第8話 雨のち、晴れ
「営業所の現場リーダー、ですか?」
一日の配達業務を終えて営業所に戻った後。
所長に呼ばれて切り出されたのは、営業所のサポート業務への配置転換だった。
「ああ。瀬尾は仕事が丁寧だし、勤務態度もいいしな。若い連中の面倒を見る側に回ってもいいんじゃないか」
所長は軽く言った。
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは嬉しいです。でも……」
言葉を少し濁すと、所長は意外そうな顔をした。
そのまま、少し言葉を選んで、続けた。
「配送の仕事は好きですし、やりがいも感じています。どちらかというと、デスクワークのほうがちょっと苦手で……」
「そうか」
所長は組んだ指に少し視線を落とした。
「でも、年を取るとだんだんきつくなるぞ」
「それは……」
言葉に詰まっていると、所長は表情を緩めて立ち上がった。
「まあ、ゆっくり考えればいいから」
「ありがとうございます」
私服に着替えて、営業所を出ようとすると、後輩たちとすれ違った。
「瀬尾さん、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
配送に向かう彼らを見送り、職場を出た。
(たしかに、若い奴増えたな)
大学を出て会社員となったが、上司、評価、数字、無意味な会議、成果物の見えなさに消耗して、自分が何のために働いてるのか分からなくなった。
平日は疲れ切って、休日も寝ている日々だった。
大学時代から付き合っていた彼女とも、その頃に別れた。
LINEの返信が遅くなる。会っても「ごめん、ちょっと疲れてて」が増える。
――陽介、もう私といる余裕ないでしょ。
否定できなかった。
好きじゃなくなったわけじゃない。でも、ちゃんと大事にする体力が残っていない。そこで引き止める言葉も出なかった。
――体力に自信はありますか。
仕事を辞め、しばらく休養したあと。
つなぎのつもりで受けた配送業の面接で、そう聞かれた。
――身体を使う仕事のほうが、向いていると思います。
そう答えたものの、たしかに配送の仕事は楽ではなかった。
雨の日の配達。
重い荷物。
エレベーターのない古いビル。
時間に追われ、体力は消耗する。
ただ、人の生活にちゃんと届く仕事をしているという実感があった。
空を見上げた。
今にも降り出しそうに垂れ込めた空だった。
その時、淹れたてのコーヒーの香りが、ふと脳裏によぎった。
雨の日に届けた、コーヒー豆の箱。
――濡れてないんですね
雨の日の配達は、荷物も伝票も濡らさないように気を遣う。
荷物を取り出したとき、店主が少し驚いたように言った。
(営業所のサポート業務、か)
なんだか無性に、あの店のコーヒーが飲みたくなった。
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翌日は休日だった。
せっかくの休みだというのに、朝から雨が降り続いていた。
(陽介なのに、雨男なんだよな)
遅く目を覚まし、窓の外を見る。
寝直そうとしたとき、ふと、またコーヒーの香りがかすめた気がした。
そのカフェは、配送の担当エリア内にあった。
商店街の古い店舗を改装したカフェ。同年代か、少し年上くらいの女性が一人で切り盛りしていた。
コーヒー豆やカップを届けるとき、いつも商店街の店の誰かしらがカウンターにいた。
ガラス越しに店内を覗くと、その日は珍しく誰もいなかった。
少し迷った後、思い切ってドアを押すと、カランコロンと鈴が鳴った。
「瀬尾さん」
カウンターにいた店主が、意外そうに呼びかけてきた。
(名前、覚えられてる)
「こんにちは、今日はお休みですか」
「ええ、まあ」
気まずさを覚えながら、カウンターに腰を下ろす。
コーヒーの好みを聞かれても、うまく答えられなかった。普段は、インスタントどころか缶コーヒーばかりだったからだ。
店主は気にしたふうもなく、豆を挽き、丁寧な手つきでフィルターに湯を注いだ。
ドリップの湯気が立ちのぼる。
雨の音だけが響く、静かな空間。
沈黙が気まずくない、というのが自分でも意外だった。
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それから、配送でカフェに立ち寄ると、店主と言葉を交わすことが増えた。
休みの日にも、何回か足を運んだ。おすすめを聞いて、何種類か違うコーヒーを試した。
コーヒーにも味の違いがあるのだということを、初めて知った。
そんなある日。コーヒー豆を届けるため、カフェの店先に立つと。
中から常連さんたちのにぎやかな声が聞こえてきた。
ドアを押して、中に入ろうとしたとき。
「瀬尾さんとは、ぜんぜんそういう仲じゃないんですから」
思わず、ドアにかけた手が止まった。
一瞬逡巡したが、ドアの鈴が鳴り、店内の視線が集まるのを感じた。
「いらっしゃいませ」と言いかけた店主の顔が、こわばっていた。
「お荷物です」
「お疲れさまです」
段ボールをいつもの位置に置いて、伝票にサインをもらい、足早に店を出た。
台車を押しながら、次の配達先へ向かう。
台車の車輪が路面を鳴らす音だけが、やけに大きく聞こえた。
――瀬尾さんとは、ぜんぜんそういう仲じゃないんですから。
分かっている。当たり前のことだ。
担当のお客さんと、変な感情を持ち込むべきじゃない。向こうにとっては、自分はただの配達員でしかない。
傘の貸し借りも、店先での会話も、仕事の流れでの一環だ。
休みの日に何度か顔を出したくらいで、何か特別な関係があるかのように思い込むほうがどうかしている。
分かっているのに、あの一言が耳から離れなかった。
(柄にもないな)
自分に呆れて、小さく笑った。
もともと、人との距離を詰めるのが得意な方じゃない。会社員時代は、それでも人間関係から逃げられなかった。
配送の仕事を選んだのは、それもあったのかもしれない。荷物を届けたら、それで終わり。深追いしない関係。そのシンプルさが心地よかったはずだ。
数日後、営業所でレインジャケットの雨粒を拭いていると、所長に声をかけられた。
「瀬尾、この前の話、考えてくれたか」
「はい」
少し間を置いて、答えた。
「お受けします。サポート業務、やらせてください」
所長は、意外そうに眉を上げた。
「そうか。急に決めたな」
「色々、考えました」
それ以上は説明しなかった。所長も、深くは聞いてこなかった。
「よし。じゃあ来週から、担当エリア引き継いでもらうぞ。若いのに任せることになるが」
「分かりました」
担当を離れる、ということは。
もう、あの商店街を回ることはない。
そう考えると、胸の奥が少し痛んだ。
でも、それでいい。
これ以上、余計な感情を抱えたまま担当を続けるほうが、彼女にとっても、失礼な気がした。
(いろいろ考えすぎだ)
自分にそう言い聞かせて、雨上がりの空を見上げた。
理由がなくなったあとで、それでも行きたいと思うなら。
そのときは、ちゃんと客としてドアを開けよう。
夏が、来る。
雲の切れ間から、少しだけ光が差していた。




