その一文
深夜一時。
七瀬の部屋。
テーブルの上に置かれた一枚の紙。
コピーだ。
原本は高坂が持っている。
社長の手書きメモ。
走り書き。
会議用紙の端。
そこに、たった数行。
〈3.2%は飲み込む〉
〈短期損失より長期ブランド? いや逆だ〉
〈今は耐える。世間は忘れる〉
七瀬は黙っている。
零が低く言う。
「……本音だな」
国家の男が慎重に言う。
「証拠能力は慎重に確認します」
トウマが拡大画像を映す。
「筆跡は一致。社内会議ログの日時とも合ってます」
七瀬はメモを見つめる。
“世間は忘れる”。
その一文が、頭に残る。
翌朝。
高坂が合流する。
顔色はさらに悪い。
「保管庫の整理命令が出てました」
「消される前だった?」
「はい」
高坂は拳を握る。
「これが最後だと思います」
国家の男が言う。
「あなたの安全は確保します」
「覚悟はしてます」
その目は震えている。
だが逃げない。
法廷。
追加証拠申請。
原告側が即座に異議。
「真偽不明のメモです」
国家の男は淡々と答える。
「筆跡鑑定申請済み。会議記録と整合」
裁判官がメモを見る。
沈黙。
長い沈黙。
「採用します」
空気が揺れる。
社長の顔が、初めて明確に変わる。
証言台。
国家の男がメモを掲げる。
「これはあなたの筆跡ですか」
社長は見つめる。
数秒。
「……はい」
ざわめき。
「“世間は忘れる”。どういう意味ですか」
沈黙。
「一般論です」
「八万件の不具合リスクを指していますか」
「……特定はできません」
「会議日時は改訂版承認当日です」
追い込む。
「この“飲み込む”とは?」
社長の喉が動く。
「リスク許容の意味です」
「消費者に告知せず?」
「結果的には」
国家の男が一歩踏み込む。
「あなたは、世論が沈静化する前提で発売を優先した」
沈黙。
裁判官の視線。
傍聴席の息遣い。
社長は目を伏せる。
「……そう読めるかもしれません」
その曖昧さが、逆に重い。
原告側代理人が立つ。
「メモは断片です。文脈が不明」
国家の男は即答する。
「では文脈を説明してください」
社長に視線が集中する。
「……短期的混乱を想定した」
「混乱とは」
「炎上です」
はっきりと言った。
八万人のリスクを“炎上”と呼んだ。
傍聴席から小さな怒りの声が漏れる。
七瀬は証言台を見つめる。
胸が重い。
勝ちたいわけではない。
だが、この言葉は消えない。
“世間は忘れる”。
休廷。
廊下は騒然。
記者が走る。
速報が飛ぶ。
《社長“世間は忘れる”発言》
SNSが爆発する。
怒りの波。
だが同時に、冷静な声も出る。
《企業の現実だ》
《理想論では経営できない》
世論は、完全には一方向にならない。
企業控室。
重い空気。
「厳しいですね」
弁護士が言う。
社長は無言。
「公益性の争点で巻き返すしかありません」
社長が顔を上げる。
「七瀬の過去発言を洗え」
「何を探します」
「矛盾だ」
まだ、終わっていない。
夜。
七瀬の部屋。
今日は配信をする。
だが、煽らない。
ライブ開始。
同時接続、過去最大。
七瀬は静かに話す。
「今日、メモが出ました」
一拍。
「僕は勝ったとは思っていません」
コメントが止まる。
「企業の判断が明らかになっただけ」
目が揺れない。
「忘れないでください」
一瞬、間を置く。
「忘れるのは、僕らです」
静かな言葉。
怒りではない。
問いだ。
「世間は忘れる、と書かれていました」
一拍。
「忘れますか?」
コメントが流れ始める。
《忘れない》
《見続ける》
《判断する》
七瀬は続ける。
「企業も、僕も、監視してください」
その言葉は、自分にも向いている。
「もし僕が間違えたら、止めてください」
零が横で小さく息を吐く。
「全部背負うな」
七瀬は小さく笑う。
「背負うよ」
配信終了。
静かな部屋。
スマホに通知。
裁判所から。
判決期日決定。
二週間後。
国家の男が言う。
「最終局面です」
七瀬は窓の外を見る。
夜景は変わらない。
だが、この数ヶ月で何もかもが変わった。
「忘れられるかどうか」
小さく呟く。
零が答える。
「それは判決の後だ」
第七十三話。
最終弁論。
公益か、名誉毀損か。
そして判決前夜。
【第七十二話 終】
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