45・若さまたち、闇の龍脈の鬼と対峙するのこと
火車は軽快な足取りでぴょんぴょんと跳ね回り、元茂の攻撃をかわしていた。
そんなことをしているうちに二人は僕ら三人からは少し遠ざかった場所まで移動していたよ。
時折元茂の悔しそうなうめき声が聞こえてくる。
ちょこまかと逃げ回り宙を駆けることが出来る火車を、土台人間が捕まえようなんてことは不可能に近い。
火車が再び何事か彼に囁くと、今度こそ元茂はまるで木刀を相手の脳天に打ち込む時みたいな声をあげた。
「一体何なの? 何やってんのかしらあのけだもの……」
火車は基本的にはいいヤツだし僕の言うことはよく聞くのだけれども、そこはやっぱり地獄の鬼である。
人間とは感覚が違うのだ。
火車は人の心の痛みや悲しみのようなものは理解出来ず、意に介さないのだと父上もよく言っているよ。だから大切な人を亡くした人間の目の前でその亡骸を奪って行く。そういうことがまったく平気な奴なのだ。
「ちょっと、火車! ここへ来て! ここに! いますぐ!」
僕が呼びつけると、さすがに逆らえないらしく火車はぴゃっと目の前に駆けて来た。
僕はその頭をぺしゃりと軽く叩くと
「また何か良くないことを言ってなかった? わかるよ、そういうのは! 逆にこの気まずい空気感をどうしてお前は理解できないのか不思議なんですけど!」
と叱り付けた。
家来の不始末は主人の責任だ。火車のことは僕に任されているのだから、こうしたことは当然僕がやらないといけない。
「ええ~? 別に大したことは言ってないもん。だってあんな物騒なもの持って得意げにしてるからさあ、ちょっと懲らしめてやったほうがいいと思って」
火車は振り返って元茂を指す。
彼は血走った瞳で火車を睨みつけていたよ。その気配がいよいよ禍々しいものへ変化しつつあることが僕にはわかった。
握り締めた右の拳から強い力が渦を巻いて溢れ出し、足から床へとこぼれ落ちてゆく。
「ば、馬鹿! 元茂殿めちゃくちゃ怒ってるじゃないか! おまけになんかえらく大変なことになってる!」
「ちょ、ちょっとあんた……ねえ、あんたにもあれが見える?」
忠郷の声は震えているよ。彼の目は元茂を捉えていた。
「あの……泥のような煙みたいな……おかしなもの……」
総次郎はため息をついて言った。
「俺には見えてないと言い聞かせてたのに……今ので全部台無しだ」
「大変なことって何なのよ、千徳? なんとかしなさいよ! あたしたちにも説明して!」
「俺はいらねえからな、そういうのは! どうせろくなことになりゃしねえ」
そう叫んだ総次郎の襟を忠郷が強く引っ張った。総次郎が苦しそうに忠郷の頭を叩く。
「二人にも見える? あのヤバそうなやつ!」
僕が尋ねると忠郷も総次郎も勢いよく頷いて
「な、なんなのよあれ。ばけもの?」
「こんな日中に化け物か? 化け物ってのは太陽に弱いんだろ? 陰の龍脈で命を繋いでるといつか聞いたことがあるぜ」
と、銘々僕に言葉を投げた。
そうだよ――僕もそう聞いている。
太陽の光は陽の龍脈の力だ。
生命を育み成長させる《促進》の特性がある。土に種を巻いたら芽が出るのも、僕らの身体が成長するのも全てはこの陽の龍脈の力が身体に巡るおかげなのだという話だよ。
陰の龍脈の対局――対となる力。陰と陽。この世を構成するという二つの異なる命の源。
「確か……そもそも《鬼》っていうのはさ、古い時代じゃあ闇の龍脈のことを指していたんだって直江山城守が言ってたよ。ほら、陽の龍脈の源泉の傍にはぬしさまがいるじゃない? 水の龍脈の傍に龍神さまがいるみたいに、源泉の傍にはそれを守る土地神さまがいるでしょ? ああいう感じで、闇の龍脈の凝集が強まると、結晶が出来て……その傍にもそういう存在が生まれる……」
「そういう存在って……なんなのよ?」
「ほんっとうにてめえは頭が悪いな。それが――《鬼》のことだろ」
鬼ーー忠郷が震える声で呟いて《それ》を見た。
元茂が握り締めた拳から流れ落ちるそれは、もはや気配でもなんでもなかった。
質量を伴う確かな《何か》。
真っ黒で、しかし時折表面に虹色のような光が反射して見える不思議な暗黒の塊。
どろどろとした不定形のそれが渦を巻いてあぶくを吐きながら元茂の足元へこぼれ落ち、廊下を広がる。
「元茂殿! それを放したほうがいいよ! 手に持ってるやつ!」
元茂に僕の声は届いていなかった。
彼は僕らを見つめたまま亡霊のように立っている。
道場で会った時は、ここで僕らを通せんぼした時は、あんなに背筋がぴんとまっすぐ伸びていたのに、今ではそれが見る影もない。
