトーンが落ちたと思ったら、いつの間にか辰彦は瞬きもせずに自分を見つめていた。
「やっぱり佐伯は笑う時が一番可愛い」
この言葉はもう散々辰彦に言われてきたのに、まるで今始めてその言葉の意味を理解したかのように、心をくすぐられた。
「ありがとう」
帰ったらいっぱい笑顔の練習しよう。
屋上の扉の向こうから物音がして、私たちは急に気恥ずかしくなり、慌てて屋上を出て帰宅した。
家で部屋にこもり、私は屋上の感動をもう一回噛み締めた。
私は幸せ者だったのだ。
その幸せが身近すぎて、あっさりすぎて、今までの悩みが全部バカバカしく思えてきた。
鏡を見て笑った。
にやけて、締まりのない顔だった。
こんなに可愛かったのか?
更に笑みを作ったが、それが可笑しくて、私はつい嬉し泣きしてしまった。
神様はこんな私にもギフトを用意してくれたんだ。
ふとあることを思い出した。
もし辰彦が言ったことが全部本当なら、なぜ彼女を作ったのだろう。
その質問に、私の気持ちは少し冷めた。
折角辰彦との関係が前進したのに、こんなくだらない疑心暗鬼で足を引っ張られてたまるものか。
案外、私は自分の思ったような欲張りの人間ではなかった。
私は、辰彦が見てくれればそれだけで十分だ。