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桜の花びらに名前をつけたら、君が笑った。 ──春の風の中に、君の声がまだ残っていた。  作者: しげみち みり


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第5話 桜の名前

 その日の放課後は、校庭の風がやさしかった。体育館の壁を舐めるように吹き抜けたあと、桜の木の下で力を落とす風。花びらは、もう数えるほどしか枝に残っていない。見上げると、空の青が広くて、枝の先が少しだけ震えていた。


 旧美術室でスケッチブックを閉じるとき、ページの花は、昨日より確かに咲いていた。花弁の重なりが深くなり、影の濃さがほんの少し変わっている。同じ線のはずなのに、毎日違う顔をする。不思議と、誰かの横顔に似てくる。


「今日は、持ち帰る」


 俺は自分に言った。学校で生きる紙だって分かっているけど、今夜はどうしても一緒にいたかった。約束の絵に名前をつけるなら、たぶん、その瞬間は二人きりのほうがいい。


 帰り道、古賀に遭遇した。「おい、早瀬、からあげ棒じゃなくて今日はコロッケ二個でいいか」

「いい。でも今日は急ぐ」

「最近のお前、いつも急いでるな。青春してる?」

「してない。忘れものを思い出しただけ」

「名言っぽい」

 軽口を背中に受けながら、階段を駆け上がる。玄関の前で靴を脱いでいると、台所から母の声が飛んできた。

「今日は早いね。ごはん、温める?」

「後で。ちょっと描く」

「はいはい。お風呂は先でも後でも」

「後で」

 短いやりとりを終えて部屋に入る。机の上のスペースをあけ、スタンドライトを片手で引き寄せる。光の輪が木目を白くした。リュックからスケッチブックを出し、留めゴムを外す。ページを開く瞬間、胸の中で何かが跳ねた。


 今日の花は、昼のままそこにいる。呼吸するみたいに見えるのは、きっと俺の目のせいだ。鉛筆と消しゴムを並べ、色鉛筆の箱を開ける。薄い桃色、少しだけ黄みのある白、影に使う薄灰。前に見つけた三本に、今日は一本だけ赤を足す。強い色は使い過ぎない。彼女の好きな「ちょっとずつ戻せる道具」で、無理をしない。


 最初のひとは、いつも怖い。紙面に色がのる瞬間、二度と戻れない地点をまたぐ気がして、肩に小さな力が入る。深呼吸をひとつ。芯を花の中心の上に落とす。線を引くのではなく、毛糸をそっと置くみたいに、色を置く。薄く、薄く。重ねる。消す。伸ばす。息を忘れない。視線の端で時計の短針がゆっくり動く。


 時間が、色に変わっていく。腕が少し重くなる。手首の内側が熱い。脳の奥のほうで小さなスイッチが次々と切り替わる感覚。外の音が消えていく。隣家の洗濯機の唸りも、廊下の足音も遠のく。あるのは、芯が紙をなでる音と、自分の呼吸だけだ。


 夜が深いことに気づいたのは、母のノックでだった。

「ここまでにしなさいよー。明日もあるんだから」

「もう少し」

「“もう少し”は長いって、この前自分で言ってたでしょ」

「今日は、ほんとに、もう少し」

 返事を聞いた母は、「温かいお茶、置いとくね」と言って去っていった。湯気の匂いが部屋の空気を変えた。湯のみを両手で包み、ひと口だけ飲む。舌の上で温度が広がって、指先に帰ってくる。ああ、これが必要だった、とやっと気づく。


 時計は深夜をすぎて、目は冴えている。けれど、体の中で静かに疲労が波を打っている。焦らない。焦らせない。今日の花は今日しか咲かない。線を一本間違えたと思っても、消して戻せばいい。戻せないところまで行く前に、いったん止まる勇気も忘れない。


