109・西の御殿のぬしさま登場《弐》
「僕、追いかけっこも隠れ鬼もちょー得意なんです。捕まらない自信があるもん。だから今度は出来れば僕が鬼をやりたいな。みーんな捕まえちゃうよ」
僕は足の速さには自信があるので、単純なかけっこでも負ける気はしない。おまけに気配を読めば自分に近づく鬼の気配なんて目を瞑っていたってわかるのだから捕まるわけもないのだ。普通の人間が相手であるなら。
「だが、本物の鬼からは逃げられなんだのだろ? 御殿中の噂だ」
「はい。でも大丈夫でした! このとおりぴんぴんしておりますので」
「お前に万一のことがあらば跡取り不在で改易の道もあっただろうに……ほとほと悪運が強いと見える、上杉という家は」
「お褒めに預かり恐悦至極」
僕は恭しく腰を折って頭を下げた。
これしきのイヤミはうちのやかましい付喪神連中の相手をすることを思えばなんということもない。本当にやかましいんだからさあ。
「あなたは僕に用事があるのではないですか? あなたが外にいる生徒たちに命じて僕を捕まえようとしていたこともわかります、僕。気配がしますので」
外の生徒達は僕を探しているんだろうーー廊下を歩き回る音や気配がずっとしている。
けれど彼らは時折この部屋へも意識が向いている。
この部屋のことが気になるのだ。おそらくは、この部屋にいる人物のことが。
彼らの意識の中に交じる不安や畏れーーそれは、主人に命じられた家来のものだ。
「あなたは西の御殿のぬしさまではないですか? ご挨拶が遅くなりましてすみませんでした」
「……何故挨拶に来なんだ。お前はいの一番に来ると思っていた」
強く睨みつけられて、僕は数秒考えた。すぐに思い当たることがあって彼に尋ねる。
「父があなたのお父上に逆らったからですか?」
「……そうだ。お前の父は俺の父に逆らった。それで家は没落した。その跡取りまで同じ轍を踏む馬鹿とは思わなんだぞ」
まだ正式に直接名前を聞いたわけではないけれどーー彼はおそらく、大御所様の息子で西の御殿の主であるという、徳川義利だろう。
俺の父、というのはもちろん駿府にいる大御所・徳川家康様だ。
「あの関が原の戦が起きた年……お前の父親は周囲のことなど知らぬ存ぜぬとばかりに勝手なことを続けた。橋を掛けて軍備を整え、浪人を大勢雇い入れる……父が幾度理由を問い質しても傲慢な対応……挨拶にも謝罪にも来ん。父を侮り、見縊っていたとしか思えん。上杉攻めは当然の結果だ。そうしてお前もここでは勝手なことばかりしている。俺にも弟にもなんの挨拶もない……」
僕はその真っ直ぐな眼差しを見つめているうちに、彼の意思の強さを感じたよ。僕に向ける気持ちの強さがそれを物語っている。
「そうか……あなたは、ご自分のお父上のことが大好きなんですね!」
「なに?」
真面目で堅そうな表情が少し崩れて安心する。こういう意表を突くことで守備の堅い人間との距離を縮めるのが自分の得意なやり方だ。
「だからお父上と敵対した父やうちのことが今でも許せないのではないですか? お父上を侮辱したと思っているのではないですか? なんだ、とても安心しました」
義利はもう何も言わなかった。ただ心の中に疑問符を沢山浮かべているような表情をしていたけれども。
「某も父のことは大好きですので、気持ちはようくわかります」
「ーーふざけるな!」
畳をドンと叩いて義利が立ち上がった。ああ、そう言えば質問にまだ答えていない。
「ぬしさまへのご挨拶については、つい先日南の御殿のぬしさまにも同じことを言われました。確かに……今思えばご挨拶はしておくべきだったと思います。まずは同じ寮、同じ御殿のみんなと仲良くなろうと思って、他の御殿の方々へのご挨拶が遅れてしまいました」
僕は腰を下ろして彼に頭を下げた。
義利はまた驚いているーー相手の顔を見なくてもこういうことがわかるのはすごく便利だよ。
「某は若輩者ゆえ、ここで皆様にご指導いただけたことは幸いでございました。以後、何かある時は皆様にご相談させていただきますので、どうかご容赦のほど……」
挨拶に来ると思っていたのに、来なかったーー彼が誰であれどんな人間であれ、僕は彼を失望させてしまったのだ。
それについては純粋に申し訳ないという気持ちになったよ。
この様子では、僕はおそらくもうひとりの東の御殿のぬしさまにも目を付けられているだろうから、少なくともここで西の御殿のぬしさまの怒りを少しでも和らげることが先決だろう。
先日の一件のこともあるし、きっと南の御殿のぬしさまはまだ酷くご立腹だろうと思うからさ。