協力、そして翻弄される。
ライナルトは、なるべく周囲に怪しまれないようにエディルの身体の捜索を続けた。
動きを使用人たちに不審に思われるだけならいいが、それが彼女を軟禁するケイリーの耳に入らないとも限らない。もし、「少し静かなところで療養させたい」とか言い出されて遠くに連れ出されてしまったら、元に戻すことが難しくなってしまう。
それに、このことについて、ケイリーに協力者がいないとも限らない。行動は、慎重にならざるを得なかった。
夕食の席など、普段の何気ないところで彼女に会っても、〈優しい兄〉を演じてみせた。「アリスティア」と呼びかけ、気さくにほほ笑む。
エディルもほうもわかっているようで、「お兄さま」と笑いかけ、素直に慕ってるふりをする。
表面上は、仲睦まじい兄妹だった。
「あ…」
久々に部屋を離れることのできたエディルが図書室に向かうと、そこには先客がいた。
「ライナルトさま」
身体全体を投げ出すようにソファにだらしなくもたれかかっていた。目を閉じて額に手をあて、やや乱暴に前髪をかき上げたまま静止している。
疲れているのだろうか。
「ああ、エディルか」
物音に気づいたのか、ライナルトが身体を起こした。
「みっともないところを見られてしまったな」
「いえ。お疲れでしたら、失礼します」
ここは、ゆっくりライナルトを休ませてあげたほうがいい。疲れの原因は、なんとなく察していたから。
「いや、大丈夫だ」
部屋から出ていくのを呼び止められた。
「それより。何か調べものか⁉」
今、この部屋にライナルトとエディルしかいない。
「ええ。何か手がかりがないかと」
エディルは、アリスティアとなってからも、何度かここを訪れている。図書室までケイリーが入ってこれないからというのもあるが、何よりここにある本に元に戻る方法が記されていないか捜すためでもあった。
ライナルトからもらった東洋の護符のおかげで、魔術によって言葉を封じられたり、頭痛に襲われることもなくなっている。
(もしかしたら、東洋にはそういう呪いを解く方法があるのかもしれないわ)
少しでもヒントになるものがあるかもしれない。
ライナルトが、エディルのために動いてくれているのは知っている。だけど、彼にばかり苦労させて、自分は待っているなんてことは出来なかった。
(それでなくとも、帰国したばかりで、ライナルトさまもお疲れなのに)
先ほどの様子からも、ライナルトが疲れているのがみてとれる。おそらく、自分のことが疲れの元なのだから、これ以上の負担をかけるのは、心苦しかった。
「東洋のことを知りたくて」
「東洋!?」
コンコン。
キイッ…。
ライナルトが不思議そうな声を上げたのと同時に、扉がノックされゆっくりと開いた。
軽く一礼して、執事のバーナードがお茶のセットを持って入ってきた。兄妹の話の邪魔をしないつもりなのだろう。彼は無言のまま、二人分の茶器を用意し始めた。
「でも、どうして東洋なんだい!? アリスティア」
チラリとバーナードに視線をやっただけで、ライナルトが話を続けた。
「だって、お兄さまがどんな場所に行っていたのか、知りたいの」
目くばせで、〈仲のいい兄妹〉を演じることを確認しあう。
誰かがいるときは、エディルはアリスティアになりきり、ライナルトも「アリスティア」と呼びかける。
「ねえ、あちらの家が、紙と木で出来ているって本当なの!?」
会話だって、他愛のないものに切り替える。
「ああ、本当だよ。僕はこの目で見てきたんだ」
無邪気に話し、優しく答える。
「確か、このあたりに…、ああ、あった」
本棚からズシリと重い図録を取り出す。
