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嘘の始まり~封じられたスマホの中の真実~

午前四時二十三分。

 佐伯悠真は、天井の薄闇を見つめていた。枕元の空気清浄機が低く唸り、隣では妻の茜が静かな寝息を立てている。いつもなら、彼はもう少し眠れたはずだった。今夜だけは違う。胸の奥で、かすかな軋みが続いている。理由はまだ、形になっていない。


 この二ヶ月、茜は夜更けのシャワーが増えた。洗濯機は深夜に一度だけ回る。香水を変えたことは気づいていたが、彼女の仕事が忙しいのだと、自分に言い聞かせていた。

 疑うより先に、信じる方が楽だ。十年連れ添った妻なのだから。


 午前六時。キッチンでコーヒーを淹れながら、悠真は見慣れた黒い布ポーチを手に取る。昨日、娘の珠希がソファの隙間から見つけてきたという「ママのポーチ」。茜は「あ、後で取りに行く」と言って机に置いたまま寝た。

 重さが、いつもと違った。中で固い角が当たる感触。化粧品だけではない。


 布越しに、微かな振動。

 ――ぶ、ぶ。

 ポーチの口を開けると、そこには見覚えのないスマホが一台。ケースは薄い紺色、どこでも売っている安いタイプ。画面には「通知オフ」の月マーク。上部に、時刻と小さな鍵アイコン。

 ロック解除の数字列は表示されていない。だが、ホームボタンを押すとすぐにメッセージアプリが開いた。指紋認証――それは、茜のものでしかありえない。


 彼は一度、息を止める。

 「やめろ」

 心の中の声は、控えめに制止した。

 「仕事の連絡だ。プロジェクトが詰まってる。そうに決まってる」

 それでも親指は、勝手に画面を上下に滑らせた。未読は六件。発信者は、一人。

 高城隼人。


 胸の奥の軋みが、音を立てて形を得た。

 隼人は悠真の部下だ。入社四年目、よく気が回る青年。家庭的で、下戸で、休日はランニング。妻にも紹介したことがある。茜は「人懐っこくて可愛い後輩くんだね」と笑っていた。