暗い表情のまま、猫背のやや前傾姿勢でこちらを見つめている彼はどう見ても普通の状態ではなかった。
「やっぱりあいつ、闇の龍脈の結晶を持ってんだよ。鬼を呼んでるぞ」
「よ、呼ぶって何よ! そんなもんここへ呼んで一体どうするつもりなのよ!」
「もっとも? あいつ自身が呼ぶというより、闇の龍脈のあるところに勝手に湧いて出てくるんだけどね鬼って奴らは」
わけがわからないーー忠郷の絶叫が辺りに響いた。
「まさか、あの黒田の奴が言った《足止め》ってのはこのことなのか?」
「ま、まさかあ……たぶん、火車が元茂殿を怒らせちゃったんだよ……そんな気配がしたもん」
そうだ。確かに彼からは一瞬強い怒りの気配が感じられたーーなのに、今はもう何も感じない。
何の感情も読み取れない。汲み取れない。
ぼんやりとこちらを虚ろに睨み続けているその表情に、僕は感じたこともない恐ろしさを覚えた。
「まったく、人間って奴らは短気でよくないよなあ。だから闇の龍脈に付け入られたりするんだろ」
元茂の足元は既に黒い泥で埋もれている。それが触手のようににょきにょきと伸び上がり、次第に一つの塊に形を変えていく。
「あーあー。あの様子じゃあたぶんあいつ、意識を持っていかれたな」
元茂を眺めていた火車が言った。
「な、何よ……持っていかれたってなんなのよ?」
「鬼ってのは闇の龍脈から生まれる下僕みたいなもんでさ。闇の龍脈の凝集の特性が強まるとこんな風に生まれて、闇の龍脈の力をもっともっと強めようとする。つまり凝集の手助けをしようとするんだ。だけど鬼は意思や自我ってものを持たないから、そういうものを持ってるやつから借りたりぶんどったりするんだよ。そうすると勝手に動き回る事も出来るようになる。こんな風にね」
火車が指した先にいた異形の鬼ーーその姿に忠郷は声も出さず総次郎の肩を掴んでいた。総次郎も固まったようにそれを凝視している。
ぶよぶよとした肉を付けた真っ黒い胴体に、太い腕を三本も生やした上半身だけの鬼。
伸び上がった身の丈の先端が僕らの遥か頭上にある。
「ど、どうしよう……元茂殿、意識を失っちゃったのかな。全然逃げないし、動きもしない。声も届いてないみたいだし……」
「あんなの一体どうすんだよ、くそったれ! お前、もちろん何とか出来るんだろうな!」
総次郎が忠郷の手を引き剥がしながら叫んだ。
「な、なんとかって……あんなのなんとかなんて……」
「出来るのか出来ねえのか、はっきりしろ!」
「――出来ない! さっきっからずっと色々考えてるけど、とりあえず出来ない! なんにも出来ない! だって刀も何にも持ってないもん!」
僕はありったけの声で叫んだよ。
そうだよ。
方法なんてありゃしない。
だって僕は闇の龍脈から生まれる《鬼》なんてものを直にこの目で見たのさえ今この瞬間が初めてだ。
幽鬼のようなぼんやりした連中や付喪神、時々その辺にいるような物の怪なんかとは全く違うーーそれは現世に確かに存在する禍々しい質量と凝縮された力だよ。それを肌で感じて、僕はどうすることも出来ずに立ち竦んでいる。
僕だって学寮へ出仕するにあたり色々な準備をしてきたけれど、まさか江戸のお城の中でこんなことが起こるなんて想像もしていなかった。
御殿の中庭は驚くほど静かだよ。
他の御殿の生徒達はみんなきっと道場で来たるべき御前試合に向けて特訓でもしているんだろう。
しかし、それにしても静か過ぎるような気がする。お部屋番の姿くらいはあっても良さそうなものなのに。
「それなら、仕方ねえ……最期の手段だ」
総次郎が小声で呟いた。
「何か手があるの、総次郎!」
「そんなものがあるなら最期と言わず、すぐに使ってちょうだいよ!」
「うるせえな能無しどもが! 撤退だよ! 何の策もない上に勝ち目もねえんじゃ、そうするより他にねえだろうが!」
ああ……なるほどーー僕と忠郷は顔を見合わせて頷いた。確かな状況判断だと思う。僕は総次郎に大きく頷いた。
「癪に障る話だが……俺達にどうすることも出来ねえ以上、部屋へ逃げ帰ってあの主務にでもどうにかしてもらうしかねえだろ。化け物も何とか出来るとかって……いつだったか自分でそう言ってたじゃねえか、あいつ」
「そうね! そうよ。それがいいわ」
手を叩いてそう言い切った忠郷が走り出そうとしたので、僕は咄嗟に腕を掴んだ。
「ね、ねえ! 僕らはそれで大丈夫だけど……も、元茂殿はどうなるの?」
