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崩壊の音~愛と信頼が砕け散る夜~

午前。職場に入ると、オフィスの空気がいつもより重い。

 監査部の人間、総務、そして隼人の席の周りに集まる視線。まるで彼の背中に見えない烙印が押されているかのようだ。

 隼人は色を失った顔で、資料の束を握りしめている。だが彼はまだ「疑い」の段階にいるだけで、事実関係は不確かだ。悠真はその不確かさを計算に変える。


 昼休み。会社のロビーに設けられた簡易テーブルに、匿名で届けられた封筒が置かれていた。中にはコピーされた領収書、出張先のホテル名、そして、白ワインのレシート。すべてが「つながる」ように配置されている。

 人は証拠の有無ではなく、つながりを見る。つながりが見えれば、想像は勝手に補完される。


 午後。監査部から高城に対する事情聴取が始まる。フロアの片隅で、悠真は静かに煙草のように淡々とその様子を眺める。彼の目は冷たく、疲れていない。計画は予定通りに進行していた。


 だが、表舞台での動きだけが復讐ではない。悠真は次の段取りに移っていた。まずは「経済的切断」——隼人のカード、クレジット、茜が関わる引き落とし口座、そして二人が共有している可能性のある資産を洗い出す。法的な枠組みを外れない範囲で、彼らの生活基盤を揺さぶるのだ。


 夕方、悠真は弁護士事務所に足を運んだ。正規の相談として、あるいは偶然の問い合わせのように振る舞いながら、婚姻関係における財産分与、仮差押え、配偶者の不貞による損害賠償の可能性などを聞き出す。弁護士の顔色を見ながら、彼は冷静に次の手を決めていく。ここでも彼は感情を封じ、手続きを計算していた。


 夜。家に戻ると、茜の表情は以前のように柔らかくなかった。手元のスマホを何度も確認し、その度に眉が寄る。娘の珠希は無邪気に宿題をしている。子どもの前では、夫婦は演じ続けるべきだ。悠真はその演技の台本を、一枚一枚剥がしていく。


 「今日、学校で何かあった?」

 珠希は元気よく答える。運動会の練習で転んだ話、友だちとケーキを食べた話。日常がそこにある。だがその日常に忍び寄る影が、確実に振幅を大きくしている。


 八時。夕食の支度中、茜はふと声を上げた。

 「ねえ……会社で、なんか変な話が出てるみたい」

 悠真は無表情のまま箸を置き、静かに聞く。

 「噂って、怖いね」と茜は続ける。涙が浮かんでいるように見えたが、それが本物か演技かは判別できない。彼女の手は震え、口元はかすかに震えていた。


 「噂が出る前に言うべきことがあるんじゃない?」

 悠真は言葉を選ばずに、しかし確信を持って問いかける。茜はしばらく黙り込み、やがて俯いた。沈黙が続く。数秒に満たないが、重い時間だ。


 「……私、隼人さんと……」

 声は小さかった。告白の瞬間に、空気が凍る。珠希が顔を上げる。子どもの純粋な瞳が、大人の複雑な世界を受け止めるには早すぎた。


 茜は謝罪した。言葉はもつれ、理由はどれも説得力に欠ける。最初は「支えが欲しかった」と言い、続けて「あなたが仕事ばかりで」と責める理由を並べる。だが悠真にはもう、言い訳は届かない。彼にとって重要なのは感情の移ろいではなく、事実とその影響の連鎖だ。


 その夜、悠真は娘を抱きしめた。珠希は眠りに落ちるときに「パパ、明日のかけっこ、がんばるね」と無邪気に囁いた。父としての本能が、短く揺れる。しかし次の瞬間には、その揺れを折り畳み、冷静が戻る。冷たさは無慈悲ではなく、鋭利な合理性だ。


 悠真は茜に告げる。

 「君のことは、もう『妻』としてではなく、プロジェクトの対象として扱う」

 茜は絶望の色を隠せない。彼女が泣き崩れると、珠希が目を覚ましてしまう。慌てて灯りを消し、子どもの夢を守るために大人たちは演じる。


 翌日。悠真は会社の取締役会に匿名で送られた一通のメールを、ある役員と接触する形で「偶然見つけた」として手渡す。メールには、隼人の出張費の不審点、虚偽の領収書、そしてその金がどこに消えたかの”仮説”が添えられていた。役員の表情が変わる。組織は不正を見過ごせない。調査委員会の設置が話題になり始める。


 会社が動けば、噂は現実に変わる。隼人は社内で孤立し、茜の携帯には匿名の非難のメッセージが届く。友人たちの態度も微妙に変わる。ママ友のランチに誘われなくなり、顔を合わせたら避けられる。人の世界は、案外簡単に「正義」と「非難」で色分けされるのだ。


 それでも茜は抵抗した。彼女は悠真に泣きつき、取り繕い、食い下がる。二人の間で言葉が飛び交うたびに、珠希は不安げに耳を澄ませる。家庭という脆弱な殻が、小さな衝撃でひび割れていくのが見える。


 悠真は計画をさらに進める。金融の専門家と連絡を取り、法的に可能な範囲で共同口座の凍結や、隼人のクレジットラインの監視を行う。偶発的な取り締まりのように見せながら、相手の資金繰りを細くしていく。彼は決して暴力や違法な手段に走らない。彼が選ぶのは、制度の隙を正確に突くやり方だ。


 夜、茜は鏡の前で自分の顔を見つめていた。そこに映るのは、以前の自分ではない。彼女は何度も言い訳を繰り返したが、言葉は徐々に薄れていく。やがてその場にへたり込み、静かに嗚咽する。壊れる音は、必ずしも大きな爆発を伴わない。小さな破片の落ちる音が、いつかは全部を覆っていく。


 悠真はベッドで天井を見上げる。計画は順調だ。だが彼の胸には、微かな違和感が残る。復讐の過程で、何を失うのか——冷静に進めるほどに、その先にある空白が見えてくるのだ。

 彼はその空白を今は見ないようにする。視界を一点に定め、次の一手を思考の中で組み立てる。

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