第7話 小雨
その日は、朝から小雨が降っていた。
強くも弱くもない、傘を差すかどうか迷うくらいの雨。商店街を行き交う人は、いつもより少しゆっくりとした足取りに見えた。
店を開けて、いつも通りの準備を終えたころ。
カランコロン、とドアの鈴が鳴った。
顔を上げて、息が止まった。
「……瀬尾さん」
戸口に立っていたのは、瀬尾さんだった。制服ではない、見覚えのあるポロシャツ姿。
折りたたみ傘の先から、雨粒がぽたりと落ちた。
「お久しぶりです」
少し気まずそうに、それでもまっすぐにこちらを見て、瀬尾さんは言った。
「あ……はい、お久しぶりです。どうぞ」
声が、自分でも分かるくらい上ずっていた。
カウンター席に座った瀬尾さんは、以前と変わらないように見えて、どこか少し、肩の力が抜けているようにも見えた。
「コーヒー、いただけますか。おすすめで」
「はい、少々お待ちください」
豆を挽きながら、何から聞けばいいのか分からなかった。聞きたいことは山ほどあるのに、どれも切り出す勇気が出ない。
沈黙の中、先に口を開いたのは瀬尾さんの方だった。
「最近、営業所でサポートの仕事をしてて。ちょっと前から、リーダーにならないかって打診されていたんです」
「そうだったんですね……」
あの時の会話のせいで避けられていたわけではなかったのか。
そう思うと、少しほっとしている自分がいた。
「もう、配達には回られないんですか」
「そうですね」
コーヒーカップを、カウンターの上に滑らせる。
瀬尾さんは、カップに視線を向けながら、ぽつりと話し出した。
「俺、大学を出て、最初は普通に会社員をしてたんですけど」
彼は、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「デスクワークとか、社内の空気とか、そういうのがあまり合わなくて。それで前の会社を辞めて、配送の仕事につきました。ずっと体育会系の部活をやっていたので、身体を動かす仕事のほうが向いてるかなと思って」
私は洗い上がったカップを拭きながら、黙って聞いていた。
「正直、最初はつなぎのつもりでした」
瀬尾さんは、カップの中のコーヒーに視線を落とした。
「でも、街を回っていると、人の生活に触れるというか。必要とされてる仕事なんだなって思うようになって」
それから、少しだけ笑った。
「配送の仕事は好きです。デスクワークは、今でも得意じゃないですけど……。でも、若い奴も増えてきたので。今度はサポートする側に回るのも、悪くないかなと思って。受けることにしました」
「……そうなんですね」
よかったですね、と言うべきだと思った。
昇進なのだから。
瀬尾さんが自分で選んだことなのだから。
でも、先に浮かんだのは別のことだった。
もう、この商店街を回らない。
もう、雨の日に荷物を抱えて、この店のドアを開けることはない。
それを飲み込んでから、私はようやく言った。
「ご昇進、おめでとうございます」
瀬尾さんは、少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
ドリップの湯気が、二人の間でゆっくりと立ちのぼる。
「この商店街の人たちも、瀬尾さんの仕事ぶりはちゃんと見てましたよ。真面目で、丁寧で、いい人だって」
思わず、声に力がこもってしまった。
すると、瀬尾さんは顔を上げて、少しだけいたずらっぽく笑った。
「このあいだ、常連さんたちと俺の話してましたよね」
「それは……」
(やっぱり、聞かれていたんだ)
恥ずかしさで耳まで赤くなるのを感じる。
瀬尾さんはそれには触れずに、また視線をカップに戻した。
「俺、ちょっと考えすぎてました」
瀬尾さんは、カップを両手で包みながら、ぽつりと言った。
「柄にもなく、いろいろ」
「柄にもなく?」
聞き返すと、瀬尾さんは照れ笑いを浮かべた。
「仕事は仕事、って線、ちゃんと引いてたつもりだったんです。担当のお客さんに変な感情持ち込むのはよくないって。でも、なんか、ずっと引っかかってて」
「え……」
どくん、と心臓が跳ねた。
コーヒーを一口飲んで、瀬尾さんは小さく息をついた。
「美味しいです、やっぱり」
「よかったです」
心臓の音に気づかれないことを願いながら、笑顔を作って言った。
「あの、それで」
瀬尾さんが、カウンターの上で軽く指を組んだ。
視線を上げる。その目には少し緊張が混じっていた。
「これからも、客として来てもいいですか。配達の担当としてじゃなくて」
窓の外では、小雨がまだ静かに降り続いていた。
強くも弱くもない、けれど確かに降り続いている雨。
「はい」
短く答えると、瀬尾さんは、初めて見るくらい柔らかく笑った。
「じゃあ、また来ます」




