36・西国より忍び寄る影
「そもそも事件のきっかけは、有馬の家のご当主の朱印船が澳門に立ち寄った時にやらかしよったことや。
その時に有馬家のご当主やったんが、直純やフランシスコの父親ーー有馬晴信。有馬家の朱印船の水夫らが暴力沙汰を起こして、ずいぶんな数死んだらしい」
「澳門って……確か、明国の南の方にあるっていう、伴天連の港でしょ?」
「そうや。葡萄牙人が大勢おる、栄えた港やな。
自分のところの船がやられたんやーー当然、晴信は澳門の連中に報復したいと考えた。ほんで、大御所様にその許可までもろてしもたんや」
義真が言うには、駿府へ事情を説明に行きたいと澳門からはるばるやって来た「ペソア」という名の偉い葡萄牙人は、有馬晴信の船団を見てようやく事に気が付き、留め置かれていた長崎から澳門に帰ろうとしたらしい。
けれど、時すでに遅しとはこのことだよ。
有馬晴信は四日四晩長崎港の外でペソアの船を攻撃し続け、ついに彼は壮絶に船もろともに自爆してしまった。
「その時にぺそあが乗っとった船の名が……なんとかかんとかで……でうす号やと。でうす、やで? 連中の神様の名ァやないかい……ほんま、えらいこっちゃ。おかげさんで葡萄牙はブチ切れて交易は壊滅。大陸からは絹糸まで入ってこんようになってしもて……おまけに司祭様まで澳門に飛ばされたまんま帰ってこられなくなったっちゅうこっちゃ」
「司祭様?」
「日ノ本の言葉が話せる有名な葡萄牙人の司祭やな。若い頃に日ノ本に来たっちゅう話で、日ノ本の言葉がぺらぺらに話せるんや。太閤殿下や大御所様にもずいぶん信頼されとった南蛮人やったが、有馬直純ら一部の人間がずいぶん目の敵にしよってからに、澳門へ追放されてしもたらしい」
「だけど……それが一体どうして禁教を強化する流れになるの?」
義真はくたびれたような顔で言った。
「こいつはつまり葡萄牙交易の利権が絡んだ揉め事やが……要するに、関係者が全員キリシタンやったんや。有馬晴信もその取次をした大御所様のご家来もな。キリシタンっちゅうのはただ神様に祈るだけの人間やないど、千徳坊っちゃん。連中はな……信仰を道具に金儲けをしとんねん! 信仰の力で国土を広げて、そこで商いを始めて最終的には自分の属国にしよるんや。大御所様はそれを見抜かれて、日ノ本が澳門みたくなることを恐れたのやろ。英断やな」
それで、キリシタン全員が悪者のように言われる世の中になるのかーーそう考えたら、僕は何だか心が痛かったよ。だけど、葡萄牙の属国になるなんて自分も嫌だし……なんとも難しい。
「結局、有馬晴信は死罪になってしもたんや。息子の直純殿は昔から大御所様の傍におったこともあって連座を免れた。司祭を澳門送りにした功労者やし、今でも領地を貰って藩主をやっとる。キリシタンやめへん弟をいつまでも許すとは思えんかったが……まあ、強硬手段に出たっちゅうこっちゃな」
「そうなんだ……」
なんだか、僕は事件の詳細を聞いてしまったことを後悔したよ。
あまりにも楽しくない話で、何をどう折り合いつけたらいいのかよくわからない。
すると、義真は
「なんや最近はええ噂をちいとも聞かんわなあ。みいんなこぞって江戸へ集まりよる。お義父はんも丁度江戸へ来とんのやろ?」
と、いつもの軽い調子で僕に言った。
「ええ? そうだけど……噂って……何?」
「なんやお前、知らんのかいな。まあ、こないなところにおるなら外のことはわからんわな」
仰いでいた扇子をパタリと閉じて長真は言った。
「ーー戦や」
僕は今日もお饅頭を貰おうと手を伸ばしていたけれど、思いもよらない義真の言葉に思わずそれを引っ込めてしまったよ。
「ええ!? 戦? どこで?」
「どこでも何もないやろ。大阪や大阪。大阪の豊臣家がそういう準備をしとんのやという話やで。秀頼さまの名前であっちゃこっちゃの大名家に密書を送って、お味方に誘うとるらしい」
義真は僕にお饅頭の乗った皿を差し出すと、楽しげに目を細めた。
「ええわなあ。こら、いよいよ最後の戦が始まるで坊っちゃん! お義父はんには存分に働いてもらわんと」
「本当に戦になるの?」
僕は長員も同じことを言っていたということは伏せて尋ねた。
「大御所さまも将軍さまもそないなことは望んどらんようやが……まあ、このままやと間違いないやろな。せやからこれは、わしと坊ちゃんとの内緒話にしとくんやで」
義真が時折見せる悪い企み顔でそう言ったよ。長員もよくやるこれはきっと、彼ら一族の血筋的なものかもしれない。
「せやからあっちゃこっちゃの大名連中もここへご子息を入れとんのやろ。関ケ原のときとおんなじーー自分はこちらの側に付きますよっちゅう意思表示や。学寮におる生徒らは残らずみいんな徳川への人質みたいなもんやないか」