 花弁の重なるところに、淡く黄を入れる。光が通る薄皮一枚分の厚みを想像しながら、色を置く。影は濃くしない。強くすればするほど絵は早く正解に近づくけれど、彼女はたぶんその早道を好まない。遠回りして、寄り道して、戻ってから進む道のりを信じている。消しゴムで一度だけ影を拭い、薄灰でほんの少しだけ引き直す。比べる。目を細める。目を開く。息を吐く。置く。


 いつの間にか、鳥の声が遠くで鳴いている。カーテンの隙間が白い。夜が薄くなって、窓の外の灰色に青が混ざる。机の上の光の輪が弱く見えるのは、部屋に朝の光が入ってきたせいだ。手を止める。紙から顔を上げる。肩をまわす。呼吸を深くして、ページを見直す。


 桜は、そこにいた。淡い桃色が、確かに光を帯びている。色鉛筆の層の奥から、鉛筆の線が透ける。その奥から、もっと前のページの彼女の走り書きの声が、かすかに響く。懐かしい温度。遠くから戻ってきた体温。指で紙の端をそっと押さえると、がさり、と乾いた音がした。生きものの気配がする。


「……よかった」


 声が自然に出た。ほっとすると、眠気が一気に押し寄せてくる。だけど、今は眠らない。最後の仕上げが残っている。花弁の端にほんの少しだけ赤を入れて、呼吸のリズムを止めないよう気をつける。迷ったら、やめる。進めるべきところだけ進む。にじませない。騒がせない。


 湯のみの底が冷たくなっている。指で触れて、置く。もう一度、ページを全体で見る。両目のピントを少しだけ外して、光の流れだけ確認する。行き過ぎたところはない。足りないところは、もう、ない。俺はシャープペンを取って、ページの隅に小さく日にちを書く。今日の線は今日で完結するように。


「完成」


 口にしてみる。言葉がまだ宙に浮いたままのような感覚。実感は遅れてやってくる。そのタイムラグは嫌いじゃない。遅れて届くもののほうが、長く残るから。スタンドを消して、部屋の窓のカーテンをそっと開ける。朝の薄い光が、ページの上に眠そうに広がった。


 そのときだ。スケッチブックの最後のページが、風もないのに静かにめくられた。紙の擦れる音。睡魔で鈍い耳でも、それだけははっきり聞こえた。表紙側から一枚、白いページが顔を出す。そこに、やわらかい筆圧の文字がすうっと現れ始める。


 名前をつけて


 シンプルな四文字が、紙の上で止まった。さっき塗った色とはちがう、まっすぐなトーン。心臓の鼓動が一段大きくなる。名前。タイトル。呼びかけ。呼ばれ方。呼び名。名付けるという行為は、すべてに方向を与える。間違えたくない。けれど、迷い過ぎても届かない。


 椅子に座り直し、ペンを指に挟む。言葉がいくつか浮かぶ。春の約束、風のページ、色の音。どれも悪くない。けれど、紙面はいちばん短い返事を求めている気がした。遠回りは全部ここまでの線が引き受けてくれた。最後は、すっと直線で。


 俺は、息を吸う。吐く。吸う。吐く。ペン先をページの下の余白に乗せる。震えはある。でも、震えごと連れていく。


 桜子


 君の名前を、この桜にあげる


 書き終えると同時に、部屋の窓からひやりとした風が流れ込んだ。朝の風。カーテンの裾が持ち上がり、スタンドのコードが小さく揺れた。ページの上の桜の花びらが、ふっと舞い上がったように見えた。見間違い、と言い切れないほどはっきりと、色鉛筆の粉が光の粒を抱えて宙を踊る。


 ページ全体が、白く柔らかい光を帯びる。まぶしい、の少し手前の明るさ。触れたら温度が移る種類の光。花は一瞬だけ“本物の桜”みたいに揺れ、枝は風を抱いた。音はないのに、木陰のざわめきが胸の内側で広がる。校庭の土の匂い、体育館の壁の冷たさ、渡り廊下のガラス越しの白。全部が同時に戻ってきて、ページの上で重なる。