バーナードから背を向け、二人でのぞき込むように中の版画を眺める。
「でもどうやって紙と木だけで家が建つのかしら」
「興味あるのかい!?」
「ええ、とっても。だって、紙で屋根は支えられないわ。それとも、屋根も紙でできているの!? でも、それなら雨がしのげないわ。濡れて破れてしまうもの。ああ、雨が降らないから大丈夫ってことなのかしら」
「アリスティアは、おもしろいな」
「笑うなんて、ひどいわお兄さま」
本当に他愛のない話で笑いあう。
「私も、行ってみたいわ」
「おや、アリスティアは女性冒険家にでもなるつもりなのかな」
「それも、面白そうね。でも、行くならお兄さまと一緒がいいわ」
アリスティアになりきろうとする分、普段なら絶対口にしないような言葉が、ポンポンと出てくる。
「遠い国を、怖いとか、野蛮だとか思わないのかい!?」
「どうして!?」
ライナルトの質問に、ついうっかり素で返してしまった。そのことに一瞬まずいと思うものの、おかしなところはないだろうと、話を続ける。
「文化が違うからって、相手を見下すのはよくないことよ。あちらの人から見たら、私なんて、『無理矢理お腹を細くした、窮屈な服が好きな頭のおかしな人』かもしれないのよ」
たいしてくびれてはいないアリスティアの腰を軽く撫でてみせた。
「ぷはっ。なんだそれはっ…」
しかし、ライナルトのツボに入ったようで、彼はお腹を抱えて笑った。
「まあ、そんなに笑うなんて、お兄さま、ひどいわ」
「いや、すまないっ、つい、おもしろくてっ…」
エディルが頬をふくれてみても効果はなく、ライナルトが笑いを収めるには時間がかかった。
(ライナルトさまって、こんなに笑う方だったのね)
エディル自身、自分の身体でライナルトに会ったことはない。出会った時には妹のふりをしていたし、身の上を話してからは協力者としての彼しか見たことがなかった。
しかし、その笑い声に満足したのか。お茶を用意していたバーナードが軽く口角を緩め、一礼だけ残して部屋から出て行った。
「…ふう」
バーナードがいなくなったのを確認してから、ライナルトが息を吐き出した。
「自分の家なのに、これじゃあ気の休まるときがないな」
いつもの彼なら、使用人の誰がいようと気にせずにしたいことを続けるのだろう。身分の高い人にとって、使用人はその存在を気にしなくてはいけない相手ではないからだ。それが今は、誰がケイリーの協力者であるかわからない以上、すべての使用人にまで警戒をしなくてはいけなくなっている。
使用人のたくさんいるこの家は、彼に窮屈さをもたらしているに違いない。
「すみません。私のせいで」
「いや、君が謝ることじゃない」
バーナードが残していった茶器に紅茶を注ぐ。紅茶のふくいくとした香りを感じながら、彼にそっと手渡した。
「ありがとう」
軽く礼を述べて、ライナルトがそれを受け取る。
自分で用意したお茶ではないが、それでもライナルトがくつろいでくれたら。エディルは、そんなことを考えながら、自分のカップにも紅茶を淹れる。
「さて。オレの方からの報告なんだが」
紅茶を飲み干して、ライナルトが口火を切った。
「今のところ、君の身体は見つかっていない」
エディルは、ライナルトの斜め向かいにある一人掛けのソファに身を下ろし、報告を聞いた。
「温室、園芸温室といった外の建物も確認した。執事室、家政婦室、メイド部屋なんてのも覗いてきたよ」
「まあ…」
温室とかはともかく、メイド部屋なんて。
エディルは、目を丸くするしかない。
「あの…」
「…ん⁉」
「どうやって、メイド部屋を!?」
さすがに気になって声をかけた。