 画面には、昨夜のやり取りが並んでいた。


隼人:「たくちゃん♡ 今日も会えて嬉しかった」

茜:「私も。彼はまだ帰らないって。鍵、ベンチの下に戻した?」

隼人:「うん。写真送る」

〈画像:公園の木製ベンチの下、テープで留められた合鍵〉

茜:「上手。じゃあ、土曜は例の部屋で」

隼人:「了解。たくちゃんの好きな白ワイン、買っていく」

茜:「やめて(笑) 顔が赤くなるでしょ」


 たくちゃん。

 娘の珠希は「たまき」。家では「たま」。茜が「たくちゃん」と呼ばれることは、一度もない。

 読み進める指先が、汗ばむ。三日前、五日前、二週間前……同じような会話が延々と続き、やがて半年、さらに一年分の記録へと遡っていく。

 日付の隙間は、悠真の出張や、深夜の会議と一致していた。


 キッチンの時計が、コトリと針を進める音を立てた。

 湯気の消えたマグカップの表面に、自分の顔が揺れていた。見慣れた男のはずなのに、どこか、輪郭が崩れている。


 足音。寝室から茜が現れた。髪をラフに結び、カーディガンを羽織っている。

 「おはよう。早いね」

 悠真は、ポーチを机の上に戻した。

 「おはよう。……ポーチ、忘れてたよ」

 「ありがとう」

 彼女の指がポーチに触れた瞬間、わずかな緊張が走った。そのささやかな震えを、見逃すほど彼は鈍くない。

 「今日、早く出る?」

 「うん、客先直行。あなたは?」

 「俺も。……夕方には戻る」


 視線が重なる。茜は、いつも通りの笑顔をつくった。

 完璧に。

 だが悠真の中で、何かが「カチリ」と位置を変えた。


 娘を学校へ送り出したあと、彼は出社せず車を市役所方面へ走らせた。目的地は一つ。公園。

 昨夜のメッセージに添付されていた写真――木製ベンチ、支柱、剥がれかけの白い塗装。画像の角度と、朝日の差し方を頼りに、同じ場所を探す。五分で見つかった。

 屈んで覗き込むと、ベンチ裏側に透明テープの残骸。そして――小さな合鍵。


 拾い上げた鍵は、ごく普通の形。裏に小さく「305」の刻印。

 「部屋番号、か」

 彼はスマホを取り出し、隼人の人事データベースを開いた。独身寮ではない。市内の賃貸マンション、名義は隼人。住所を地図アプリに投入する。そこから徒歩十五分。

 鍵が冷たい。朝の風が、彼の背中を押した。


 マンションは築三年、ガラス張りのエントランス。エレベーターの鏡に自分の顔が映る。無表情。

 三階の廊下に足を踏み入れ、305の前で立ち止まる。二度、息を整え、鍵穴に差す。

 カチャ。

 驚くほど滑らかに、扉は開いた。


 靴箱の上に、白い紙袋。中には女性物のヘアゴム、メイクポーチ、そして――同じ香りの小瓶。最近茜が変えた香水と、同じブランド。同じ銘柄。

 リビングのテーブルには二枚のコースター。片方は赤いリップの跡。

 冷蔵庫を開けると、白ワインが一本。ラベルには昨夜の日付のレシートがマグネットで留められている。

 全てが、几帳面に整っていた。まるで「ここに二人の生活があります」と証明するために揃えられた、展示のように。


 彼は写真を撮った。靴箱、テーブル、冷蔵庫、寝室。

 ベッドの隅には、茜の名が刺繍されたハンカチ。

 そこで初めて、喉が灼けるように痛んだ。

 ――泣きたければ泣け。

 別の声が、静かに囁いた。

 だが、涙は出なかった。代わりに、頭の中に綺麗な線が一本、引かれていくのを感じた。何をすべきか、その順番が、妙に明快だった。


 (まず、証拠の確保。デジタル、物的、第三者の記録。次に、資産の棚卸し。共有財産の切り分けと、隠し口座の有無。隼人のコンプライアンス違反――取引先との接待費虚偽計上、内部監査のツボ。茜の名義変更履歴、保険、学資の名義……)


 ――これは仕事だ。

 感情を切り離し、工程表に落とし込む。彼が十数年かけて磨いた「プロジェクト管理」の術式は、プライベートにも容赦なく適用された。


 部屋を出る直前、彼は壁のポストを開けた。DMの束の間に、見覚えのある封筒が挟まっていた。不動産会社からの契約更新案内。

 契約者名は高城隼人。緊急連絡先――佐伯茜。


 エレベーターの鏡に映る自分は、少しだけ口角が上がっていた。

 「なるほど」

 言葉にならない何かが、胸の奥で静かに固まっていく。


 会社には「体調不良」とだけ連絡を入れ、彼は自宅近くの小さな喫茶店に入った。昼の客がまだ来ない時間帯。BGMのジャズが、やけに遠い。

 ノートPCを開き、タイムラインを作る。

 ――最初のメッセージは二年前の一月。プロジェクトXが始まった頃。茜が社内イベントに来た夜だ。

 ――隼人の残業時間のピークは、茜のパートタイム変更と一致。

 ――俺の福岡出張の週、二人は「例の部屋」に二回。

 ――合鍵のコピーは三ヶ月前。


 カーソルを止め、彼は指先でカップの縁をなぞった。

 この十年で、茜が嘘をついた回数は、きっと数えきれない。だが、今日からは俺が数える側だ。

 「君たちの作り物の幸せに、工程表を与えてやる」

 呟くと、胸の軋みは嘘のように消えていた。


 夕方、家に戻ると茜はキッチンでシチューを煮込んでいた。

 「おかえり。どうしたの、顔色悪いよ?」

 「少し疲れただけ」

 「今日は早く寝なよ」

 「そうする」


 テーブルには、娘の宿題プリント。明日の運動会の案内。温かな匂い。

 この景色に、爆弾を仕込むのは簡単だ――と、彼は知った。焦る必要はない。タイミングは、こちらが選ぶ。


 夜更け。茜が入浴しているあいだ、悠真は寝室のクローゼットを開け、彼女のスーツケースを床に置く。

 底板を外すと、薄い封筒が三通。ホテルの領収書、現金、そして新しい通帳。名義は旧姓。

 浴室の水音が止まる。彼は封筒を元の位置に戻し、底板を閉めた。

 ベッドに潜り込むと、茜が隣に横たわる。

 「明日、早いんだっけ?」

 「うん。……あなたは?」

 「同じくらいだよ」


 暗闇に、二人分の呼吸だけが並ぶ。

 やがて茜の寝息が一定になった頃、悠真は天井を見た。

 もう、俺の心は動かない。

 その言葉は、静かな決意となって体の中心に落ち、そこからじわじわと広がっていく。

 復讐という名のプロジェクトは、今、開始された。

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