第一話
ある日のことでございました。
お釈迦様は極楽浄土にある蓮池の周りを歩いておられました。
そこはもうこの上なく美しく、彩雲が舞い、蝶が羽ばたき、足元の石畳すらも一つ一つが磨き上げられ鏡のように滑らかな様子でした。
時折蓮池の周りにいる小さな生き物たちが池に飛び込むポシャリという音が辺りに鳴り響き、自然の営みをとても愛らしく感じられます。
そんな中、池の岸あたりにある蓮の蕾を眺めていらっしゃいますと、1匹の美しい蛾が羽をひらつかせながらお釈迦様の方へ飛んでまいります。
空中をふわりふわりと飛ぶ様は、懸命に何かを訴えているようで、怪訝に思い手をかざしてみると、自身が生前に受けた恩を或る者に返したいと申し出てきました。
お釈迦様は、ついさきほどカンダタが蜘蛛の糸を昇って来られなかったことを思い出し、この蛾の願いを叶えようか思案しておられましたが、ついに思い立ち、蛾の魂魄から蚕が吐き出す糸を取り出すと地獄に向けて垂らしたのでございました。
◆
カンダタは彩雲に照らされながら地獄へ堕ちていく。
あまりにもあっけなく、いっそ小気味良いくらいの光景だった。
蜘蛛の糸にしがみ付きカンダタに叩き落とされた者たちも地獄の大地に散乱しており、辺りは目のやり場もないほどの凄惨な状況である。
周囲からその様子を見ていた地獄の民衆は驚きと興奮を隠しきれないようで、さながら一つの喜劇でも見ているかのように騒ぎ立てている。
チャンドラカーラは遠くからその光景を眺めていた。
蜘蛛の糸がプツリと途切れるのを見届けた瞬間、このような惨状になることは簡単に予想できた。
―― あいつは地獄で何も学んでなかったのか、馬鹿者め。
チャンドラカーラはカンダタよりは賢いと自負している。
元々は貧民層に生まれた奴婢であった女だが、生前犯した窃盗の罪業の報いを生きているうちに受けていなかったため、このように地獄に堕とされ、償い続け、すでに数百年は経過していた。
チャンドラカーラは様々な地獄の苦役を与えられ、その中でただ一つの事を学んだ。
すなわち、〈この苦役を少しでも和らげるためには、地獄の番人たちの言うとおりにすべて受け入れることだ〉と。
言われたとおりに劫火で焼かれれば抵抗するよりは熱くないし、針の壁に圧し潰されても痛くない……気がする。
そんな風に自分なりに答えを出していた。
かくして、要領よく地獄の苦役を一つ終えた後、焦熱地獄と針の山地獄の間は距離があるので、番人たちに見つからないよう少し岩陰で休んでぼうっと空を眺めていると、カンダタが天上から落ちていく姿が見えた、というわけである。
数百年も地獄で過ごせば大体こうして旨いこと休む方法も身についてくるもので、この岩陰には自分のような地獄の玄人たちが身を潜め休んでいた。
「あのカンダタってのは、バカだよな。」
隣で休んでいたジャヤンタが話しかけてきた。
この男は大陸内部の大将軍だった男で、チャンドラカーラよりさらに数百年は地獄にいる先達だ。
屈強な体格と経歴がはっきりと符合する、そんな男である。
「なんでそう思う?」
「だってあいつ確か地獄に来て数百年は経ってたよな。
それで周りの人間を蹴落とすようなあの態度は、よっぽど要領悪いとしか言いようが無いな。
この地獄では番人の言うことを聞いて、それ以外には変なことをしないことが一番だ。」
さすが、自分よりもはるかに長いこと地獄にいる男は要領を得ているな、そんな風に関心しているとジャヤンタが囁くようにこっそりと耳打ちしてきた。
「それにな、無理に地獄から抜け出そうとしなくても良いかもしれない。ここだけの話、地獄にも終わりがあるらしいぞ。」
「!?」
「ふさわしい時が来るとな、針の山地獄と黒縄地獄の間にある池に連れていかれて、投げ込まれるらしい。その先は、まぁ、知らんけど。」
「何それすごく気になるな…でもその池の先ってのがここよりもっと地獄だったら嫌だけど。」
「そうだよな。地獄の先がもっと地獄なんて話、意味わかんねえよ。でもありえそうな話だよな。」
「はは、いずれにしても希望は持たないほうがよさそうだね」
「もともとここは地獄だ。希望なんてとっくに無いだろうよ!」
地獄に長らく住んでいると感情も麻痺してくるのか、悲劇的な話のわりに二人はへらへら笑い合う。
―― その時であった。
雲間から突然、チャンドラカーラの前に一本の輝く糸が垂らされた。
天上を見上げるとそこには光り輝くお釈迦様がいらっしゃる。
と、いっても後光が眩しすぎてお顔はよく見えない。
お釈迦様はチャンドラカーラとその周囲にだけに聞こえるお声でおっしゃった。
「チャンドラカーラよ。お前は生前、一匹の蚕を助けたそうだな。
その蚕がお前に一度だけ機会をやってほしいと懇願してきた。
どうだ、もし極楽浄土に来たいと望むなら、この糸を昇ってくるがよい」
チャンドラカーラの頭の中にグワングワンと早鐘がたたきつけるように声が鳴り響く。
訳が分からないままふと隣にいるジャヤンタを見やると、目をまん丸に見開きながらもチャンドラカーラを促すように無言で見つめ、唾をゴクリと飲みながら丁寧に語り掛けてきた。
「お釈迦様がどんな考えかは分からないが、俺は決して、お前に垂らされたその糸に縋り付いたりなんかしないから安心しろ。
俺はかならず地獄の池から次の世界へ向かってみせる。とにかくお前は行ってこい。カンダタの見られなかった景色を見てやれ!」
「ジャヤンタ、ありがとう。ありがとう…!」
チャンドラカーラは必死に糸を掴み、天上めがけて昇って行った。
途中で他の地獄の住人達もこちらに気づき近寄ってきたが、だれも追いかけてこようとはしない。
何しろカンダタとともに天上から落ちたものたちはみな体がひしゃげて酷い形に怪我をしている。
今度は糸を昇る者はチャンドラカーラただ一人だ。
昇るほどに眼前が彩雲の鮮やかさで眩しい。
地獄の暗さに慣れた目には毒となる光を浴び、懸命に閉じながらもチャンドラカーラは腕の力を頼りに蚕の糸を必死に上り続けた。
第二話で完結です。




