契約の部屋
午後五時四十三分。
指定された場所は、都内某所のビル最上階だった。
企業名は誰もが知っている。
だが今日は社名のロゴすら見えない。
受付を通され、カードキーでしか開かない重い扉の前に立つ。
扉の向こうにいるのは、ARES開発元企業の幹部。
内部告発が出てから三日。
政府は精度再検証を発表。
株価は微減。
だが致命傷ではない。
まだ、だ。
扉が開く。
中は横長の会議室。
窓の外には夕暮れの東京。
中央に長いテーブル。
その奥に三人。
スーツの男が一人。
法務担当らしき女性が一人。
そして――五十代半ば、白髪混じりの男。
開発責任者。
「よく来てくれました」
声は落ち着いている。
七瀬は席に着く。
零も同席しているが、今日は黙る役目だ。
「単刀直入に言います」
白髪の男が言う。
「内部ログを入手されたようですね」
否定しない。
「確認はしました」
七瀬が言う。
「誤検知率4.7%。特定属性で8%超」
法務担当がすぐに口を挟む。
「それは暫定値です。最終モデルでは改善される予定でした」
「予定」
七瀬は静かに繰り返す。
白髪の男が手を上げる。
「我々は技術者です」
「差別をしたいわけではない」
「データが偏っているのは事実です」
「だが改善には時間とコストがかかる」
窓の外、太陽が沈みかけている。
部屋の照明が少しだけ強くなる。
「処理速度を優先した」
七瀬が言う。
「国際連携に間に合わせるために」
沈黙。
それが答えだった。
白髪の男はゆっくりと話す。
「あなたは“設計”を語る」
「だが現場は違う」
「予算、納期、政治圧力」
「完璧を求めれば、契約は失われる」
テーブルの上に一冊のファイルが置かれる。
《国際拡張フェーズ2 契約書案》
桁が違う。
数百億規模。
「これが飛べば、我々は撤退です」
「開発は止まる」
「海外企業が入る」
「精度はもっと悪いかもしれない」
零の指がわずかに動く。
七瀬は黙ったまま、契約書を見る。
「脅しですか」
「現実です」
白髪の男の声は冷たくない。
むしろ疲れている。
「我々は最善を尽くしている」
「だがあなたの発信は、株と契約を揺らす」
「揺れれば、改善のための資金も消える」
部屋の空気が重くなる。
七瀬はゆっくり言う。
「では聞きます」
「なぜ公表しなかった」
法務担当が即答する。
「誤解を生むからです」
「数字は独り歩きします」
「技術的課題は内部で解決すべきです」
七瀬は白髪の男を見る。
「あなたはどう思う」
数秒の沈黙。
「……公表すべきだった」
かすかな声。
法務担当が顔をしかめる。
「だが止められた」
「上か」
「投資家です」
夕日が完全に沈む。
部屋は人工的な光だけになる。
白髪の男は続ける。
「あなたは正しい」
「だがあなたの正しさは、我々の首を絞める」
「改善の機会ごと奪うかもしれない」
七瀬の中で、何かが揺れる。
今までの相手は“国家”だった。
だが今日は違う。
目の前にいるのは、疲れた技術者だ。
「告発者は守るのか」
七瀬が問う。
法務担当が即座に答える。
「規約違反です。処分は避けられません」
白髪の男が目を閉じる。
「私は守りたい」
「だが決定権はない」
重い沈黙。
七瀬は言う。
「拡張を止める気はないのか」
「止めれば契約違反です」
「違約金は?」
「天文学的です」
零が初めて口を開く。
「つまり、進むしかないと」
白髪の男はうなずく。
「修正しながら、進む」
「それが現実です」
七瀬は窓の外を見る。
夜景が広がっている。
その一つ一つが、顔認証データになる。
国境を越える。
偏りを抱えたまま。
「あなたは何を望む」
白髪の男が聞く。
七瀬はしばらく答えない。
「公表と同時に、改善ロードマップを出せ」
「期限を切れ」
「第三者監査を入れろ」
法務担当が即座に反発する。
「それは株価に――」
「長期的には信頼になる」
七瀬は遮る。
「隠したまま進めば、もっと大きく爆発する」
部屋が静まる。
白髪の男が七瀬を見る。
「あなたは我々を救おうとしているのか」
「自分を守っているだけだ」
七瀬は淡々と言う。
「歪んだまま世界に出されたくない」
その時。
白髪の男のスマホが震える。
画面を見る。
顔色が変わる。
「……何だと」
法務担当も通知を見る。
凍りつく。
零が七瀬にスマホを見せる。
速報。
《ARES関連内部資料、大量流出》
《海外掲示板に未編集ログ公開》
七瀬の背中に冷たいものが走る。
未編集。
属性も、数値も、すべて。
部屋の空気が一変する。
法務担当が立ち上がる。
「あなたですか」
「違う」
七瀬は即答する。
白髪の男が震える声で言う。
「これは最悪だ」
「国名まで出ている」
「外交問題になる」
七瀬はスマホを握りしめる。
告発者か。
別ルートか。
それとも――
画面が次々更新される。
海外メディアが反応。
株価急落。
白髪の男が呟く。
「終わる……」
七瀬は立ち上がる。
心臓が速い。
これはもう設計の議論ではない。
制御不能だ。
その時、スマホが震える。
あの男からだ。
《緊急》
《官邸に来い》
短い一文。
七瀬は画面を見つめる。
国家。
企業。
海外。
すべてが一気に動き出している。
この流出は偶然か。
それとも――
仕組まれたものか。
七瀬は白髪の男を見る。
「まだ終わってない」
そう言って扉へ向かう。
背後で、株価の通知音が鳴り続けている。
夜の東京が、いつもより冷たく見えた。
(続く)
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