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80・鍋島元茂、北の御殿の生徒と関わること《四》


「父も祖父も死んじまった。私が跡を継ぐはずだったが、化け物みたいな顔じゃから津軽の家は継がせないと叔父に言われてその座を追われた。今じゃ実家にも居場所がない」


 だからここへおるんだ、と言うと熊千代は元茂に言葉を続けた。


「あなたはご実家をお継ぎになるんだろ。免許皆伝間違いなしの柳生の門弟が藩主になれりゃあ、こんなに立派なことはなかろうな。こんな化け物みたいな人間のことなんてお気になさらず」


「ば、化け物だなんて……そのようなことは……あなたはれっきとした人間ではないですか」


「そうだな……そのはずだった。いっそ本物の化物になれたらどんなにいいか。鬼や邪より、恐ろしいものは人間よ」


 元茂は箸を握り締めたまま俯いて言った。

 

「……私も廃嫡となった身の上ゆえ鍋島の家は継げぬし、先々のことなどわからない。実家は弟が後を継ぐことになりましたから……」


 廃嫡ーー嫡男としての立場を廃されること。学寮は将来の藩主を養育するための場所であるから、そういう生徒は珍しいだろう。だからこそ、彼は熊千代の存在にはひどく興味をそそられたらしかった。


「……そうなのか。しかし、柳生の門弟なんてご立派な跡取りがいるのに、何故廃嫡なんて……」


「……弟は妹と同じで父の正室の子です。優先されるのは当然だ。それに、父の正室は徳川の大御所様のご縁で迎えられた方なので、厚く遇される理由もわかります」


 僕は元茂から暗い感情の気配を感じていたよ。あの闇の龍脈の石を手にしていた時に感じたものに近しい、不安と怒りの心の負荷。


 僕にはよくわかった。きっと熊千代にもわかったと思う。


 彼は悲しいのだーー廃嫡となった、自らの身の上が。


「お市殿は元茂殿のことすごく心配していたよ」


 僕がそう元茂に声を掛けると、熊千代も頷いた。


「例え藩主なんぞにはならずとも、剣の腕が立つ兄上なんて心強いじゃあないか。あなたなら、生きていたってよっぽど実家のために役に立てるし、その存在には意味がある。こんな私よりはずうっと、ずっと価値がある」


 すると、熊千代は頭巾を脱いだ。焼けただれた顔の表面が顕になる。


「でも……別に実家の役に立たなくたって、別に意味なんかなくたって……それでも熊千代殿は熊千代殿だし、それでも僕は別にいいと思うけどなあ」


「いいわけあるかい。役に立つ方がいいだろ。こんな己が生かされた理由を考えにゃあいかん。霞を食って生きとるわけじゃあないんだぞ。食い扶持分は仕事をせんと」


 そうぴしゃりと言うと、熊千代は再び頭巾をすっぽりと被った。


「熊千代殿は真面目だなあ……でも僕は別にどっちでもいいもん。熊千代殿が実家の後を継いでも継がなくても、君は君であって何も変わらないじゃないか? 価値なんて変わらないよ。 もちろん、君が望む未来を僕も望んではいるけどね?」


「ふうん……まったく、千徳殿はおかしなことばかり言う」


「熊千代殿は占いが得意だからさ、藩主になれなくてもどこかのお家に召し抱えて貰えそうだよね。うちが石高が増えたら声を掛けるよ」


 そいつは望みの薄い話だなーーと言うと、熊千代は不思議な匂いを放つ革の袋を元茂に押し付けて立ち上がった。


「元茂殿、熊千代殿は易占いが得意なんだよ。気になることがあったら見てもらうといいよ!」


「易経ですか」


「まあね……暇潰しだよ、死ぬまでの」


 熊千代はゆらゆら揺れながら外廊下を戻って行った。

 その時、僕はようやく彼が権平の機嫌が収まるまでここで暇潰しをしていたんだろうってことに気付いたよ。

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