108・西の御殿のぬしさま登場!
鬼灯の客間に長員と義真、それに火車を残して僕は寮の部屋に戻ることにした。
「今ごろ……二人はあの文を読んでいるのかな……」
確か、澳門へ追放されたというその手紙の差出人――ロドリゲス司祭は南蛮人だという話だった。文は日本語で書かれているのだろうか? 開けてみて読める代物かどうかもわからない。フランシスコ以外にはまだ誰もあれを読んでいないようだから。
(だけど、フランシスコに宛てて書かれた手紙なんだから、フランシスコには読めたはずなんだ……でも……)
もしかすると、南蛮人が使う異国の文字で書かれていたりしてーー
(フランシスコはキリシタンなんだから……そういうものも、読める可能性だってあるんじゃないか?)
客間のある表から中奥の御殿に戻る。一本道の鈴の廊下を抜けると、禁錠口に待機している小坊主が無言で頭を下げて戸を押し開けてくれた。
僕が御殿に戻ると廊下へ続く扉の傍に立っていた見知らぬ生徒が一人、僕の姿を見て慌てて走って行った。それはまるで逃げるように。
知らない生徒だった。
きっと、西や東の御殿にいる生徒だろう。もしかすると、まだ会っていない南の御殿の生徒がいるのかもしれない。表に一番近いのは南の御殿だし。
(それにしても……北の御殿って表からは遠いよなあ。おまけによその御殿はなんでこんなに綺羅びやかなんだろ)
西や東の御殿は特にそうだ。将軍様にも気に入られてあちらこちらのお城に襖絵なんかを描いているという狩野派の絵師がここにも沢山絵を描いたという話である。
(将軍家って……やっぱりお金があるんだなあ。日の本を治めているんだから、そりゃあそうかもしれないけど……)
僕は三歳で故郷の米沢から江戸へ来たので米沢のお城のことは既に何も記憶にはないのだけれど、それでも一つだけ言える事がある。
きっと、こんな綺羅びやかさはうちのお城にはない。
すると、西の御殿の寮のド派手な襖絵を眺めていた僕に、数人の生徒の気配が近付いているのがわかったよ。
彼らは自分たちの寮の部屋の中から廊下を伺っているようだったーーつまり廊下にいる僕を。
(なんだろう? 僕を……部屋の中から見てる?)
僕は人の気配に敏いけれども、人の気配というのはほんの些細なことで色々な変化をするので、その変化の先や元を辿ることで色々なことがわかる。
人の感情もわかるし、何に意識を向けているかもわかる。
わかりすぎて鬱陶しいので、普段はなるべく意識しないようにしてそうしたものを知りすぎないようにしているくらいだ。
当然、部屋の戸が開くその瞬間を先に把握することも僕には簡単だった。
だって西の御殿の、おそらくは西の御殿中の寮の生徒がその瞬間を示し合わせて、一斉に部屋から廊下に飛び出そうと意識を集中していたんだもの。
僕はその瞬間に合わせて、すぐ傍の寮の部屋の中に飛び込んだ。彼らは僕を追って部屋から廊下へ一斉に飛び出して、代わりに僕が寮の部屋へ飛び込む。
「あ、あれ? あれっ?」
「どこへ行った、あいつ!」
廊下からは狼狽する生徒たちの声が聞こえてきてなんだかおかしかった。僕は急いで彼らが開けっ放しにしていたままの部屋の戸を締めたよ。
そうして外廊下を伝い、隣の部屋へゆく。
たった一人、部屋に残っている気配の方へ。
「声も掛けず勝手に部屋へ入ってすみませんでした。何分、追われていましたので」
その部屋の中央には一人の生徒が座っていたよ。
一瞬、彼は僕の姿を見て驚いたようだったけれども、すぐに口を一文字に引き結んで僕をじっと見つめ返した。
「某は上杉千徳喜平次といいます。僕になにか御用ですか?」
「……よく逃げ果せたな」
言葉を掛けられて僕は少しだけ安心した。
怖い顔をして僕を睨んでいるけれど、話す意思はあるみたいだからさ。