44・藤寮の鍋島元茂、鶴寮の若さまの行く手に立ちはだかるのこと
「大人しく寮へお戻りください」
元茂は落ち着いた声で言った。
「……へえ。なるほどな。お前が藤の寮の鍋島元茂……剣の腕前じゃあ学寮一らしいじゃねえか」
「番付にもいつも名前があったけど、あたしもこれほどよくよく顔を拝むのは初めてだわ」
「そりゃ、てめえがいつも剣術の稽古を見学してるからだろ」
「番付?」
僕は忠郷に尋ねた。
忠郷は学寮が出来た当初、一番最初から出仕している生徒である。僕らが知らなくても彼が知っていることは沢山ある。例え剣術の稽古にはほとんど参加したことがなくても。
「剣術の御前試合が行われると勝敗の結果が御殿に張り出されるのよ。それと同時に、指南役が生徒の腕前に順位を付けるの。試合の結果やいつもの授業結果なんかを総合的に判断してね。確か、上位十人くらいだけれど」
「剣術の腕が立つ十人ってわけだね。すっごーい! 僕もそこに入れるように頑張ろうっと」
「無駄よ、千徳。学寮が出来て以来順位はほとんど動かない。特に、番付の一位は動く気配もないわね――南の御殿、藤の寮の鍋島元茂。そりゃあそうよ。柳生師範の一番弟子らしいじゃない。土台あたしたちとは違うわ」
「そうなんだあ。それならなおさら楽しみだね、御前試合!」
「はあ?」
忠郷がわけがわからないという表情で僕を見ていたので、僕の方も首を傾げて言った。
「だって、番付一位の元茂殿に僕らの誰かが勝てたら、大番狂わせが起きて面白いじゃん」
「そりゃあな。起きれば面白いと思うぜ」
起きればーーと念を押すように総次郎が言う。
それについては僕はもう放っておくことにして、元茂の前に進み出た。顔を見つめて深呼吸を一度。
何しろ僕はひどく嫌われているのだーーこの、市姫の兄上さまには。
「そういうわけですので、僕ら五日後の御前試合ではお手前の寮に本気で勝負を挑みますゆえ、どうぞ手加減などなさいませぬように」
僕が言って刹那、激しい衝撃が脳天を貫いた。
「あんたって人間はなんでそうろくでもない事をぺらぺらと喋るのよ! あたしは存分に加減してもらいたいわ!」
「あたた……痛いなあ……もう」
「言っておくけど、あたしは試合に出るとは言ったってこれまで一度だって剣術の稽古なんて参加したこともないし、つい昨夜初めてちゃんと木刀を握ったばかりなんだから、その辺をきちんと理解しておいてもらいたいわ」
「はああ? おま……それ、本気で言ってんのか」
「ゆうべ? 初めて? それ本当? 忠郷ってば何歳なの? 本当に全然やったことないの? 一度も?」
僕と総次郎とが代わる代わる忠郷に詰め寄る。そりゃあ僕も剣術の稽古に参加しないことは知っていたけれど、まさかそこまでの初心者とは思わなかった。
「ご心配なく。貴方のことは師範からも伺っています」
「あらそう。それならよかったわ。もっとも? あたしなんてあんたとは天地がひっくり返ったって試合に当たらないでしょうけど」
「はああ……こんなのが一緒で、何をどうやって試合なんかするんだよ。もう試合は五日後なんだぞ?」
「だから、あんたたちも道場に呼びに来たんじゃないの! 大体、あたしのことばかりやいのやいの言ってられるわけ? これであたしが試合に勝ってあんた達二人が負けるようなことでもあったら、土下座して侘びてもらうわよ」
「ふ・ざ・け・ん・な! 木刀握ってたかだか一日二日のお前が勝つことなんて天地がひっくり返ったってありえっこねえ! 武芸をなめてんじゃねえぞ! こちとら何年も稽古を積んでんだからな!」
総次郎と忠郷がいつもの調子で口論を始めたけれど、僕はそれに混ざる気になれなかった。
妙な気配がしているーーさっきからずっと。
そうしてそれが少しずつ強くなっているのがわかる。
元茂から立ち上るそれは、僕にもわかる《よくないものの》の気配だ。これまで一度も感じたことのない、強い気配。
人のものでもない、火車や幽霊のようなそれとも全く違うーーどろどろとしていて冷たい、得体のしれない恐ろしいもの。
「ねえ……元茂殿?」
僕は小さな頃から人でない者達の気配や存在を感じることが出来たので、こういう機会ーー人でない得体の知れないものと出くわすことというのがままあった。
だけど、だからこそ僕は《自分の理解が及ばない、よくわからないものについては手を出さない》という父に言われた鉄則をずうっと守ってやってきた。
人でないもので自分が知らないもの、わからないものについては火車や付喪神たちにその都度尋ね聞いて教えてもらったので、今では結構色々なことがわかるようにはなったけれど、こんなに強い気配は初めてだよ。
これは自分の手には負えないーー咄嗟に僕はそう思った。
「元茂殿は……それは、一体どうしたの?」
「それ? 一体何のことです」
「……いや、君からは何かよくない気配がするからさ。どうかしたのかと思って」
本来であれば、僕はこういう自分の手には負えないものについては関わらないようにしているのだ。
けれども、今回ばかりはそうも行かないよ。
だってこの人は市の兄上なんだもの!
