125・鍋島元茂、夜の世界へ誘われること
僕ら鶴の寮の生徒はその日の午後ずうっと剣術の稽古をしていたよ。
忠郷は寮の庭で元茂に個別に稽古を付けてもらい、僕と総次郎は道場で割菱寮のみんなとも一緒に稽古をした。
「ふわ~……さすがに今日はくたびれたあ。でも僕も腕前上がったでしょ?」
僕は布団の上に大の字になって横になっていたけど、ごろりと寝返りを打って総次郎に尋ねた。
総次郎は相変わらず兄上に書いた手紙を読み直していた。さすがにもう大丈夫なんじゃないだろうか。
「……上がるとか上がらねえなんて言ってる場合か。試合までもうあと三日もねえんだぞ」
「ええ? そうだったかしら! いやだ……三日もないの?」
女の子のような悲鳴を上げて忠郷。元茂に目をやると彼が無言で頷いた。
「ええ……本番はもう明々後日ですので……当日は練習の時間はないかと」
忠郷が盛大なため息を付いたよ。彼は掌が痛いのか、濡れた手ぬぐいで冷やしていた。布団の傍らにも水を入れた桶を置いている。
「痛みますか?」
元茂が気付いて尋ねると、忠郷は「大したことはないのよ」と言って手ぬぐいを手首に押し当てる。
「いきなりこんなに練習を始めたんだもの……そりゃあこうなるわよね。当然よ。無傷無事に上手くなるとは思わないわ」
忠郷が手ぬぐいを桶に戻す水音がして僕はかいまきの中へ潜ったよ。
すると火車が顔の傍までやってきて
「結局今日のうちには出発出来なかった」
と不満げに呟いた。
「明日の朝には出発出来るんだろうね? おいら、仕事は早く片付ける主義なんだから!」
「わあかってるよ! 喧しいなほんとにお前は!」
ふわふわとした火車の毛並みを感じながら次第に瞼が重くなるーーどこか遠くで再び水音がしたような気がした。
ちゃぽん、ちゃぽんと断続的に音がして鍋島元茂は考えた。
ーーこれは何の音だ?
ああ、これは雨音だ。
雨粒が滴る音、あるいは水滴ーーそこまで考えてはたと思い当たる。
急速に目が冷めて瞼が開いた。
(ーー今日は綺麗な月が出ていた)
満月を過ぎて三日、次第にやせ細り始めた美しい月夜を思い出して元茂は身体を起こした。
そうして背後を振り返る。
「……な、一体誰が……」
夜の剣術の稽古を終えて確かに自分が閉めたはずの雨戸が何故か開いていた。
元茂は勢いよく掻巻を跳ね除け、立ち上がる。
これは化け物の気配だ。
それに龍脈の力の気配もする。
「ーーいい夜ですね。遅い時間にお訪ねして申し訳ありません……」
外廊下の庭を背にして見知らぬ人間が立っていた。線の細い男がこちらを楽しげに眺めている。
「……一体何の用だ、化け物め」
「ああ、大丈夫ですよ。いろんな気配がすると思うんですけど、某は水神切りと申すただの名刀の化身ですから」
現れた人影を見つめて元茂は気が付いた。
彼が指をくにゃくにゃと動かすと、ぽちゃり、ぴちゃりと水音がする。先程の雨音はこれだ。
音の正体は忠郷が脇に置いた桶から聞こえてくる。桶の中の水がひとりでに波打ち、持ち上がりーーそうして再び桶に返る音。
「そうそ。こいつはうちの刀の付喪神だね」
不意に聞こえた声に元茂は振り返った。千徳の掻巻の中からもぞもぞと現れた火車があくびをしながら言う。
「今度はこいつをお城へ呼ぶのかい、水神切り? 今日は満月でもないのにさ」
火車の言葉に、水神切りと呼ばれた男は懐から何かを取り出した。元茂は薄闇に目を凝らす。
それは短冊だった。和歌の書かれた短冊である。
「鍋島家の若君様とお見受け致します。我ら少々お尋ねしたいこともございますゆえ、何卒我らの城でお出ましいただきたくお迎えに上がりました」