152・鶴寮の若さまたち、鍋島元茂を追うこと《壱》
北の御殿には寮が二つしかない。
鶴寮には正規の寮監督が現在不在であるから、北の御殿で寮監督の主席を務めているのは割菱の寮を任された寮監督・小豆山三左衛門という人らしかった。
勝丸はこの男が大の苦手なのだといつか言っていたのを僕は覚えているよ。同じ北の御殿で頼るべき男がこんな人間しかいないというのがひどく忌々しいと愚痴をこぼしていたっけ。
その忌々しい割菱寮の寮監督殿を、僕ら鶴寮生三人は割菱寮の寮監督らの待機部屋前の廊下に並んで見つめている。餅のように白くてまん丸い顔に、切れ目のように細い糸目をしたおっさん。
「はあ……それで? 夜明けと共に俺を叩き起こした挙げ句、再びまた面倒事を持ち込むつもりじゃああるまいな?」
割菱寮の控えの間で仕事をしながら小豆山は勝丸を睨み付けた。割菱寮のお部屋番は白湯をもらいに大奥へ出掛けたきりまだ戻らない。
「いやあ……ンなことを言われたって、俺だって夜明けと共にあいつに叩き起こされたのは同じですよ。いや、実はねえ……ついさっきも南の御殿から預かっとるあの鍋島元茂が外出を願い出て出て飛び出して行ったばかりだが、実は残りの三名も目を覚ますやいなや俺ンところへ飛んで来て、すぐに外出をさせてくれんかと言い出しやがって……」
背後の僕らを指して勝丸。
「はあ?」
思わず小豆山は筆を運ぶ手を止めて顔を上げた。
「また!? さっきの奴もそんなことを言っとったじゃないか。お前んところの生徒どもはどいつもこいつも皆どうかしとる。寝ぼけとるんだ」
忠郷が思い切り彼を睨み付けていたけど、そんなことはお構いなしとばかりに小豆山は言葉を続けた。
「そもそも外出許可というものはな、そんなに都合よく下りやせん。徳川の御一門のご子息ならともかく、鍋島なんてのは外様も外様、つい一代前は陪臣だったような御家じゃないか。外出の許可を出すか否かの審議だけで一日二日はかかるだろうよ。そこな三人とて始終喧嘩ばかりして保護者が呼び出しくらうくらいなんだから、そうすぐには出やせんだろう。しかももう明後日は上覧試合だ。とりあえずそれを待ったらどうだね?」
勝丸は首を横に振る。
「俺だってそう言いましたよ。元茂の奴にだってそう言った。しかしあいつもこいつらもどうしても帰る、なんとしてもすぐに出掛けると言って聞きやせんのです。神妙な面持ちで一大事だと言うんですから……」
どうしたもんか、と再び勝丸が呟くと小豆山は冷たく言い捨てた。
「大体、鍋島元茂なんてのは問題起こしてうちの御殿に蟄居させられとる身なんだぞ? 一昨日の今日でそんな我儘なんぞ言えた義理じゃあなかろうに。そんな申請がすぐに通るはずがない。そんなものを上に願い出たら我らの方が叱責を受けるわ。二三発ぶん殴って大人しくさせておけばよかったものだ。護衛役ってのはそういうのが仕事だろう?」
「大人しく聞いていればふざけたことを……」
そう呟いて総次郎が立ち上がりかけたのを、僕は全力で抑え込んだ。忠郷も手伝って総次郎の肩を抑え込む。ここでまた総次郎がキレて今度は隣の寮監督の鼻の骨でも折る自体になったらとんでもない。
「へいへい。鍋島元茂のことは学寮長さまから俺に一任されとるんだ。好きにさせてもらいますよ」
「そこな上杉千徳だって、つい一昨日お前さんが屋敷へ謝りに行ったばかりじゃあないか。そこの二人の生徒も連れて行ったんだろ? この上更に三人揃ってどこへ外出するつもりか」
「なんでも上杉という家は戦の前にはなんやら儀式をしなきゃならんらしくってねえ。それで上覧試合前にそいつをするから戻ってこいやというんです。武禘式、というらしいが……つまり戦勝の儀式ですな。だから試合に出るこいつらも一緒に――というのが千徳喜平次の保護者のご意向でね。先日屋敷を尋ねた折に言われていたのをすっかり忘れていた。既に学寮長さまの許可は貰っていますもんで、申請だけすぐに出します」
小豆山は「ふうん」と呟いて僕を見た。
ええっと――そんなことは僕には初耳だったけれども、ここは勝丸に話を合わせた方が良さそうだ。