150・夢から覚めた朝に 《壱》
夢を見ても大半の人が忘れてしまうと言うけれど、幽世へ招かれた夢はさすがに忘れないみたいだよ。
うちの父上もそうだし、総次郎も忠郷も朝起きると元茂の話でもちきりだった。
「大丈夫かよ、あいつ……昨夜もずいぶんキレててヤバそうだったじゃねえか」
「そうよね……一体どこへ行ったのかしら」
僕らが彼の身を案じていたのには理由がある。
僕らが目を覚ますとーーすでに彼の姿は部屋になかったんだ。
姿がないどころか、彼が使った布団は綺麗に畳まれていて着物もない。既に支度を済ませてどこかへ出掛けたとしか思えなかった。
「朝の稽古でもしてるのかなあ……ほら、道場とか。だって元茂殿は柳生師範の門弟なんだからさ、それくらいはしていそうじゃない?」
「昨日の朝は別にそんなことしてなかったじゃない」
「わからねえだろ。俺たちがまだぐっすり寝てる間にしてたのかもしれねえぜ」
すると僕のお尻の脇の布団の中でもぞもぞと何かが動く感覚がした。ぴょこりと長い尾が見えて僕はそいつの名前を呼んだよ。
「あ、火車。お前はゆうべ来なかったね?」
「ううん……なんだい?」
すっかり姿を現して猫のように伸びをしている火車に僕は教えてあげた。火車が幽世へ付いてこないのは珍しい。
「僕らゆうべ、また草間たちに幽世のお城へ呼ばれてたんだよ。草間の奴、なんと元茂殿まで呼んでたんだ」
「ああ、そうらしいね」
「なんだ、あんた知ってたの?」
「そりゃあね。だっておいら、草間の持ち主のところへ行ってたんだもん。お前達がお城へ呼ばれる前にあいつが本人に話をしているのを聞いてたよ」
草間の持ち主ーーというのはもちろん、うちの父上のことだ。
「じゃあお前、江戸の屋敷へ帰っていたの? 何か用事?」
すると火車は深くため息を付いて呆れたように言った。僕ら三人を順繰りに見てね。
「あのさあ……おいらに面倒な仕事を頼んだのはどこのどいつだい? 仕事をするってのはねえ、そんな簡単なもんじゃあないんだぞ。報告・連絡・相談は業務の基本だ。お前の兄貴とやらに文を届けるんだって言うから、そいつを報告しに言ってたんじゃないか」
すると総次郎は血相を変えて立ち上がった。
「そ、そんな報告も連絡もしなくていいんだよ、この馬鹿猫! だ、誰がそんなことしていいなんて言ったんだ! 冗談じゃねえ! これは隠密にことを運ばなきゃならねえんだ!」
「はあ、そうなの? けど、そんなこと知るもんか。だっておいら、苦労して仕事を終えた後になってあいつに「なんでそんなことしたんだ」なんて怒られるようなことはしたくないもん。いちおうね、お伺いは立てておかなくっちゃ。また喉笛掻っ切られるようなことはゴメンだから」
火車は喉元を掻きむしりながら言う。よほど一度目の失敗が堪えているらしい。
「父上は文を届けてもいいって言ったの?」
火車は頷いた。
ああ、よかった! せっかくあんなに一生懸命書いた総次郎の文を無駄にはしたくない。
「だから、さっさと文をちょうだいよ! もうさすがに時間切れだからね!」
総次郎は渋々立ち上がると、文机の引き出しから何かを取り出して戻ってきた。しっかりと封がされたその文を火車に手渡して
「……もう二度と誰かに喋るんじゃねえぞ。間違ってもうちの人間にはバレるな」
と怖い顔をする。
火車はそれを受け取るや、普段は長い毛に隠れている自分のお腹の袋にしまいながら「わかってるわかってるう」なんて返事をしたよ。でも総次郎は尚も不審そうに火車をいよいよ睨み付けた。
「いいか? 頭の弱いケダモノにもわかるようにちゃんと言っておく。伊達家の人間にだけはこの文のことを知られたり、渡すところを見られたりするなよ。誰にもだ。俺の身内はもちろん、家臣も、うちの領民の誰にも!」
「はいはい。わかったよ。そもそもおいら、いつもは普通の人間なんかにゃ見えたりしないもん。ああ、そうだーー」
火車は忠郷にも声を掛けた。
「お前のは後回しね。ちょっと時間が掛かるから」
一瞬キョトンとした忠郷だったけど、すぐに「ああ、あれね!」と顔を綻ばせた。
「? 何のこと?」
「今に支度が整ったら教えてあげるわよ」
よほど良いことなんだろう。声の調子や気配でわかる。
こういうのは僕も感じていてとても楽しいし嬉しい。
世の中の人間がこういう人間ばかりだったなら、人の気配を感じるこちらとしてもどんなにか気分がいいだろうにさあ。