終章
【カロア様をお呼びするための心得】
1、自己中心的であってはなりません。カロア様は人のために心を尽くす人間にしか力をお貸しくださいません。
2、術者としての高い能力を持たなければなりません。カロア様の実体化には技術、力量ともに高度な力が必要です。
3、美を解する心がなくてはなりません。カロア様は美意識を持たない人間の話は聞いて下さいません。
「……これはなんだ? うぐ」
学生掲示板にでかでかと張られた張り紙である。学院側ではなく、学生が勝手に作成したものらしい。その文面を見て、ロギは口の中の蜂蜜飴をうっかり飲み込んでしまったようだ。
「読んで字のごとく、カロア様をお呼びするための注意書きなんでしょうけど……。1、2はわかるけど、3ってどうなの? ロギ」
「新しい人格が暴走して、本人がろくでもない話でもしたんだろ……。3はほっとけ」
カロア川の精霊が、中庭で演説をぶった数日後である。
演説をききそびれたメリチェルは、その内容をマヨルからきこうと思った。しかしマヨルは精霊に怒り狂っていて、罵詈雑言てんこ盛りで語るので、正しい内容がつかめなかったのだ。
「マヨルって怒ると冷静さがどっかいっちゃうから、ときどき困るわ」
「なんでそんなに精霊に怒ったんだ?」
「わたしとロギを追いかけようとしたら、金縛りにあって体が動かなかったんですって。カロア様のしわざに違いないって怒ってたわ。カロア様がそんなことする理由がわからないけど……。術式でマヨルを止められる生徒がいるとは思えないから、やっぱりカロア様なのかしら?」
「……レオニードかな」
「えっ、レオニード先生がどうして?」
「邪魔させないように……いやいやいや」
ロギは言葉を濁して目をそらした。
ごまかさないでちゃんと言ってほしいとメリチェルは思った。ロギは下宿に帰ってきてからも、落ちつかない様子でずっとそわそわしているのだ。
「ねえロギ、なんでそんなに落ちつかないの? 心ここにあらずってかんじよ」
ついつい、きつい口調になってしまった。言ったあとに後悔したが、ロギは口調などまるで気にしない様子でこう言った。
「だって今日はおまえの編入試験だろ。受からなかったら、ソルテヴィルに帰るんだろ」
意表を突かれた。
「――心配してくれてたの?」
「そりゃするさ。まあなんだ、その、おまえがいなくなったらさみしいし」
「……」
「合格しろよ。絶対だぞ」
「がんばるわ」
「おう」
もっと会話の余韻を楽しんでいたかったのに、「あっロギさんとメリチェルだ!」と、ほかの生徒に見つかってしまった。
カロア様に人の姿を与えた人物として、メリチェルは一日にして学院の有名人になってしまった。精霊がみなそうなのか、カロア様だけがそうなのかわからないのだが、カロア様は姿を与えた人物が死ぬまで、おなじ姿で人間の前へ出てくるのだそうだ。
ロギの読んだ文献によると、姿が変わると人格も変わるらしい。
「カロア」という名と「カロア川の精霊」という属性はそのままに、勇猛果敢な戦士だったり慈悲深い聖女だったり溌剌とした少年だったり、その姿なりの人格を持って現れる。
精霊とは、なんて不思議なのかしらとメリチェルは思った。
「あいつらは俺が相手する。おまえは囲まれる前に、さっさとレオニードのとこ行け。試験がんばれよ! ベルタが祝いの準備はりきってるぞ!」
「残念会にならないようにがんばるわ。ありがとう!」
階段の前でふりかえると、ロギがわらわら寄ってくる生徒たち相手に奮闘している。「メリチェルは試験だからそっとしといてやってくれ」と、懇願する声が聞こえた。
ロギはこうやって、いつもメリチェルの日常を守ってくれる。
くじらちゃんを見つけてくれたり、心配や騒々しさから遠ざけてくれたり。
遠くからロギを見ていたら、じんわりとメリチェルの胸が熱くなった。
(ロギが好き。大好き)
たぶん、ロギにとって自分は妹みたいなもので、守ってあげたくなるだけの存在なのだろうけれど。
それでもいいと、メリチェルは思った。
「メリチェルがんばれよー!」
「受かれよー!」
「水、動かなかったら呪術で動かしちまえ!」
「……それ駄目なんだって」
ロギから試験のことをきいた生徒が、大声でメリチェルに激励の言葉を送ってくれる。
誰からも無視されていたのに、こんな日が来るなんて思わなかった。
いい流れがきている。メリチェルはそう感じた。試験だって、きっと受かる。
メリチェルは声をかけてくれた生徒たちに笑顔で手をふってから、きりりと顔を上げて主幹教諭室めざして階段を上って行った。
「エグリスム・グランジェメル・ヴェナディウス・サザルゾン・ゲインデラマウス・デミスタリアス・ゼア・マギョウラ・ランシェ・フィグジョン・デイタラスタアス・マダルラカアス・マクス・ゾラニウス――」