市だけでなく、彼の身の上にも何か良くないことが起きているのなら心配だ。
「嫌だわ、千徳。こんな真っ昼間からまたああいうものが出てきたりするわけ?」
「いや、これは幽霊とかそういうものじゃないと思うよ。怨霊とか地縛霊も僕は見たことがあるけど、それだってこれとは気配が全然違った。こんなのは知らない」
僕は元茂を指した。
「ねえ、君も火車が見えていたでしょう? それってつまり、ああいう人でないものが見えたり分かったり、気配なんかがするってことだよね? お市殿もそう言ってた。なのに、自分のそれは何も感じないの?」
「それ?」
元茂が繰り返したので僕は頷いた。総次郎も不審げに僕を見る。
「あいつもお前みたく化け物でも飼ってんじゃねえのか?」
「そうかもしれない。人でないもの、何か……よくないものの気配だよ」
「……よくないもの?」
元茂の表情が強張ったのがわかって、僕は頷いた。
「ど、どうしてそんなことがわかるのよ」
「だって、なんかそんな気配がするんだもん。なんとなくだけど」
「なんとなくって……それじゃ何もわからねえじゃねえか。お前以外には俺もそいつもなんにも感じやしねえんだぞ。目にも見えやしねえし!」
ーーでは、お見せしましょうか?
「えっ」
思いもよらぬ言葉が帰ってきて、僕らは声のする方へ揃って顔を動かした。
元茂が首に掛けていた長い紐を着物の中から手繰り寄せた。
それは先端に小さな袋が付いていて、元茂はそこから何かを掌の上に取り出した。
刹那、僕は元茂が掌の中に閉じ込めたそれから強い気配を感じたよ。
なんだろうーーなにか、とても嫌な気配。それがぐるぐるとまるで渦を巻いて、強い力が彼の掌の中に凝縮しているようだった。
「良くないものとは心外だ。あなたの手前勝手な物差しで物事を推し量られては困る。これで母に取り憑いた化け物を打ち倒す。闇の龍脈の力があれば猫又など恐れるものか」
「そいつはちょっとマズいんじゃなあい?」
声の主は唐突に姿を現したよーー中庭を川に見立てた朱色の橋を模した廊下の欄干で長い尾を振っている火車。
「おかしな気配がするもんだからちょいと様子見に来てみたら……なんだかろくでもないことになってるねえ?」
「……また現れたな、化け物め」
元茂が火車を睨みつけて呟いた。
「闇の龍脈って……一体どういうこと?」
「どういうことも何も、闇の龍脈なんて普通の人間がどうのこうの出来るもんじゃないよ。確か都の御所で陰陽師たちが管理してるとかって話だもん」
火車の言葉に忠郷が思い出したように口を開いた。
「た、確か……いつだったか、龍脈の授業でもそんな話をしたような気がするわよ。ねえ、総次郎?」
「一緒にすんなよ。俺はこんなところで習わなくたって一応それくらいのことはもう知ってる。闇の龍脈ってのは、陰の龍脈が凝り固まった結晶のことだろ?」
そうだよーー僕も直江山城守に教えてもらったので知っている。
放出の特性があって日の本のあちらこちらに源泉がある陽の龍脈とは違い、陰の龍脈には《凝集》という特性がある。
そのため力は吹き出すことをしない代わりに一処に集まり、塊になろうとする作用が働くのだという。
闇の龍脈、というのは陰の龍脈の中でも正体がよくわからないーー凝集の作用で一処に集まり、塊になった《それ》を指す、結晶のような石のことだ。
「や、闇の龍脈なんてどうしてそんなものを元茂殿は持ってるの?」