 もう泣かないつもりだった。泣くのは最後の最後に取っておくつもりだった。でも、目の奥の何かが勝手にほどけて、視界が水で満たされる。視界の端で、ペンキャップが転がった。唇が笑いの形に引っ張られていくのを、止めなかった。


「やっと描けたよ」


 声が、部屋の空気に広がる。自分の声が少し掠れているのが、うれしかった。泣いて、笑って、声がまざって、朝の光と同じ温度になった。


 ページの下の余白に、細い文字が現れる。彼女の筆跡。少し震えている。でも、はっきりしている。


 よくばりだな

 なまえ、くれるの


 俺は笑って、涙を拭う。ペン先がにじまないように、袖で乱暴に目を押さえた。すぐに返事を書きたくなって、言葉を選んで、選びすぎる自分に苦笑する。


 借りるだけでもいい?

 満開が終わるまで。

 咲いてる間だけ。

 この絵が世界に出るまで。


 紙はすぐに応えた。


 いいよ

 たくみが みせるなら


 世界に出す――約束が胸に浮かぶ。金曜の新歓のポスター、廊下の掲示板、校内の展示、クラスのプリント裏に小さく印刷だっていい。SNSも、怖いけど、使える。咲良の明るさを借りれば、届く場所は増える。怖さと同じだけ、届く可能性も増える。


「名前、もう一つ書いておく」


 俺はページの隅に、小さく“題”と書き、日本語の癖のある手つきで続けた。


 題 桜子


 ペン先が紙に触れているあいだ、ほんの少しだけ震えた。震えが終わったあと、胸の奥に広い空き地ができる。その空き地に風が抜けていくのが分かる。空き地は、これから使える場所だ。怖がらなくていい。何かを建てても、また壊しても、ここは残る。


 スマホが枕元で震いた。画面を見ると、古賀からのメッセージ。おい、朝ラン行く? 俺は笑って、行かない、とだけ返した。今日は違うランがある。廊下の掲示板まで走るラン。印刷室まで走るラン。顧問の許可を取りつけるラン。いろんなラン。


 朝食の席で、母が俺の顔を見て言った。

「目、赤いけど、だいじょうぶ?」

「春だから」

「それ、花粉の言い訳でしょ」

「ちょっと別の花粉」

「なんそれ」

 くだらない会話が、今日はありがたい。パンを噛むたび、さっきの光景が口の中の味に混ざる。あの光が、現実のパンの味まで少しだけ甘くする。


 学校へつくころには、昇降口の人の流れが少しずつ速くなっていた。新歓の貼り替えで、掲示板の前に何人かが集まっている。咲良がそれに混ざって、画鋲の箱を抱えていた。俺を見つけると、手を振る。

「先輩、おはようございます。顔、ちょっと違う」

「寝てないから」

「でも、なんか、いい感じ。目が明るい」

「花粉だよ」

「やっぱり花粉じゃないじゃないですか」


 笑いながら、俺はスケッチブックを鞄から出した。表紙をひらき、咲良に見せる。彼女は息を止めた。声が出るまで、一秒。二秒。三秒。


「……きれい。やさしい。題は……“桜子”」

「名前をつけた」

「誰かの、名前?」

「俺の知ってる、いちばん大事な桜の名前」

「いい名前です」

 彼女はそう言ってから、少し黙って、ページを見続けた。目が水で光る。けれど、涙にはならない。持ち堪える強さのある光り方だ。俺は安堵する。重ねない。重ねてしまう心を、今日は上手く扱えた気がする。


「これ、掲示板にも載せませんか。ポスターの隣に小さい写真でも」

「やる。印刷室行こう。先生にも話す」

 咲良は嬉しそうにうなずき、駆け出した。ポニーテールが朝の光を切り取る。俺も走る。印刷室でスキャンし、プリントを出す。白黒でも十分伝わる。色は別で、部室のプリンタでやればいい。画鋲の位置を決め、人の流れの真ん中じゃない、半歩ずらした場所に貼る。ふいに立ち止まる人が、ひとり、またひとり。誰かが、ほんの数秒、目を細める。