まさか、一部屋一部屋メイドの所へ足を運んだのだろうか。そんなことをしたら、いろんな意味で誤解するメイドが現れるかもしれないのに。
「ああ。彼女たちが働いてる、誰もいない留守の間に。窓から、ね」
エディルの言いたいことを察したのか。ライナルトが、身を乗り出して見えない窓を覗くような仕草をした。
「窓って…、そんな」
部屋の住人がいないから大丈夫だ、とか、女性の部屋を覗くなんて、とか、そういう意味で絶句したのではなかった。
「危険です、ライナルトさま」
メイド部屋は、この屋敷の最上階にある。その部屋の窓を覗くとなると、屋根の上に登らざるをえない。
(屋根の上なんて…)
見上げるような高さにあるそこに、ライナルトは忍び込んだというのか。考えるだけで、エディルはクラクラと目まいを起こしそうだった。
「大したことない。旅の途中、もっと危険な場所に登ったこともある」
「でもっ…」
「それに、オレは君の部屋にも忍び込んでいる。気にすることはないさ」
そうだ。
ライナルトとは、こうして図書室などで会うだけではない。夜、その日の報告を持ってバルコニーからエディルのもとを訪れていた。
考えてみれば、バルコニーからの侵入、それも真っ暗な夜に行うのは、かなり危険な行為だったのではないか。
それに、妹の部屋とはいえ、女性の部屋にライナルトは忍び込んでいる。姿は妹だが、他人であるエディルのもとに。よくよく考えれば、それも非難の対象になりかねない行動だが、今のエディルにそれだけの余裕はなかった。
「でも、お願いです。危険なことはお止めください」
今さらながらライナルトの行為の危うさに気づいたエディルは、祈るように手を組んだ。
これまで無事だったからといって、これからも大丈夫だという保証はない。
「私のために…、どうかこれ以上は…」
協力してくれるのはうれしい。でも、その身を危険にさらしてまで捜してほしいとは思わない。
「君のためだけじゃないさ」
ライナルトが真剣な口調になった。
「オレも、アリスティアを捜したい。妹の魂を見つけてやりたいんだ」
「ライナルトさま…」
「オレはまだ、アリスティアに『ただいま』って言ってない」
妹が、死にゆく運命にあるのなら、最後に一言ぐらい兄として声をかけてやりたい。天に召されるその魂を、肉親として見送ってやりたい。ひっそりと、誰にも知られず死なせたくなどなかった。
「ライナルトさま…」
その、ライナルトの辛そうな声を聞いて、エディルは胸の奥が痛むのを感じた。
自分のせいではない。そう主張したところで、言い訳にすぎない。
ライナルトを、彼が大切に思っている肉親に会えなくしていることに、エディルも加担しているのだ。
「ああ、別に君を責めてるわけじゃないよ。そんな顔しないで。気にしないでくれ」
エディルの様子に気がついたのか、ライナルトが遮るように言った。
「はい…」
一応頷いて見せたものの、ライナルトが、困ったように頭を掻いた。
「オレは、妹も助けたいが、君も助けたい。そう思ってる」
ソファから立ち上がったライナルトが、エディルに近づいた。
「二人の囚われの姫君を助ける。まるで伝説の騎士さまみたいだな」
少しおどけて言われたセリフに、エディルも笑ってみせる。
おそらく、エディルを笑わせよう、気持ちを軽くしようとして口にしたのだろうけど。
(ライナルトさまは、本当に騎士のようだわ)
彼に流れる伯爵家の血がそう見せているのかもしれない。窓越しに差し込んだ光の加減でそう見えたのかもしれない。しかし、今のエディルには、そんなことに関係なく彼を頼もしく感じた。
自分は魔女に囚われた姫君。彼はそれを助けに来る勇敢な騎士――。
(私ったら何を考えているのっ!!)
