~冬~
雪中花が群れ咲いている場所を見つけて、ぼくは上機嫌だった。小さな白い花びらから氷を払い、そっと何本か手折って籠の中に置く。
姫さまは、水仙はお好きだろうか。
まだ日が高いうちにぼくは屋敷への帰路に付いた。すっかり雪も積もってきたため、早めに帰らなければ遭難しかねないのである。
その晩、常のように花を献上する。姫さまは終始言葉が少なかった。退室の許可を請うと、いつかのように引き留められた。
「秋に……そなたに狼藉を働いたことが、ずっと心に引っかかっておったのじゃ」
彼女はおずおずと話を切り出した。またいつかのように、人払いがされている。
あの晩以来、姫さまがぼくの血肉を口にすることは二度となかった。肩に空いていた四つの穴――上顎と下顎の二組の牙が穿ったところだ――はとっくにふさがっている。
手当てをしてくれた衛兵は同情のまなざしを見せたが、これは証のようなものだとぼくは思っている。姫さまが己のうちの最も深い闇を共有してくださった証明であり、あの夢のようなできごとが現にあったという証拠だ。
「詫びとしてひとつ、そなたの欲しいものをなんでもやろう」
立場を考えればお詫びなんて求めるべきではないのに、欲しいものをくれるという誘惑に、ぼくは負けてしまった。抑えきれない興奮が、返事の節々ににじみ出るのも仕方がない。
「何でも、でございますか」
「なっ、なんでもじゃ」
一方で御簾の向こうの姫君はひるんだようだった。どんな風に身を竦めたか、どんな表情をしているのか、ぼくは想像した。
たっぷりと思わせぶりな間を置いてから、口を開く。
「では姫さまの御名を教えてください」
姫さまは本名を誰にも教えないし、知っているはずの者も胸に秘めたまま語らない。調べるべきではないとも思う。ぼくはその音を最初に姫さまご自身の口から聴きたいと決めていた。
「そんなことでよいのか」
「そんなことが、良いのです」
おかしなやつじゃの、と姫さまは長いため息をついた。
「あけばな。朱色に華やかと書いて朱華、じゃ」
――あけばなさま。
復唱しそうになって、こらえる。心の中で何度も呼んだ。
「教えてくださりありがとうございます。素晴らしい名です。少女の純粋さと人知を超えた美しさを併せ持つ姫さまに、とてもよくお似合いで……あ」
やってしまった。率直な感想に間違いないが、声に出すつもりはなかったのだ。
「そなた、さすがに口を慎め! だがありがとう! そんなことを言われたのは初めてじゃ!」
「すみません」
「もうよい! さがれ!」
「失礼します」
姫さまはバシバシと畳を叩いておられる。果たして怒っているのか喜んでいるのか、きっと両方なのだろう。
深夜、その名を指先で冷たい床になぞってみたりした。「華やか」の字は知らなかったので、知っている者に当たるまで屋敷中の奉公人をかたっぱしから捕まえるはめになった。
画数が多くてなかなか憶えられそうにない。
それでも練習をしている間は姫さまを身近に感じられて、幸せだった。
* * *
「姫さま、本日の花をお持ちしました」
「近う寄れ」
翌日になるとぼくは朱色の椿を交えた鮮やかな花束を持って参上した。朝に一度、そして夜に一度。
夜は、いつにも増して退屈そうな姫さまが話しかけてきた。白い手が御簾の下からはみ出ている。他の者の気配は既に無い。
「何か面白い話をせよ。そうじゃ、名と言えば、そなたの名の由来はあれじゃろう。淡雪……つまり、春に生まれたとか?」
「拾われたのが、地面が淡く雪に覆われた春先でした。色素の薄い髪と肌が、今にも雪と溶けて消えてしまいそうだったからと、村長がそう名付けてくれました」
「捨て子か……珍しい話でもないが、世知辛いのう。そなたもわらわも、世にはじかれてしまった」
姫さまが悲しそうな声で言う。ぼくは強く否定した。
「いいえ。この屋敷の者は、姫さまを大切に想っております」
「おつとめだからじゃ。みな、腫れ物に触るように遠くから『見守って』おる」
世に絶望したような冷たい物言いに、ぼくはいてもたってもいられなくなった。
「姫さま。御名をお呼びすること、お許しいただけますか」
「なんじゃ、急に。許す」
「朱華さま」
他に何を思うより先に、細い手をそっと握った。
雲上のお方に狼藉を働いている自覚はあった。だがそれ以上に、彼女の孤独を溶かしたいという使命感があった。どのような罰を受けようとも、我が心のうちを伝えたい。
「お慕い申し上げております」
平伏したまま、更に告げる。
「いつか年老いて腰が折れ曲がり、自分の足で歩けなくなって花も摘めなくなっても、朱華さまが許す限りはおそばにおります。ぼくでは何の慰めにもならないかもしれませんが……」
やがて、御簾がぎこちなく持ち上がる音がした。顔を上げよ、と小声で命じられる。
濡れそぼった黒い瞳がぼくを見下ろしていた。二、三度瞬いて、ついに涙があふれ出る。
「近う寄れ」
ぼくは繊手に引かれて、初めて彼女の部屋の畳を踏んだ。当惑して、うまく言葉が出てこない。
「あの、姫さま。これは」
姫さまはふくよかな赤い唇に指をあてて、幼児を黙らせるような仕草をする。秘め事の匂いだ。我知らず動悸がした。
「淡雪、ありがとう。そなたの献身、うれしいぞ。そこまで言うなら慰めるがよい。てはじめに、もう一度名を呼んでくれぬかの」
「朱華さま。本当に、よろしいので……?」
妖艶な微笑みが答えだった。
ぱさりと控えめな音を立てて、御簾が下がる。
姫さまの寝床を照らす灯台の炎が穏やかに揺れていた。重なる影が、壁に映し出される。
こうして彼女を閉じ込めるための空間は、はじかれた者同士の安息の所と変わった。
それからというもの――夜な夜な、美しい手は御簾の中までぼくを招き入れるようになった。
<了>
最後までお読みくださりありがとうございます。敬語が全くわからない甲がお送りしましたよ。
そうです、私は「お慕い申し上げております」というセリフを使いたくてこの話を書いたも同然なのです! あと、「近う寄れ」をあやしい意味にして〆たかった! 度重なるやりとりで愛を繋ぐ奥ゆかしい時代ものをやってみたかったような、はい。あらすじそのままです。
立案した時期(2015年夏?)が近いだけあって、「きみの黒土に沃ぐ赤」とひとつテーマが似ているところがあります。
この話は「春夏秋冬」と四部に分けてさくさく進めたかったので、構想段階ではそれぞれのパートに入れるシーンを断片的にしか予定していませんでした。こんなんでちゃんと物語になるか? 肉が付くのかと疑問に思ったものの、その辺はキャラたちが頑張ってくれました。
いつか時が流れて帝も代替わりして、誰も山奥の屋敷のことを思い出さなくなったなら。
きっと朱華が淡雪に手を引かれて、山の中を散策しながら大好きな花を直に観賞できる未来が来るでしょう。
淡雪
13→18
思春期を経て、目が合っただけで女房たちの足取りをふらつかせるレベルの長身イケメン(優男系統)に開花するが、そのことは本編においてどうでもいいので割愛。成長した後は口が割合達者になったかもしれない。
朱華
19→24
偉そうな言葉遣いは武装のようなもの。ガラスハートの持ち主。人肌恋しいが、それを求めることが自分に許されていると思っていない。構想段階よりも、かなりヲトメな性格に仕上がっている。