術式を唱えながら、メリチェルは想像した。
わたしは流しの歌い手で、水槽の水は名も知らぬ酒場のお客さん。名前を知らないから、呼びかけることはできないけれど、どうかわたしの歌をきいてほしい。あなたに届く物語を、心を込めて歌うから――。
主幹教諭室にはレオニード先生だけでなく、学院長やパロー先生など、総勢六人もの先生方がメリチェルの試験を見守っていた。
緊張の中、メリチェルが術式を唱えると、水槽の水はふるふると水面をふるわせ、堰を切ったように立ち上った。頭の高さほどのアーチをつくり、隣の水槽にざぶんと入る。勢いがつきすぎてたいぶこぼれてしまったが、三分の二ほどの水が隣の水槽に移っていた。
メリチェルは収まりつつある水面の揺れを見つめたのち、おそるおそる教諭陣の顔をうかがった。
レオニードが唇の端を持ち上げて「うん」と言ったから、安心する。
「どうですか、学院長」
主幹教諭はまず学院長に意見を求めた。
「感情に偏って精度を欠いているな。説得力のある術とは言えまい」
学院長の言葉に肩を落としたメリチェルだったが、パロー先生が別のことを言う。
「説得型の術式の限界を、感情型が補うという説もありますよ」
「それはわかる。しかし、基礎は説得型に置くのが正しい」
「説得型と感情型は、そもそも活用範囲が別々で……」
メリチェルそっちのけで、先生方の議論がはじまってしまった。メリチェルは助けを求めてレオニードを見た。主幹教諭がごほんとひとつ咳払いすると、ようやく先生方は試験の場だと思い出したようだ。
「正規の術式を唱えて半分以上の水を移せたら合格というのが、この学院の基準ですよ」
三分の二ほど水が入った水槽を指し示し、レオニードは言った。
「うむ。合格だ」
学院長はうなずいた。
「ありがとうございます!」
メリチェルは学院長を見つめて、元気な声でお礼を言った。
うれしかった。
決してほめられる出来ではなかったけれど、なんとか合格まで漕ぎつけた。
「デジャンタン術式学院の一員として、目標を高く持ち今後も精進したまえよ」
「はい!」
パチパチパチと、先生方から拍手がこぼれる。
メリチェルが笑顔で「ありがとうございます」「ありがとうございます」とひとりひとりにお礼を言っている間に、レオニードが席を立った。
レオニードが向かうのは、主幹教諭室の片隅のクローゼット。
待ちに待った制服をもらえるのだ。
ようやく、メリチェルは「赤マント」ではなくなる。学院の六割を占める「茶制服」になれるのだ。蔑まれることは少なくなって、友達だってできるかもしれない。
(ああ、うれしい! うれしいわ!)
先生方に囲まれてなかったら、ぴょんぴょん部屋中跳ねまわりたいくらいだ。
「さあ、君の制服だよ」
メリチェルは勢いよく、レオニードのほうをふりかえった。
(……え?)
レオニードが手にしているのは、茶制服ではなかった。
もちろんマントでもない。
すとんとしたワンピースドレスで、白い襟にリボン。ふくらんだ肩に学院の紋章が刺繍されたワッペンがついている、マヨルやコレットやミラと同じ形の、女生徒用の制服なのだが――。
見たことのない色。
レオニードが手にしている制服は、「水色」だった。
「なんですか、この色……?」
「新設の『呪術科』の制服だよ」
「『呪術科』っ?」
「カロア川の精霊が現れたことで、今、デジャンタンでは昔ながらの『呪術』が見直されはじめている。デジャンタンだけじゃない。カロア様がロギと下流域まで旅したおかげで――なんだかやたら目立つ旅をしたらしくて――今、精霊がちょっとした流行になってる」
「流行、ですか……」
「学院としても、この流行に乗らない手はないというのもあって」
「レオニード君。流行などという軽薄な理由ではないぞ。『呪術科』は有識者や生徒からの要望に答えてだな――」
「あ、はい。申し訳ありません学院長」
レオニードは恐縮し、ごまかすように前髪をかきあげた。
「つまりまあ、君は『呪術科』第一号の生徒ということだ。実験的に新設した科なので、授業内容はこれから詰めていくことになる。もちろん、一般的な術式も学んでもらう」
「……わたしひとりですか?」
「今のところはね。もうひとり正式入学してもらいたい人物がいるんだけども。メリチェル、君からも彼を誘ってみてくれないか? 学費がないなら、学院の用心棒と用務員を兼ねてくれればタダにするからって言って」
「え、え、え。それって……」
「もうひとり、カロア様を呼び出した人物がいるじゃないか。図書室で熱心に『呪術』を独学してた。彼なら、生徒二号にうってつけだろう?」
レオニードはそう言うと、いつもの行儀のいい笑顔とは別の、心から可笑しそうな笑みを浮かべた。
図書室で本を読んでいても落ちつかないので、ロギは食堂へ来てみた。聖堂を思わせる高窓とアーチ天井の食堂は、昼にはまだ早いためか、人が少ない。