ハッとなって、熱を持ち始めた頬に手を当てた。
いくらなんでも、想像していいことと悪いことがある。
自分は、一応令嬢と呼ばれてはいるが、所詮は牧師の娘。女家庭教師という立場でしかない。それなのに、伯爵家の嫡男を自分の騎士のように思うなんて。
(ロマンス小説の読みすぎかしら)
数えるほどしか読んだことはないけれど。それでも、こんなことを考えるのに、影響がないとは言いきれる自信はない。
「エディル…⁉」
不思議そうに、エディルを見下ろすライナルトの青い瞳と視線がぶつかる。
「えっ⁉ いえっ、なんでもありませんっ!!」
慌てて取り繕う。
「そう!? ならいいけど」
納得してくれたのだろうか。とりあえず、それ以上ライナルトが訊ねてくることはなかった。
「オレは明日、森番の小屋に行ってくるよ」
「森番の!?」
森番は、領地内にある森のなかで暮らし、狩りの獲物となる鹿や、ウサギ、雉などを管理している。密猟者とも戦うこともある、過酷な職業だ。
「もうすぐ雉の卵が孵りそうだと報告を受けた」
「まあ」
「これを口実に、あの辺りも調べてくるよ」
――一緒にいかないか⁉
それは、他愛のない誘い文句のようであり、周到な誘い出し作戦でもあった。
軟禁状態にあるエディルを、外に連れ出すことが出来る。屋敷では見つけられなかった身体を捜すことも出来る。
そういった理由で、雉の卵を見に行くのは、最高の言い訳になったのだが。
「いけません。そんな遠くまで出かけるのは」
夕食の席で、二人の母親である伯爵夫人から却下された。
「まだアリスティアは病み上がりなのよ⁉ それなのに、森だなんて」
「だけど、お母さま、私、雉の赤ちゃん見てみたいの」
なるべく甘えるように訴えてみる。
「まあ、アリスティア、アナタという子は。また、体調を崩したらどうするの⁉」
「それは…」
心配されているのだと思うと、次の言葉は出てこない。
「雉の子どもなら、森番にでも連れてこさせればいいわ」
屋敷で少し眺めるぐらいでいいでしょう。夫人は娘のわがままに、少しだけ譲歩したような答えを出した。
「でも母上、せっかくですし、たまには外に出てもいいのでは!?」
ライナルトも食い下がったが、それでも夫人は首を縦にふらなかった。
「いけません。アナタはこの間もそういってアリスティアを連れ出して、大変なことになったじゃない」
エディルが川に落ちたことを言っているのだろう。
それを言われると、エディルもライナルトも口をつぐむしかなかった。
「とにかく。森へ行くのなら、ライナルト、アナタだけでお行きなさい」
夫人の言うことは正論だった。
「すまない。頑固な母で」
夜、エディルの部屋を訪れたライナルトから謝罪を受けた。
「いえ。それほどにアリスティアさまを案じておられるのでしょうから」
だから謝ることないわ。そう、エディルは思っていた。
「こうなったら、オレ一人で森を捜してみるよ」
「ええ。よろしくお願いします」
自分で捜しに行けないのはもどかしいが、自分のわがままで彼を困らせたくもなかった。
「ただ…」
「ん⁉」
「無茶だけは、なさらないでください」
昼間、ライナルトが屋根の上に登った話を聞いたからだろう。彼がまたとんでもないことをしでかすのではないか。そんな不安が、エディルのなかにあった。
「森には、何があるかわかりませんから」
雉やウサギならまだいい。鹿やキツネ、どうかすると森の獲物を狙った密猟者がいないとも限らない。
一番ひどいのは、そこにエディルの身体が隠されていたとして、それを守ろうとするケイリーの共犯者がいる…、という状況だ。
もしかすると彼が会いに行こうとしている森番が、その共犯者かもしれない。もしそうだとすると、身体を捜そうとするライナルトの身にどんな危害が加えられてしまうのか。
想像するだけで、膝が震える。
「大丈夫だよ。そこまで心配することはない」
「でもっ」
ライナルトは笑ってみせるが、エディルは気が気でなかった。
「せっかく囚われの姫君をお救いしようと心を滾らせているのに、その姫君が水を差すなんてひどいな」
「囚わっ…、姫ぎっ‼」
どう言葉を紡げばいいのかわからない。
顔どころか、耳の先端まで真っ赤にしながら、口をパクパクさせる。
「そうだ。姫君にお会いした時に迷わないように、どんなお姿なのか、教えてくれないか⁉」