そうだよーー僕も義真の言葉に頷いた。
僕らだって薄々感づいてはいた。
藩主を育てるだなんてのは所詮大義名分だ。
僕の父上だって総次郎の実家だって、徳川への忠誠の証として僕らをここへやっている。人質を差し出すというのは強い者に恭順の意を示す為に用いられた、乱世の頃からの倣いだもの。
そうして父や実家が徳川に背いたその先のことだって、僕らは分かっているつもりだよ。
そんな人質たちがこれまで一体何人いただろうーー僕の従兄弟にだって、戦で人質になって命を落とした人がいる。
従兄弟の命を奪ったのは他でもない、僕の父だ。
戦ならばそうしたことも当然あるというのが、僕らの親達の世代だった。
「大阪が味方に誘うって……それって本当なの? そんなことが本当にあるの?」
「弟に嘘なんかつくかいな!」
そう言って笑う義真だけれど、僕はよく知ってるよ。義真は僕が長員の名前を出すたびに「あいつは信用でけへん」とか言うことをさ……。
「もともと豊臣恩顧の大名連中やキリシタンなんかがずいぶん誘われとるみたいやな」
僕は再び息を呑んだ。
「自分らに味方すれば信仰を許すーーそういうこっちゃ。まったく、調子ええこと抜かしよる。太閤殿下なんてあれほど宣教師連中をむごたらしい目に遭わせたっちゅうのに、今更そんな話を真に受けてほいほい大阪に従うキリシタンなんておるんか、ほんまに。おったらそいつ、ほんまの阿呆やで」
義真は僕の顔を指して言った。
「もっとも? 上杉みたいな斜陽の貧乏大名なんぞには大阪も声なんて掛けんやろ。味方にしたところで大したことはでけへん。大御所さまとてよもや上杉が寝返る心配なんてしてへんわ。なんせ、貧乏過ぎてそないなことも今更でけんわな!」
義真の乾いた笑い声が客間中に響き渡ったよ。
そんな義真を見ていたら、どうにもならないことをあれやこれや深く考えている自分がバカバカしく思えた。
「ねえ、義真? 義真はさあ……どうして上杉の家を継ぐのは辞めちゃったの? 義真がずうっと父上の養子をしていたら、義真が上杉の家の当主になれたんじゃない?」
それなりに気を使って尋ねた僕だけど、返ってきたのはいつもの笑い声だった。
「いやあ、儂はそういう器やないわ。向いてへんかったわな。せやから上杉の家とはおさらばしたんやないか。気苦労ばっかり多くてかなわんわ」
「ふうん……そんなものかなあ……」
僕は生まれたときから上杉家の若様をしているし、跡継ぎになろうと思って頑張った結果として将軍様に認めてもらえたので、今の自分にはとても満足している。そりゃあ気苦労がないとはもちろん思わないけど。
「もっとも? 今更やっぱり当主になりたいとか言っても駄目だからね! 米沢の藩主は僕がやるんだから」
「へえへえ、左様ですか御曹司殿。まったく……今更五十で跡継ぎ生まれるとか、お義父はんはほんま悪運の強いお人やで」
「悪運ってのはどうにも納得出来ないんですけど。うちだって父上だって悪いことなんかしてないのに……」
「世の中っちゅうのはそういうもんや、千徳坊っちゃん。どんなにええことしてたかて、そうと世間様に思われなかったら、みいんな悪人になるもんや。坊っちゃんも上杉の家を継ぐんやったら、そういうところは上手くやらなあかん。周り中敵に回してそれでも戦おうなんて……お義父はんみたいなことにでもなったら、自分がしんどいだけやで」
義真がそういう神経質な性格には見えなかったけれど、言葉には妙な説得力があったよ。確かに自分も父上と同じことなんて出来ないとは思う。自分の家だけで天下取り目前の味方がいーっぱいいる大大名と戦をしようだなんてことはさ。
「上杉の家も貧乏で戦なんぞそうはでけへんのやし、争いごとなんかせんと周りと上手くやるんが一番や。お義父はんみたいな頭の硬い人間には死んでも無理やが、お前ならいけそうやないか」
争いごとなどせずに穏便に事を済ませたいーー
なるほど、義真は上杉とは相性が良くないわけだよ。
常在戦場ーー父上を含め、上杉兵ってのはいつも死ぬつもりで戦をするつもりでいるんだからこういう穏健派とはとにかく反りが合わないのだ。
そういう義真の性格を、父上ももしかしたらわかっていたのかもしれないよ。でなきゃ一人の子供もいないのに跡継ぎの養子がそれを辞退して出奔しちゃうなんて許さないよねえ、絶対に。
もっとも、僕には戦う相手がいるから義真のようにそうそう穏やかなことばかりも言ってはいられない。
なにせ、僕には上杉の当主となったらまず倒すべき大いなる敵ーー"貧乏”という超厄介な存在がいるんだからね。
そいつとだけはどうあっても戦わないといけないもん!