113・火車、お手紙を届けること《弐》
「お前はいちいちうるせえんだよ! お前は大人しく剣術の稽古をしてりゃあいいんだ! ちったあ新陰流はものになったのかよ!」
総次郎の激高など忠郷には何の効果もない。ただ、元茂だけがバツの悪そうな顔をしていたが。
「新陰流なんて嫌よ。竹千代さまや義利とかぶるじゃない。どうせなら違うのが良かったわ」
「そ、そうですか……すみません」
火車は総次郎の膝の上で大きく脱力した。
「はああ……まったく……人間ってのはなんで文を出すだけなのにこういちいち時間が掛かるんだ?」
「仕方ないでしょ。それだけ大事な文だってことよ。わかってる? あんた、責任重大なのよ?」
ふうん、と鼻で息を吐いてーーそして火車は思い出した。言いたいことがあったのだ。
「そうそう……出立前にちゃんと確認はしておきたいんだけどさあ」
火車は総次郎を見上げて言葉を続ける。
「おいら、仕事をする以上は子供の使いみたいなことはしたくないんだよ。真面目な火車だから、仕事の評判を落とすようなことはしたくないもん。ただ文を届けて、はいそれでおしまいーーなんてことは出来ないなあ。だって、ただそいつを渡すだけなんて、読まれるかどうかもわかんないし、受け取ってすぐにお前の兄上に捨てられでもしたらおいらの苦労は全部水の泡じゃないか」
火車は総次郎の文机の上を指している。そこにはまだ折り畳まれる前の文が数枚置かれていた。
「それはもちろん……そういう可能性だってある。でもそんなのは仕方ねえことじゃねえか。文を読むか読まねえかは兄上次第だ」
「それでも一応、持っていく身としたらちゃんと確認しておきたいんだよ。お前は兄上のことをどう思ってるんだい? どういう気持でこれを書いて、どういうことを望んでこの文をおいらに託すのか……そういう認識はちゃんと擦り合せををしておきたいね」
火車は宙をぴょんと蹴って総次郎の文机の上に降り立った。前足で文を指す。
「……兄上には申し訳ないと思ってる。俺のせいで跡取りの座を失って……」
「あんたのせい?」
「……俺の母親は正室だ。おまけに俺には龍脈の烙印がある……それで兄上を差し置いて嫡男は俺がふさわしいってことになったらしい。俺は伊達の一族の血が濃いから……それで烙印がもたらされたんじゃねえかって話だが……でも先に生まれたのは兄上だった。俺が生まれるまでは跡取りと言われていたのに……」
「よくある話です。あまり気に病まれぬ方がよいのではないですか?」
自分もそうだ、とは元茂は言わなかった。
「江戸屋敷で兄上の母親が死んだ時も……兄上は屋敷へは来なかった。どうせうちの母親が兄上を江戸屋敷には来させなかったんだろう。母上は兄上のことを疎んじてる。父上はよくわからねえ……だけど、だけど……俺は……」
総次郎の言葉は段々と先細り、ついには聞こえなくなった。
しかし、突然《ドン!》と音がした。総次郎が自分の文机を強く叩いたからだった。
「……俺にとって兄上は、この世でたった一人の兄上だ。例え俺のことを快く思っていなくても、恨んでいても……俺は兄上が元気でいるのか知りたい。どこで何をしているのか知りたい。何を思い、どんなことを考えているのか……」
我が身のことでもないのに、元茂は心が痛かった。ちりちりと焦げ付くような心の痛みの正体が元茂にはわかる。
これは嫉妬だーー羨ましいという妬みの気持ち。
生まれたばかりの腹違いの弟が、もしも廃嫡となった自分のこともあんな風に思ってくれたならどんなにいいだろう。
そうすればこの鬱屈とした、言葉には出来ない淀んだ気持ちがどんなに晴れるかわからない。