茶目っ気たっぷりに問われ、エディルは困惑を極めた。
「とにかく、普通の容姿だと思いますっ」
なるべく心を落ち着けようと、胸に手を当てる。そうしないと過呼吸で倒れそうだ。
「普通とは!? 髪の色とか瞳とか、具体的に教えてくれないと」
「髪はっ…、冴えない麦わら色だと言われたことがあります。少しそばかすもありますし。目の色は、オオカミの目の、とりたててキレイな色ではないですっ」
言いながら少し悲しくなる。
実際のエディルは、姫君と称されるような容貌をしていない。そばかすこそ、歳とともに薄く目立たなくなっていったが、麦わら色の髪はクセも強く、お世辞にもキレイとは言い難い。瞳だけは少し自慢できる琥珀色だが、それも子どものころは痩せた土色とバカにされた。
身分もあり、容姿にも優れたライナルトに「姫君」扱いされるには、エディルでは役不足だった。
それなのに。
「キャラメル色の髪に、ハチミツ色の瞳か。なかなか甘くておいしそうな取り合わせだ」
ライナルトの手が、エディルの-正確にはアリスティアの-髪を一房持ち上げた。何かを誓うように、そのまま軽く口づけられる。
「なっ…‼」
髪になど神経は走っていない。それに、この身体は自分のものじゃない。
ライナルトは、この身体の、アリスティアの兄で。こんなの完全にからかっているだけに違いないのに。
どこをどう表現したら、甘くおいしそうになるのか。
というか、どうしたらそんな言葉が、仕草がポンポンと出てくるのか。
(真面目なの!? それともふざけてるの⁉)
時折、ライナルトという存在がわからなくなってくる。
エディルのことを見抜いた時は、恐ろしいほど冷たかった。なのに、事実を知ると優しく接してくれた。真面目で家族愛と正義感にあふれた好青年。そんな印象だった。それなのに最近は、エディルの身体を捜すためとはいえ、かなり無茶なことをするし、こうしてからかうような言葉を投げかけてくる。
どれが本当のライナルトなのだろう。
エディルの思考は、完全に混乱した。
「さて」
ライナルトが、エディルから離れた。
「姫君の褒美を目指して頑張るとするかな」
…やっぱり、ふざけてる。
エディルは、グラグラ煮えそうな頭で、そう思った。
翌朝。
久々に馬に乗りたいと提案して、ライナルトは早々に屋敷を離れた。
森番の小屋にも赴くが、その前に、馬で駆けたいと言い出したのだ。
ライナルトの希望に、屋敷の者たちは特に疑問を抱くことなく、快く彼を送り出した。
(さて、と)
屋敷を離れ、森に入ってから一息つく。
本当は、こうして出かけるのに彼女も連れ出してやりたかった。きっと彼女なら、言葉通り雉の卵を見に行くだけでも喜んでくれただろう。雛でもいたら、きっと笑顔を見せてくれたに違いない。
それをさせてあげられないことに、軽く胸が痛む。
護符のおかげで、誰にでも自分の現状を訴えることが出来るようになったのに、ライナルトの家族の気持ちを慮って、口をつぐんでいてくれる。一刻も早く今の状況から逃げ出したいだろうに、ライナルトが危険なことをすると、自分のことより、ライナルトの身を案ずる。
(辛いのは、オレよりも自分自身だろうに)
その健気さが、ライナルトの胸を打つ。
(早く、見つけてやらなきゃな)
それは、何よりエディルのためでもあったが、ライナルト自身のためでもあった。
彼女に会うたびに、本当のエディルがどのような存在なのか気になってしかたない。
(昨夜は、かなりあぶなかったな)
自嘲気味に笑いをもらす。
姿は妹なのに、エディルだと思って触れたくなってしまう。本当の彼女を取り戻さない限り、このままでは兄妹の禁忌を犯してしまいそうだ。
ライナルトは、軽く頭を振ってから、馬の腹を蹴った。
アリスティアのためにも、エディルのためにも。そして自分自身のためにも。
一刻も早く彼女を見つけたい。
夕刻になって帰ってきたライナルトを、エディルは広間にまで出て迎えた。
外に出ることは許されていないが、屋敷のなかでなら、どこに行こうが一定の自由は認められている。もちろん、ケイリーの監視つきではあったけれど。
この時も、ケイリーと数名のメイドがエディルの後ろに付き添っていた。
「おかえりなさい、お兄さま」
メイドもいるこの空間では、あくまでエディルはアリスティアのままだ。
「ただいま、アリスティア」