「はあ? どうなるのって……あいつだって逃げればいいじゃない」
「そんなの無理だよ。だって見てよあれ! とても普通の状態じゃないもん」
僕は元茂を指して訴えたけれど、忠郷も総次郎も首を振った。
「そんなの自業自得じゃない。だってあいつが持っていたその……闇の龍脈でこんなことになっているんでしょ?」
ダンダンと廊下に音が響いて僕らは再び元茂に視線を向ける。忠郷はそれを後悔するように「ひいっ!」と悲鳴を上げた。
黒い鬼は三本の腕を四方へ伸ばしてこちらへ近付いてくる。
下半身がないから上半身を引きずるように。そうして長い腕を伸ばすその様子はまるで暗がりで何かを探しているようだった。
その傍らに元茂は立っているよ。
虚ろな表情で、だらんと垂らした右手の掌には何かを握りしめたままだ。
「……これ以上は無理だ。行くぞ!」
総次郎は声を掛けて走り出した。
忠郷もそれに続く。
廊下は走るなといつも煩く指導をされているから、御殿の中をこれ程全力で走ったのは初めてのことだった。
周囲の空気がいつもとは違う感じがして、忠郷は走りながら口元を抑えた。
これまで感じたことのない不気味な感覚。
嫌な匂い。
「一体なんなのよ、これは……あんたも感じて……ってーー」
ーーいない!!
南の御殿まで逃げてようやく忠郷は気が付いた。総次郎も振り返る。
胸が悪くなる匂いがあたりに立ち込めているよ。
淀んだ気配が僕らの足元に充満しているのがわかる。
「この重い、嫌な気配が闇の龍脈なんだね……いやな感じ」
「闇の龍脈は凝集の特性があるから厄介なんだよ。無闇に人が持っていたりすればたちまち凝集の特性が働いてもっともっと集まっちゃう。こんな風にね」
総次郎は撤退より他に策はないと言っていた。
僕もそう思う。
悔しいことに、僕にはこの目の前の化け物をどうにか出来る力がない。
だけど、それでも元茂を放って撤退するなんてことは出来なかったよ。
だって、彼がこのままここにいたらきっと状況は益々悪くなるに決まっている。そんなの市に合わせる顔がない。
「ねえ、火車? あの鬼は何が目的だと思う?」
「目的なんかないさ。闇の龍脈の力を集めてんだよ。闇の龍脈の結晶は放っておいたらそういうことになるから、普通はそんなことにならないように陰陽師みたいな術者が結界でも張って、その中で管理をしているものなんだ。自然界じゃ凝集の特性なんて大したことないけど、人が結晶に介在すると爆発的に凝集が早まるらしいよ。つまり、人なんかが持っていたらヤバい代物ってこと! おいらあいつにそう教えてあげたのに」
「そうしたら、僕があの鬼の注意を引いておくから火車は元茂殿を逃してよ。少しの間時を稼げば総次郎達が勝丸を連れて来てくれるはずだもん」
僕がそう提案すると、火車は驚いたように宙で背を仰け反らせた。
「ええー? お前が一人であんなのを足止めするっての? そんなの無理じゃない? お前があいつを連れて逃げた方がいいよ」
「どっちでもいいけど、とにかくここは勝丸が来てくれるまで僕らがなんとかしなくっちゃ!」
そうだよーー僕は震える足で無理やり何度か飛び跳ねた。
これが良く聞く武者震いというやつなんだろうか。心臓がこんなにもばくばくと強く鼓動を繰り返すのは僕の人生で初めてだと思う。
僕は生まれた時から人や人でないものの気配に敏かったし、人手ない色々なものが見えた。
刀の付喪神たちからそういう人でないものの色々な話を聞いているし、多少はそういうものと相対するための稽古を付けて貰ったりしている。
人には出来ないことが出来る人間は、定めを与えられたのだーー父上が僕にくれた言葉だよ。
人にない力を授けられた人間は、その分その力で以て世のため人のために尽くさなきゃいけない。
その力を、能力を、役立てないといけない。
そういう道を探し求めることにこそ、生きる意味や価値があるのだとーーいつだったか、父上が僕に言っていた。
「そりゃあね……意味や価値なんかなくたって、生きていくことは出来るけどさ……ここで元茂殿を放って逃げたりしたら、上杉の名折れ!! お前だってそう思うでしょ、火車!」
そうだ。
僕は上杉の若さまなんだから、みんなのために戦う道こそ選ばなくては!
「お前ら長尾の人間って割とそんなことばっかり言うけどさあー、そんな格好つけてる場合じゃないと思うよー?」
なんとでも言うがいいさ。
僕は闇の龍脈の鬼の気配を伺いながら羽織の袂から石を取り出して強く握り締めた。
まさかこれを本当に役立てる日が来るとは思わなかったよ。




