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絹の糸  作者: 橘 泉


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第二話

チャンドラカーラが極楽浄土に着くと、そこは蓮池のすぐ横にある水際の草原であった。

見えうるすべての建造物は全てが白く輝き、美しい蝶や鳥が飛び交い、新緑と四季の花々が咲き誇っている。

その景色を言い表すだけの言葉を持ち合わせていないチャンドラカーラは、目に刻みつけるように眺めた。

疎らだが数人の影もちらついており、その天上人は遠目でも分かるほどに美しい人たちばかりである。

色々な顔で、肌の色も髪の毛も、着るものもみな違うが、微笑みあい、語り合いなにやら熱心に学びあっているようだ。


ふと、自分が地獄から来たことを思い出し、身なりがどうだったか気になった。

慌てて蓮池を覗き込むと、なんとすでに天国の住人よろしく整えられて姿が映っているではないか。

チャンドラカーラは生まれてからこれまでで一番美しい服を着て、身なりを整えられていた。

生前は幼い頃に織物商の奴婢として買われたが、手が汚いからと絹に触ったことすらなかった。

食事もままらないほど虐げられて、気が付いたら商家から逃げ出し盗人になっていた。


――そうか、絹の衣はこんなにも手触りがよく、気持ちいいものなのか。

  そりゃ金持ちが布生地に選ぶわけだ。


ふいに目元から熱いものがこみ上げる。

滲む視界のまま目を漂わせてしばし呆然としていると一人の男が近づいてきた。


「こんにちは。さきほどの様子見ていましたよ。じつに一所懸命で心を打たれました。」

「あ、ありがとうございます。あっ、みっともない姿でごめんなさい」

目元をさっとぬぐって挨拶を交わす。


「あぁ、気にしないでください。私の方こそ折悪しく話しかけて申し訳なかったです。

 しかし何も気にしないでください。ここではすべて自由で平等なのです。

 涙も隠す必要などありませんよ。」

「じ、じゆう…? びょうどう…?」

「そうです、上下の関係もなく、お互いに好きなようにして過ごして良いということです。

 さらに金も身分の概念もないので奪い合いもありません。

 心身ともに満たされているので何も求めません。ただ相手を敬い、学びあうのです」

「は、はぁ…それで、私は何をすれば…いいんですか?」

「うーん、本当に自由だから何をして過ごしても良いのだけど、何も思いつかないのなら私と一緒に学びませんか?あちらに学舎があるので、よかったら一緒に行きましょう」


これまで聞いたこともない考えや仕組みが次々に説明され理解が追い付かない。

さらにさきほどまでの極楽浄土に来たという高揚感があいまってうまく言葉も出せない有様だ。



学舎では古今東西の苦や煩悩について色々な人々が語り合っていた。

宇宙やら数の定義やら存在意義など色々な単語が話題にあがるが、チャンドラカーラは何一つ理解できなかった。

異国の言葉を聞いているようで眠くてしょうがない。

会話が少し途切れたところで学舎に連れてきてくれた男に近づいて謝る。

「連れてきてくれたのによくわからなかった。ごめんなさい。すこし休みたくなってしまいました…」

「謝らないでください。自分を卑下することなどありません、少しづつ慣れていけばよいのです。そういえば蓮池の近くに東屋があったでしょう?あそこは人もあまり来ないし、気兼ねなく休めますよ。」


丁寧にお礼を述べてから学舎から離れたチャンドラカーラはとりあえずその東屋で休むことにした。

一心不乱に糸を昇ってきた上に意味不明な単語と会話で頭がボゥっとしてきたチャンドラカーラは瞼が重くなり心地良いけだるさに、あっという間に眠ってしまった。



次の瞬間目を覚ますと、奇妙な違和感をいただく。

体はたしかに数時間は眠ったような気配があるのに、周囲の景色はまるで時間が経過していない。

不審に思い、東屋近くを通りがかった女に尋ねてみた。

「あなた、先ほど昇ってきた方ですね?極楽の仕組みを知らないのなら驚かれたことでしょう。ここは、すべてが自由であり、とらわれることがない。つまり時間の概念すらないのです。いつまでもこの状態です。」

「は、はぁ…そうですか、ありがとうございます。」


微笑み気遣いながら優しく説明されたが何一つ理解が追い付かない。

チャンドラカーラは混乱した頭のままさきほどの学舎に向かうと、まだあの人々は同じ題目についてひたすら語り合っているようだった。

頭の良い人たちが、ひたすらに人間や世の中の在り方について語り合う様子を見ていると、なんとも名状しがたい恐怖がこみ上げてきた。


金も身分も、時間の概念すらもないこの世界で、他の人の言っている会話の意味もさっぱりわからず、ただここに存在する自分は何なのか。

チャンドラカーラは生まれて初めて自分の生きる目的がわからなくなった。


生きていた時は自分が生きるために人の金を奪った。

地獄では苦役を与えられたから耐えた。

それが存在する目的となっていた。


では、ここではどうすれば、何をすればよいのか。

答えがわからず得体の知れない恐怖に責め立てられるように息苦しい。


――目的もなく無限の時の中ですべてが自由だなんて、なんて恐ろしいんだ!