乗馬服のままのライナルトもそれをわきまえている。ただ、その動きが少しぎこちない。
(まさか…)
ドキリと、悪い予感がエディルの心をよぎる。
胸というか、懐に手を当てたライナルト。視線もそこに落としたままだ。
(ケガ、しているの⁉)
「お兄さまっ!!」
あわてて、彼に駆け寄る。
ケガの理由はわからない。でももしそうなら、早く手当てを――。
ピィッ…。
焦ったエディルの耳を打ったのは、少し甲高い鳴き声。
「え…⁉」
ゴソゴソと乗馬服の胸のあたりが動く。
現れたのは、縦に黒い縞模様の入った小さな薄い黄色の生き物。
「…雛!?」
ポフッと顔を出すとピィッピィッと鳴き声を上げた。
「アリスティアが見に行けないならと、連れてきたんだ」
もぞもぞと這い出そうとする雛の足がくすぐったいのか、ライナルトが少し顔をゆがめた。
「ほら、触ってごらん」
手のなかに、そっと雛を下ろされる。
少し硬い、けど温かな生命のぬくもりが手のひらからエディルに伝わる。
手のなかでモゾモゾ動く。鳴いて、自分を主張する。
これが生命。これが生きているということ。
「かわいい…」
自然に言葉がこぼれる。
「ここで飼うわけにはいかないから、森番のもとに返しに行かなきゃいけないけど」
ついっと、ライナルトが顔を寄せた。
「今度は一緒に、返しに行こうか」
えっと驚き、雛から顔を上げる。目の前にある青い瞳は、イタズラ心にあふれてる。
(そっか。この子を返しに行くことを口実に、森へ連れ出そうとしてくれているのだわ)
その意味を察したエディルも、笑顔を作る。
「ええ。うれしいわ、お兄さま。私も森に行ってみたい」
今回の外出は、体調を気遣う夫人に止められてしまったけれど、何度だって外に出ることを挑戦すればいい。
そのキッカケを雛を使って、ライナルトは用意してくれたのだ。
「ありがとう、お兄さま」
いろんな思いをこめて、目を細める。
「いけませんよ、お嬢さま」
横やりをいれたのは、ケイリーだった。
「また倒れられたら、どうなさるのですか」
「僕がついていると言ってもダメかい!?」
「ええ。奥さまだってお許しにならないでしょう」
その言葉に、一瞬ライナルトに目に、剣呑な光が宿った。
エディルを解放しない言い訳に、己の家族を使ってくるケイリーに、怒りを覚えたのだ。
「じゃあ、僕からよぉく母上にお願いしておくよ。それでもダメかい、マクレイル夫人!?」
ライナルトが冷たく、ケイリーの名を呼んだ。
(ダメ、このままじゃ)
あまり目立ったことをすると、エディルとのことがケイリーにバレてしまう。彼女に、警戒されてしまってはいけないのだ。
「お兄さま、大丈夫よ。私、こうして雛を見られただけで充分だから」
「アリスティア…」
「だから、無理なことを言わないで、ね!?」
ケイリーを刺激してもよくない。
だから、今は落ち着いて。そう言いたかった。
「…わかった。アリスティアがそう言うなら」
天井を見上げて、ライナルトが軽く息を吐き出した。
冷静になってくれたのだろうか。
「でも、今日一晩ぐらい、この子を愛でていたいわ。それぐらい、いいでしょう、ケイリー」
ライナルトの顔を潰すわけにはいかない。エディルはライナルトに代わって、ケイリーに交渉を持ちかけた。
「まあ、一晩かわいがるだけなら」
ケイリーもエディルを外に出さずに済んだことで、譲歩の姿勢をみせている。
(よかった。これなら大丈夫ね)
ひとまず安心出来るようになって、エディルも胸をなでおろす。
「じゃあ、この子の寝床を用意してあげなくっちゃ。それに名前も必要かしら」
雛を両手で、宝物のように包む。
せっかくライナルトが用意してくれた、キッカケだ。失くさないように、大切にしなくては。それでなくとも、手のなかの雛は、とても愛しい。
「ねえ、お兄さま。この子に、どんな名前をつけようか、し…」
グラリ。
突然、エディルの身体がゆっくりと仰向けに倒れていく。
「アリスティアッ‼」
「お嬢さまっ!!」
ライナルトとケイリーの叫ぶ声が重なる。
(あ…)
視界が回る…、暗い。
まるでアリスティアの身体で目覚める前に戻るかのような、地に引きずり込まれるような感覚とともに、エディルはその意識を手放した。
(んっ…)
一瞬、瞼の裏に光の明滅を感じた気がして、エディルは目を覚ました。
(ここは…!?)
