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121・鱗屋敷の悲劇

 江戸城の御殿で千徳がすっかり元気を取り戻して同寮らとお喋りに興じていた夜ーー


 江戸は桜田にある上杉家の鱗屋敷は大騒ぎになっていた。

 御家の執政、直江山城守が倒れたからである。


「……旦那さま目を覚ましたかい、水神切り」


「いやあ……まだですね。ご心配なのはわかりますけど……目を覚まされたらお呼びしますから」


「ああ、どうしよう……今旦那さまがお倒れになったら、明後日返却の書物の締め切りなんて絶対に間に合わないぞ」


「こ、こんな時に写本作りのことなんて……旦那さまにもしものことがあったら写本どころの騒ぎじゃないだろうが!」


「いや……考えてもみろ。これで無事に目を覚ました時に自分が倒れている最中の仕事が全く進んでいないとわかったら……どんな怒りを買うやら……」


「そ、そうだ! 何があっても仕事の手は止めるな――旦那さまなら如何な時であってもそう言うに違いない!」


 旦那ーー上杉家中においてそう呼ばれる人間は一人しかいない。御家の執政・直江山城守兼続当人である。もっとも、「旦那」なんて呼ばれるくせに人の食事内容にまでいちゃもんを付けるほどのどケチであるけども。


 直江山城守の寝所前の廊下で口論を繰り広げているのは彼の右筆係だった。仕事が山程あるのだろうに、雁首揃えた彼らが皆々青い顔で時折自分を見つめてくる。


(まったく……なんてザマだよ。二代目さまの呪詛返しの怪我を見たらひっくり返って気絶するなんてさあ……)


 水神切り兼光は深いため息を付いて寝所に入った。


(本当に直江さまは二代目さまがいないと駄目なんだから……)


 部屋の外ではまだ右筆係たちがあれやこれやと議論を続けている。仕事の多い主人である彼が倒れた今、何から先に手を付けるべきかと話し合っているらしかった。


 水神切り兼光は神の末座に列する付喪神である。人が死ぬ先触れがあればそうとわかる。


 直江山城守の具合は大したことはない。ただ、ちょっと気が動転した上にここ数日の過労が祟って目を回したというだけで。


 水神切り兼光は彼の枕元に腰を下ろした。顔の上で掌を翻し、人差し指を額の上にかざすと指先からぽたりぽたりと水滴が落ちた。


「あれでよろしかったんで? 皆さん心配されておいでですよ」


 すると目の前の大きな人間が無言で起き上がった。その気配がただごとではないように感じられて、水神切りはぎょっとして彼の顔を覗き込んだ。


「……許さんぞ、鍋島め……」


 これはまずいーー水神切り兼光はそう直感した。声に怨念が籠もっている。


「ちょ、ちょっと……旦那さま? 目が覚めたとはいえ、お静かにしていてくださいよ。まだ身体に障りますから……」


 ドン、と畳を叩く音が部屋に響いた。

 彼がありったけの力で握りしめた拳を渾身の力で振るう音。刹那、直江山城守の声が鱗屋敷中に響き渡った。


「当家に一体何の恨みがあって若君に鬼などけしかけるというのだ! もう生かしてはおけぬ!」


 これと同じ光景を水神切り兼光は見たことがあるーー自分が水神を切るに至る直前に。


「だ、旦那さま落ち着いて……どうどう……深呼吸ですよ、深呼吸」


「ええい、陣触れだ! 大戦になるぞ水神切り! 鬼をけしかける鍋島の小倅ごとぶった切ってくれる!! お前の弟分の兼光も早馬で米沢より取り寄せる! そいつを殺して俺も死ぬ!!」


 水神切り兼光はがっくりと肩を落としてうなだれた。一度こうなってしまっては自分にはもうどうすることも出来ない。

 水神切り兼光は目が覚めた主人に事の経緯を説明してしまったことを激しく後悔していた。


「あああ……だめだこりゃ……本当に旦那さまは血の気が多いんだから、まったく……」

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