 教室に戻る途中、顧問の小山先生に出くわした。

「おっ、貼ったな。いいじゃないか。題は……“桜子”。ほう」

「展示、もう少し広げたいんです。廊下だけじゃなく、昇降口のガラスにも、ミニのやつを」

「やってみよう。申請は俺が通す。お前、幽霊は卒業だな」

「卒業、します」

「じゃあ同時に入学もしろ。ちゃんと部員にもなれ」

 先生は笑って去った。背中が頼もしい。こういう大人がいる学校って、わりと、やさしい場所だ。


 昼休み、掲示板の前の空気が少し変わっているのが分かった。いつもは通り過ぎるだけの人が立ち止まり、二、三人で小さな声を交わす。咲良が少し離れたところで様子を見ていて、俺と目が合うと親指を立てた。その親指の影が、床にちいさく落ちる。影にも春がある、と変なことを思った。


 放課後。旧美術室の鍵を回す。ドアが開く音が、今日はやけに柔らかい。棚からスケッチブックを出して、机に置く。ページをめくる。花は朝のまま。けれど、下の余白に、細い文字が増えていた。


 ありがとう

 なまえ、似合ってる

 ここからも 見えたよ

 みんなが ちょっとだけ

 足をとめるの


 胸の奥で何かが鳴った。紙の向こうとこちらが、同じ場面を別角度で見合っている。俺はペンを取る。


 聞こえたよ

 足が止まる音

 息の吸い直し

 笑い声になる手前の静けさ

 ぜんぶ、君のページに落ちた


 返事は、いつもより早かった。


 うれしい

 ここは つづく

 たくみが みせるかぎり


 約束の線が、もう一本増えた気がした。俺のほうへ向かう線だけでなく、俺から誰かへ向ける線。俺の手は、思っているより長い。紙と現実の境目に手をかけることができる。彼女の記憶を渡す板に、もう一枚、俺の板を打ちつけられる。


「明日も貼ろう。もっと小さいのも。昇降口と、図書室の入口と、購買の横にも」


 声に出すと、背中が軽くなった。帰り道、古賀がいつもの角で手を振る。

「お、掲示板のやつ、お前のだろ」

「部のだよ」

「なら、部に言う。いいぞ」

「ありがとう」

「今日こそコロッケだな」

「今日は、焼きいもにする」

「気分屋め」

 笑って、二本買って、一本を古賀に押しつける。甘い匂いが、午後の光にあう。口に入れる前から、少し笑ってしまう。笑う理由が増えるのは、悪くない。


 夜。家に戻って机に向かう。今日は描かない。描かない夜があっていい。代わりに、ノートに書く。今日のこと、朝の光、名前の重さ、ページの揺れ、掲示板の前の静けさ。字にすると、少しずつ落ち着く。落ち着いた先で、もう一度わずかに高まる。心臓のリハーサルみたいに。


 ベッドに入る前、スケッチブックを一度だけ開く。花は暗がりでも花の顔をしている。そこに、短く書く。


 やっと描けたよ

 やっと呼べたよ


 ページの角が、かすかに上がった。笑った、と勝手に決める。決める自由は、描く自由と同じくらい大事だ。目を閉じる。耳の奥で、鉛筆が紙をなでる音が鳴る。キュッ、サラ、トン。その奥に、拍手が一つ、二つ。今日は三つ目も、かすかに聞こえた。


 明日も見せる。明日も渡す。明日も、誰かの足が止まる場所を探す。題がある絵は、強い。もちろん、題をつけた責任もついてくる。けれど、責任は怖さの反対側ではなく、怖さと隣り合った場所にある。隣に立てば、見える景色が少し広くなる。


 眠る前、天井に向かって、小さな声で言う。


「おやすみ、桜子」


 返事はない。でも、部屋の空気が少しだけ甘くなった。春の終わりの匂い。ページの上で、明日の線が、まだ描かれていないのに、そこにいる気がした。名前を持った桜は、静かに、やさしく、呼吸していた。

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