「無事かっ!!」
(ライナルト…さま…⁉)
その声に、意識がハッキリとしてくる。
(私、どうして…⁉)
ライナルトから雉の雛をもらったことは覚えている。手のなかに、大切に抱いたことも。
だけど。
(倒れたの…⁉ 私)
アリスティアのベッドの上に横たわっているのがわかる。心配そうに、左手をライナルトが握ってくれているのも。
手から伝わる彼の温もりに、恥ずかしくて引っ込めたかったが、しっかり握られている上に、力が入らないので抵抗は諦めた。
「ケイリー…は!?」
「今、医者と母上たちを呼びに行ってる」
つまり、今、この部屋はライナルトと二人っきりだということだ。
「心配かけて、ごめんなさい」
「いや。それより身体は大丈夫か⁉ 苦しいところはないか⁉」
「はい。今のところは…」
先ほどの、目まいに似た感覚はもう残っていない。
「それならいい」
スルリとライナルトが手を離した。
「雉の雛に興奮したんだろう。今日はゆっくり休め」
クシャっと髪をなでられた。
その手は、眼差しは、痛いほど優しい。
(ライナルトさま…⁉)
エディルが不思議に思う間もなく、慌ただしく医者と続いてケイリーが入ってきた。
「お嬢さま、お気がつかれたのですねっ!!」
大げさな、騒々しいまでの演技ともとれるケイリーの叫びに紛れるように、ライナルトがその場を離れた。伯爵夫妻が入ってくるのと入れ替わるように、ライナルトが部屋を出ていく。
(心配をかけてしまったわ)
最後に見た、ライナルトの瞳に申し訳なく思う。
アリスティアが倒れたことで使用人の往来が激しくなった廊下を抜けて、ライナルトは一人、自分の部屋に戻った。
「ふう…」
誰もいないことを確認して、ため息をもらす。
アリスティアが、エディルが倒れた――。
あれは、興奮してとかじゃない。
倒れる彼女を受け止めた手を見る。
彼女が気が付くまで握っていた、あの手。
(氷のようだった…)
冷たい、これで生きているのかと問いただしたくなるほどの手。
意識が戻ったことで、温もりもいくらか回復したようだったが、それでも血の気はなく、ヒンヤリと感じられた。
少しでも温めてやりたい。そう思ってずっと手を握っていた。
(あれは、もしかして…)
一瞬、ライナルトの脳裏に最悪の状況がよぎり、かぶりを振った。
(ダメだ。それだけは考えてはいけない)
考えたら、思い浮かべたら、それだけで悪夢を引き寄せてしまう気がする。
(まだ、大丈夫だ。オレが絶対に見つけ出してやる)
妹のためにも。エディルのためにも。
ランプも灯されていない、月明りだけが満ちた部屋のなかで、ライナルトは、グッと息を飲み込んだ。
残された時間は、少ない。
第三話です。
本当は、この三話で終わるつもりでした。前編、中編、後編みたいな割り振りで。
それを長くしてしまったのは、ライナルトのせいです。このお兄ちゃんが、世界の話を持ってきたり、屋根に登ったり夜這いをかけたりするので、文章が長く…チッ(舌打ち) おかげで調べることもドンドン増えてゆく…チッチッ。
ついでに、ファンタジーっぽい世界にするつもりだったのを、19世紀のヨーロッパと腰を据えさせたのも、このお兄ちゃん。イロイロとやらかしてくれました。
本当はそういう夜這いまがいのことをさせるんじゃなくって、舞踏会とか、もっときらびやかなところに連れて行ってあげたかったんだけど。アリスティアがまだ社交界デビューする年齢ではないので却下されました。ほとんどインドア(といっても広いインドア。お屋敷だし)世界で物語が完結しちゃう。
これからも、よろしくお願いいたします m(__)m