138・鍋島元茂、付喪神から褒美をもらうこと《壱》
「ーーまずはそちらのお水をどうぞ兄上さまに差し上げてください、鍋島のおひいさま。少しだけでも口を付けておいた方がいい。如何に鍛錬を積まれているとはいえ、無理はよくありません。楽になりますよ」
しばらく身じろぎせず手桶を差し出した水神切りを睨み付けていた市だったけれど、渋々折れてそれを受け取った。柄杓で水をすくい、兄の顔に近付ける。
元茂が何杯か水を口にするのを見て、僕もとりあえずホッとした。
霊水の効き目はたぶん今ここでは僕が一番よく知っているもの。僕もここで同じような目に遭うと必ずこれを飲んで帰されるからさ。
「ねえ? 今、‘’鍋島のおひいさま‘’と言ったわ」
「ああ、それじゃあおそらくあれが……」
忠郷と総次郎が小声で何事か囁き合っていると再び上座から声がした。
それを感じた瞬間、僕らは強く引き寄せられる力を感じたよ。
次の瞬間、瞬きを二度するうちに、僕らは上座のすぐ目の前の位置まで移動していた。
僕はこういうことがここではよくあることだとわかっているから驚かなかったけど、忠郷は僕の肩を掴んで声をあげた。総次郎も市も周囲をきょろきょろと見渡している。
火車切りはいつもの大広間の自分の定位置に戻ったらしかった。他の付喪神たちも皆々自分の定位置に戻り、少し頭を下げた姿勢のまま固まっている。
「貴方方をお呼び立てしたのは俺ですよ、おひいさま。何度もお呼び立てして申し訳なかった。そいつはただの使い走りと思ってください。陪臣の刀で便利な能力があるので、何かとついこき使っちまう」
「はいはい……持ち主からも同じことを言われておりますね」
「あなたのお屋敷へ行かせたのも俺の指示です。状況を確認せねばと思ってね」
お屋敷?
引っかかる言葉もあって、僕は草間に尋ねた。
「お屋敷って? 草間、一体どうしてこんなことをするのさ。いくら夢の中だからって、お客人にこんな勝手なことをしたと知れたら父上だって黙ってないと思うよ」
付喪神達にお灸を据えるのは持ち主の名を出すのが一番だよ。彼らは元々が器物であるから、自分の持ち主の言うことには逆らえないんだから。
けれども、草間は涼しい顔をして言った。
「おや、そうかい。俺は主上のご命令もあってこの二人をここへ呼びつけているんだがね」
「ええ? 父上の?」
「当然だろ。息子の身に何が起きたのかを知るということは、親にしてみれば当然の勤めだ。そいつを俺たちがお助けすることの一体何が悪だと言うんだね、お前は」
「だ、だけど……元茂殿はこんな苦しそうにしてるじゃないか。剣術の試合だなんだって言って、明らかにやりすぎだよ!」
「やりすぎなもんか。そいつはお前とは違うんだぜ、若さま。そのお方は将軍様の剣術指南役殿のお弟子さんだと言うじゃねえか。その若さで大層な腕前だよ。いずれは陰流の免状を貰えるだろう……そんな剣術家を相手に勝負をするってえのに、手心を加えろと言うのか? お前は」
「う……」
草間の言葉に、僕はいつだったか彼らにここで剣術の稽古をしている時に言われた言葉を思い出したよ。
獅子は例え兎のような小さな動物を仕留める時も全力を出すものだーーと。
確かに、力の差があるからと言って僕が元茂殿に同じことをされたらやっぱり腹立たしいかもしれない。そりゃあ、総次郎にも剣術の授業で一本も取れたことがない僕なんかじゃ元茂殿には歯が立たないだろうとは思うけどさ。
「そういうのはな、相手の誇りや矜持を傷つけるもんだ。肉の器を持たない俺たちは急所に打ち込まれたところで痛みなんぞ感じない……圧倒的に不利な条件下で戦っている元茂殿は本当に優れた腕前の持ち主だよ」
だからーーと草間は言葉を続けた。元茂は所在なさげに視線を彷徨わせている。
「お約束の褒美を差し上げます。すぐにここへ参られますよ」
「褒美……」
市が草間を見つめて呟いた。