眩暈に襲われ蓮池まで戻ると、両膝を立てるようにしてヘタリと岸辺に座り込んだ。

孤独だった。

生まれてから地獄までの日々を通して、目的を見出せない今この瞬間こそ、最も孤独を身近に感じていた。

――おそらくこの極楽浄土では、自分のように孤独を感じているやつはいないのだろう。

天上人たちの気遣いや美しい優しさが一周回って冷たい棘のようにチャンドラカーラの心を刺していく。


その時ふいに一匹の蛾が現れチャンドラカーラの周囲をうかがうようにひらひらと舞っている。


『…ラ…カーラ…チャンドラカーラ…私の声が聞こえますか…』

「え? あたし、ついに頭がおかしくなって虫の声が聞こえるようになっちまったか…」

『違います。本当に話しかけています。私はあなたに助けてもらった蚕なのです』

蛾はチャンドラカーラの左膝にとまると、羽をぴったりと合わせて休まった。

「あ、そう…なんだ。じゃあ、お前があの糸を垂らすようにお釈迦様にお願いしてくれたのか?」

『はい、そうです。一度だけお礼がしたかったのです』

「私はお前を助けたことなんて覚えてもいないのに、それでもお礼をするなんて極楽浄土は虫でも高貴な心を持ってるんだな、へへへ…」

地獄でジャヤンタたちと笑っていた時のような下卑た笑みをうかべながら皮肉る。

『おどけて済ませないでください。私がまだ蚕だったとき、桑の葉が風で滑り飼育箱から落ちた私を、あなたは優しく箱に戻してくれたのです。その後私は成長し立派な絹の糸を作りました。そしてその絹糸から織られた袈裟を着た法師が、各地を放浪し、たくさんの人々を極楽浄土に導いたのです。その役得で私も極楽浄土に来ることができたのです。だから、本当にありがとうございました。』

「そうなのか、巡り巡ってそんなこともあるんだなぁ…」


二つの魂は蓮池の淵で見つめ合っていた。

一人と一匹を取り囲むように優しい風がそよそよと木犀の香りを運んでくると、チャンドラカーラの心にはまるで暖かな春光がそそいだように新たな閃きが舞い込んでくる。

数百年地獄にいても気づかなかったことに、この極楽浄土に来た今、思い至ったのだ。


「ふふふ…数百年地獄にいても気づかなかったことに、今気づいた。お前のおかげだ。」

『どうしたのですか?何かおかしいことでも?』


「…絹の糸が法師の袈裟になるのと同じように、

 あたしがいつか盗んだ金も、誰かの何かになるものだったんだ。

 もしかしたら誰かの治療代だったかもしれないし、借金の支払いだったかもしれないんだ。

 誰かから何かの未来を盗んだってことなんだな。」


蛾は左膝の上で、人のごとく熱心に見つめ返す。

その労わるような眼差しにチャンドラカーラの胸元はこれまで感じたことのない温かみを感じていた。


「…やっぱり、あたしは極楽浄土にはふさわしくないやつなんだ…」


『ここにきたことを後悔している?』


「なんだか寂しくなっちゃったんだよ。

 地獄は辛かったけど、自分と同じようなやつらがたくさんいた。

 極楽は素晴らしい場所だけど、あたしみたいな悪人には居心地が悪いみたいだ。」


『それならば、ここから出る方法を教えてあげましょうか。』


「ここから出られるの?」


『極楽はすべてが自由ですから、出ようとする者を極楽は阻みません。

 もしここから出たければ、蓮池に飛び込むのです。

 そうすればあなたにふさわしい場所に辿り着けます』


「池に飛び込むなんて…息ができなくてどうするんだ?」


『飛び込んでみればわかります。私から言えることはそれだけです。

 あなたに直接お礼が言えてよかった。極楽浄土に来てくれてありがとう』


そういって蛾は左膝からふぅわりと離れると、たちまち美しい極楽浄土の空に溶け込むように消えていった。

チャンドラカーラはその儚げで美しい姿が消え行くのを見届けると、蓮池に近づき徐に頭から飛び込んだ。ポシャリという軽い音を立て、鏡のように綺麗な水面に吸い込まれていった。



口から吐き出された空気がゴポゴポという音を立てて水面に上がっていく。

チャンドラカーラは頭から水に沈みながら、美しい藻やら小魚やらを眺め、極楽浄土での最後の光景を目に焼き付けようとしていた。

逆さに映る水中藻は、あの時天上から垂らされた絹の糸のようにチラチラと煌めいている。


――あぁ、ここで終わるのか。なんなら地獄にいたほうがましだったかもしれないな…


ついに苦しくなったチャンドラカーラは口を開けて水を飲み込み覚悟した。

そう思った瞬間、不思議な感覚に全身が総毛立つ。


水だと思っていたものが胃の腑まで達すると奇妙に息苦しくない。

なんと、この蓮池の水は呼吸せずとも生きていられるようだ。


ふと周りを見ると自分のように蓮池の底に向かう人がたくさんいることに気づいた。

その中にはあのジャヤンタもいる。


――もしかして蓮池の底は、地獄の池と繋がっているのか!?


その時、記憶の中のどこまでも遠い場所にある霞がかった思い出が、チャンドラカーラに既視感を覚えさせる。


――そうか、ここは…胎の中なのか。

  きっとまたあの世界に向かうのだ。今度こそ、やり直すのだ。


そう言って頭から堕ちていく。



ある日のことでございました。

お釈迦様は極楽にある蓮池の周りを歩いておられました。

時折蓮池の周りにいる小さな生き物たちが蓮池に飛び込むポシャリという音が辺りに鳴り響き、自然の営みをとても愛らしく感じられます。



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