数少ない生徒の中に、ロギはこの時間帯にここにいるのはめずらしい人物を見つけた。
マヨルだ。
マヨルは窓から上位クラスの校舎棟を見つめていた。四階では、メリチェルの試験が行われているはずだ。
もう結果は出たころだろうか……。
落ちつかない同志がここにいたと、ロギはマヨルの席へ歩を進めた。
「めずらしいな。白制服は朝から晩までびっちり授業じゃないのか?」
「休講だ。先生が、お嬢様の試験を見てるから」
ロギのほうを見もせずに、マヨルは答えた。
「ふーん」
「……馴れ馴れしく私の前に座るな」
「いいじゃねえかよ。メリチェルの話だと、おまえの祖国じゃ精霊使いはえらいんだろ? 俺も精霊呼び出したぞ。敬え敬え」
「姿なき精霊に姿を与える力と、ただ呼び出す力とじゃ雲泥の差だ。お嬢様は多くの精霊に姿を与えた。素晴らしい能力だ。それに引き替えおまえときたら、生まれたばかりのカロア様におかしなことを吹きこんで、わけのわからない人格にしてしまった。なんだあの恥ずかしい格好は。あれが大河の主精か――」
「俺は知らん! あれはあのド阿呆が勝手にそうなっただけだ」
「何をどうやったらあんなふうになるんだ!」
「旅費が二人分かかって金がないから、盛り場で歌でも歌って稼いでこいって言っただけだ! 華のある顔してるからいけるかなと思って……。そしたらキャーキャー騒がれて、あの精霊が調子に乗ったんだ! あとは自分で勝手に衣装揃えて……」
「やはりおまえのせいじゃないか!」
「俺は知らん! あいつが勝手に!」
「本当にろくなことをしないな、おまえは! おまえがしゃしゃり出てくるようになってから、お嬢様は――」
マヨルはそこで一端、言葉を切った。
「おまえばかりを目で追ってるぞ」
「……」
いつも射すくめるようなマヨルの黒い瞳が、不安げにゆれているのをロギは見た。
「……どうしてくれる」
「貴族になる」
ロギの即答に、マヨルは目を見開いた。
「王立術士団に入って名を上げて、王の目に止まって叙爵を受ける。それからメリチェルを迎えに行く。なにか文句があるか?」
「……」
「おまえはいつか、故国再建のためにエランダスを出るんだろう? あとは俺に任せろ。安心して行けよ」
沈黙が流れた。
マヨルは窓から差し込む光をななめに受けて、彫像のように固まったまま動かなかった。
メリチェルが、マヨルは怒ると冷静さがなくなると言っていたが、表情も動作も一切なくなったときは何を考えているかは、教えてくれなかった。
怒ってはいないのだろうか。
あきれているのだろうか。
そうかもしれない。
(俺だって自分がどうかしてると思ってるさ。だけど俺の未来図の中の嫁さんが、未来のメリチェルになっちまったんだからしょうがないじゃないか)
十四歳の女の子相手に、まったくもってどうかしている。
しかしあのとき、唇を奪わなかった程度の自制心はある。
この先いつまで自制が持つかわからないが、うかつなことをしたらこの女に殺されると考えれば、なんとか大丈夫だろう……。
「貴様……。認めないぞ……」
絞り出すようにマヨルが言った。
やはり怒っているようだ。
「私を越えられないような男だったら、認めないぞ!」
マヨルは蹴るように席を立った。
ちょうど授業が終わったところなのか、にわかに食堂の外が騒がしくなった。マヨルは食堂に入ってくる生徒たちの間を縫って、廊下へ出ようとした。
廊下で何かあったのか、食堂に入ってきた生徒たちが、立ち止まって廊下のほうを見ている。出ようとしていたマヨルまで、一点を見つめて立ちすくんだ。
なんなんだ?とロギが思ったそのとき。
蜂蜜色の髪の令嬢が、食堂に駆け込んできた。
赤マントではない。
着ているのは正規の制服のようだが……色が――。
「水色?」
「水色?」
「えっ、水色?」
生徒たちのざわめきの中、メリチェルのよく通る澄んだ声が、高い天井に高らかに響き渡った。
「マヨル! ロギ! わたし、『呪術科』の生徒になったわ!」
メリチェルはくるくると踊るような足取りだ。マヨルの手をとりほほえんで、次に窓際のロギを見て笑った。
メリチェルがいつもロギを見ているのなら、ロギだっていつもメリチェルを見ている。
だからロギにはわかるようになっていた。
メリチェルは今、義務ではなく心から笑っている。
彼女のこのほほえみを守るためなら、自分はくじらちゃんを探したときのように、持てる技術をなんでも使って、なんだってやってやると思った。
メリチェルが、弾む足取りでこちらに近づいてくる。
ロギは席から立ち上がった。
今はまだ、頭をなでるだけにしておく。
今は、まだ。
だけど今に見てろよ。
ロギの強い思いをまだ知らない令嬢は、ロギの目の前までやってくると、無邪気な顔で彼を見上げた。
〈END〉