「そんなことはあなたには関係のないことだ。ささ、お早く部屋へお戻りください。また面倒なことにならぬうちに」
「そいつはこっちの台詞だけどねえ。お前、そんなもの持ってて無傷無事に済むとは思わない方が良いと思うよ?」
火車が短い前脚で元茂の拳を指した。強く何かを握りしめる拳を。
「闇の龍脈ってのは言わば陰の龍脈の失敗作なんだよ」
「失敗作?」
元茂が繰り返す。
「そうそ。陰の龍脈ってのは退廃の力だ。月の龍脈なんかがこれにあたるね。月の満ち欠けや海の満ち引きもこの力。髪が抜けてもまた生え替わったり、爪が伸びたりするのも陰の龍脈の力らしいよ。死んだ人間は生き返ったりしないけどさ、人や動物の皮膚や身体の一部なんかは絶えず死んで生まれてを繰り返しているんだよね。闇の龍脈ってのはその退廃の過程で生まれ変わることが出来ずに滅びるだけになってしまった力の塊。凝縮された滅びの力の源さ。そりゃあね、昔は闇の龍脈の結晶があちらこちらに落っこちていたよ。そういうものが現世に化け物となって、奈良や京の都なんかをうろちょろしていたんだ」
「い、いやああ……化け物ですって」
「……だから、お前は人の話を聞いてたか? 今はもう日ノ本中の闇の龍脈が御所で管理されてんだよ。昔々の時代に日の本中からかき集めて、御所へ移したんだ。一処に集められれば凝集の特性で闇の龍脈の力はそこへ集まるからな」
「そう。世に陰の龍脈が満ちる限り、凝集の作用で闇の龍脈は生まれ続けるーーこれは致し方のないことだ。あちらこちらで闇の龍脈が見つかればその都度御所へ送られると思うよ、今でもね。それにしたって、お前のそれは気配からすれば随分大きな結晶みたいだから、その辺に偶然落ちていたってわけじゃあなさそうだけど?」
元茂は何も言わない。ただ火車をじっと睨みつけている。
「猫又なんててんで大した化け物じゃない。そんな物騒なものに頼って大騒ぎするより、滝行でもさせてみたらどう? 効果てきめんだと思うよ」
「……なに?」
きしし、と火車が笑う。大きな口を顔が上下に分かれるほどに更に大きく開いて尾を揺らす。
「大体おかしいと思ってた。お前の妹が言ってたよなーーお坊さまがくれたお守りがあるから力が封じられている……だって! 力が封じられたりしたら、一体どうやって猫又は身体の外へ出ていくんだ? 力を失って、いよいよ器に閉じこもらざるを得ないじゃないか。未来永劫外へ出るなんてことは叶わなくなる。人間てのはそんなこともわからずにえばり腐っているんだから、まったくお笑いだよ!」
火車は欄干をぴょんと蹴ると元茂のところまで宙を跳ねるようにして歩いてやってきた。そうして彼の顔を間近にじっと見つめて再び口を開く。
「みんなお前に同情していたから、道場で会った時は言わなかったけどさあ……」
火車が元茂の耳元に顔を寄せて何かを話しているーー僕にはその内容までは聞き取れなかった。
「……黙れ化け物め! それ以上我らを愚弄すると許さんぞ!」
突然元茂が大声を上げたよ。さっきまでとは全然雰囲気が違う。髪を振り乱し、左手で火車の頭に掴みかかった。
「さあてね。おいらは可能性の一つとして耳に入れただけだ。気になるならお前の親父にでも真相を聞いてみたら?」
火車は元茂の攻撃をするりとかわす。
きしし、と楽しそうに笑っているその姿に、僕はなんだか嫌な予感がしたよ。




