国家という装置
第一幕 地下二階の会議室
エレベーターの扉が閉じる音は、妙に乾いていた。
表示は“B2”。
数字が変わるたび、七瀬は自分の鼓動がゆっくり落ち着いていくのを感じていた。恐怖ではない。覚悟の整理だ。
地下二階。
扉が開くと、長い廊下。無機質な灰色の壁。監視カメラが二つ、死角を消すように天井に張り付いている。
突き当たりのガラス扉の向こうに、あの男が立っていた。
「来てくれて助かる」
相変わらず名前は名乗らない。肩書きも曖昧。だが国家の中枢にいる人間特有の“静かな確信”がある。
「断る選択肢は?」
七瀬が言う。
「なかったはずだ」
男は穏やかに返す。
会議室は広い。長机と椅子が十脚。だが使われるのは向かい合う二席だけ。天井のライトは白く、影をほとんど作らない。
壁一面のモニターに都市の俯瞰映像が映し出される。
夜の街。
信号機の点滅。駅構内。交差点。高速道路。ドローンの視点。顔認証のフレーム。
「国家監視統合システム《ARES》」
男が言う。
「三年前に稼働。テロ対策名目だ」
七瀬は黙って見る。
映像は美しい。整然としている。犯罪の匂いはない。ただの都市。
「検挙率は18%向上。未然防止件数は倍増」
「成功例だな」
七瀬が言う。
「数字上は」
男はリモコンを押す。
画面が切り替わる。
《誤検知率 3.2%》
無機質なフォント。
「低い数字だと思うか?」
「母数次第だ」
「そうだ」
男の声が少し低くなる。
「年間約二千万件の解析。そのうち3.2%が誤検知。単純計算で六十四万件だ」
空気が変わる。
七瀬の視線が止まる。
「誤検知された人間は?」
「職務質問、任意同行、場合によっては一時拘束」
「履歴は?」
「五年保存。削除は原則不可」
沈黙。
ライトの白さがやけに冷たい。
「テロは減った」
男は続ける。
「爆破未遂は二年前を最後にゼロだ」
「なら成功だろう」
七瀬はあえて言う。
男は七瀬を見る。
「制度は成功している。だが個は削られている」
モニターに別の資料。
《誤検知後の自殺 12件》
《解雇 178件》
《訴訟係争中 43件》
数字は小さい。全体から見れば。
だが消せない。
「必要経費か?」
七瀬の声は静かだ。
「国家は常に選択を迫られる」
男は言う。
「完璧な自由はない。完璧な安全もない。我々は中間を選ぶ」
「その中間は誰が決める」
「選挙で選ばれた者だ」
一拍。
「そして、声を上げる者だ」
七瀬はわずかに笑う。
「俺を使うのか」
「利用ではない」
男の目は揺れない。
「暴走を止めたい」
「何が起きる」
「拡張案がある。誤検知許容を5%まで上げる議論だ」
七瀬の呼吸が一瞬止まる。
「なぜ」
「処理速度を優先するためだ。五輪級イベント、国際会議……“絶対に失敗できない日”がある」
静寂が落ちる。
「君は断定しない。煽らない。だが問いを出す」
「医療の時のように」
七瀬は立ち上がる。
「国家は装置だ」
男が言う。
「君も装置だ」
「制御する側か、される側かの違いだけだ」
七瀬は扉へ向かう。
「俺は装置じゃない」
「なら証明しろ」
背後からの声。
扉が閉まる。
地下の空気は、地上より重かった。
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第二幕 事務所の夜
事務所の蛍光灯は少し黄ばんでいる。
零はソファに座り、トウマはノートPCを開いている。
「国家監視か」
零が呟く。
「スケールでかすぎるだろ」
七瀬は椅子に腰を下ろす。
「誤検知3.2%」
トウマの指が止まる。
「高いな」
「年間六十四万件」
零が口笛を吹く。
「それは“少数”って言えないな」
七瀬は天井を見上げる。
「テロは減ったらしい」
「じゃあ悪役にしづらいな」
零が苦笑する。
「そこが厄介だ」
トウマが画面を回す。
「欧州で似たシステムが訴訟になってる。誤検知で入国拒否、仕事失った例もある」
七瀬は静かに言う。
「敵にした瞬間、議論は死ぬ」
「国家=悪、で終わる」
零が頷く。
「視聴者は単純な構図が好きだ」
「でも今回は違う」
七瀬は目を閉じる。
「安全と自由。どっちを削るかの話だ」
沈黙が落ちる。
エアコンの音だけが聞こえる。
「スポンサー、飛ぶかもな」
零が言う。
「もう連絡来てる。保留が二社」
トウマが淡々と告げる。
七瀬は笑う。
「想定内だ」
だが心の奥が軋む。
ここから先は、炎上ではなく“政治”だ。
再生数で殴るフェーズは終わる。
「配信するのか?」
零が聞く。
七瀬は少し考える。
「する」
「断定しない。数字を出す。問いを出す」
零が立ち上がる。
「ギリギリ攻めるな」
「踏み越えない」
七瀬の声は低い。
「越えたら、ただの煽動だ」
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第三幕 配信
夜十一時。
カメラの赤ランプが点灯する。
七瀬は一人で座る。背景はいつも通り。余計な演出はない。
「今日は、少し重い話です」
同時接続が伸びる。
「国家監視統合システム《ARES》」
チャットが一気に流れる。
《陰謀?》
《テロ止めてるならいいだろ》
《怖い》
七瀬は淡々と資料を映す。
「誤検知率3.2%」
「年間約六十四万件」
数字を言い切る。
「拘束、履歴保存、五年」
間を置く。
「あなたがその3.2%だったら?」
チャットの流れが鈍る。
「私は監視を全否定しません」
ざわめき。
「治安は必要です。テロは防がなければならない」
「でも」
カメラを真っ直ぐ見る。
「削除できない誤記録は、冤罪とどう違う?」
静寂。
七瀬は続ける。
「制度は全体を守ります」
「でも、削られる個がいる」
「その痛みを“仕方ない”で済ませるなら」
一拍。
「それは本当に中間ですか?」
コメントが止まり、やがてゆっくり流れ始める。
《考えたことなかった》
《3%って多いな》
《安全も欲しいけど…》
七瀬は深く息を吸う。
「答えは簡単ではありません」
「だから議論が必要です」
配信終了。
赤ランプが消える。
部屋は静かだ。
スマホが震える。
《政府、運用見直し検討会設置へ》
速報。
零が息を吐く。
「動いたな」
七瀬は画面を見つめたまま言う。
「まだ始まりだ」
その瞬間、別の通知。
国家の男から。
《海外連携案がある》
《データは国境を越える》
七瀬は目を閉じる。
国家という装置は、まだ拡張する。
次は国内ではない。
世界だ。
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【第八十話 終】
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