第3話 声のない会話
放課後、昇降口の脇で立ち止まった。右のポケットには鍵、左にはスマホ。肩のリュックの重さの内訳は、教科書が六割、スケッチブックが四割。旧美術室の棚からそれを抜き、顧問の小山先生に「資料、家で整理します」と言い訳したら、先生は「資料?」と笑いかけてきたが、鍵を預かっているのは俺だし、深く詮索はされなかった。
持ち帰る間、何度も振り返った。誰かに見られていないか。階段を一段下りるごとに、背中の板を撫でられるみたいに不安が触れる。けれど、リュックの中の厚紙の感触が、その不安ごと抱え直させてくる。これは俺の勝手なんだろうか。そう思いながらも、歩くスピードは落ちなかった。
家に着くと、母が鍋のふたを開けて湯気と格闘していた。「今日は肉じゃが。宿題終わってから味見して」
「うん」と答えて自室に入る。扉を閉め、机の上を空ける。スケッチブックを取り出す動作が、やけにゆっくりになる。留めゴムを外し、表紙を開く。昨日までと同じ、薄い鉛筆の桜。枝の角度も、花びらの枚数も、ここまでは見慣れた並びだ。
違うのは、周囲の音。旧美術室の油の匂いも、曇りガラス越しの白い光もない。かわりに、隣家の洗濯機の低い唸りと、マンションの廊下の足音。スケッチブックは動かない。鉛筆も転がらない。紙は紙の顔をして、そこにいる。
俺は、シャープペンを握った。表紙の裏、白い余白に小さく線を一本。息が詰まる。軍手を外してピアノを弾く、みたいな緊張。自分の線はびびっている。けれど、その震えが、今日の俺の本当の温度なんだと思って、続ける。
――似顔絵を描こう。彼女の。
記憶の中の安堂桜子は、いつも横顔だった。窓の外を見ている時、黒板の隅に落書きしている時、移動教室の廊下で靴のつま先を見ている時。俺に向けられた正面の笑顔は、転校の挨拶のときの一回だけで、それだって教室の空気に溶けて輪郭が曖昧だ。
だから、横顔を描いた。癖のない前髪、耳の横でゆるく束ねた髪。笑うと頬に浅くできる影。目尻の柔らかさ。似ているのかは分からない。でも、俺の中で彼女を呼ぶための線にはなった。花のページの端に、小さな横顔を添える。邪魔にならないよう息を止めて、薄い影も置く。
鉛筆を置く。机の上で静けさが戻る。スケッチブックは、やっぱり動かない。俺は呟いた。「ここでは、動かないか」
当たり前だ。学校という場所に結ばれた糸が、俺の部屋では緩むのかもしれない。それでも今日はこれでいい。俺の番のページを一枚、確かに増やした。
寝る前に、スマホで彼女の名前を打った。昨日、何度も探して見つからなかったSNSの痕跡は、やっぱり出てこない。タグ検索、昔のクラスのグループ、去年の文化祭の写真。どこにもいない。ただ、空白が広がる。削除された跡の冷たさだけが、指先に伝わる。
スマホを伏せ、部屋の電気を消す。暗闇の中、白い紙の四角は見えないのに、そこにあるのが分かった。目を閉じると、紙の上で鉛筆が走る音を思い出せる。キュッ、サラ、トン。明日、彼女は何て言うだろう。俺の似顔絵は、怒られるほど下手じゃないといい。
翌朝のホームルーム。担任が新入生の部活見学の時間割を説明する。黒板に粉の線が残って、早口の言葉がチョークの粉に混ざる。俺はうなずくふりをして、頭の右端がずっと別のページを開いていた。三限を終えたらすぐ動け。チャイムが鳴る前に鞄に手をかけろ。渡り廊下は二歩飛ばしで。スケッチブックの重さがリュックから消えたことに、誰も気づかない。心は軽いのに、体は空っぽだ。
チャイム。立ち上がる。後ろから古賀の「昼、購買行く?」が飛んできて、指で丸を作って返す。行くけど今は行かない。靴音が廊下の雑音と一瞬だけ重なり、角を曲がる。渡り廊下。風。階段。鍵はポケットの底で冷たい金属の顔をしている。
旧美術室の扉を開けたとき、胸の奥の何かが先に駆け込んだ。部屋の空気は昨日の匂いをちゃんと覚えていた。棚の前に立つ。留めゴムを外す。表紙をめくる。昨日の俺の線が、花の端で震えていた。
ページの下の余白に、小さな文字。
ありがとう。
にがおえ、うれしい。
思わず息が漏れた。音にならない短い笑い。紙の上の文字は、あいかわらず少し震えているけれど、気持ちはまっすぐだ。俺は机に座り、シャープペンで返事を書く。文字の大きさは彼女と同じくらいに揃える。行の高さも真似る。会話のリズムを合わせるみたいに。
下手だったら、先に謝る。
でも、もう少し練習する。
俺も描きたい。
鉛筆は、すぐに動いた。
へたじゃない。
たくみの線、ちゃんとたくみの顔。
ね、
きのうの横顔、すこし笑ってた。
そう書いて、末尾に小さな丸印。嬉しさが胸に広がる。ページの端に、俺はさらに短く付け加えた。
満開になったら、
見せたいものがある。
間を置かずに、鉛筆。
みたい。
だから、まいにち、ちょっとずつ。
それからの時間は、紙の上のやりとりで満ちた。授業の合間、放課後、夕方。俺が簡単なメモや質問を書き置きしておくと、翌日には細い文字がその隣に並ぶ。誰もいない昼休みの数分、偶然が重なる夕暮れ、彼女の文字はいつも呼吸するみたいに現れては静かに消える。
「好きな画材は?」と訊ねたら、「ただのえんぴつと消しゴム」と返ってきた。「どうして?」には、「ちょっとずつやり直せるから。しかたないや、って笑えるくらいには戻れるから」。俺は笑って「それ、俺にも必要だ」と書いた。「必要だよ」と、丸が一つ増えた。
「いま、何が見えてる?」と書くと、「ひかり。紙のうえで動くひかり。たくみの影。たまに、風」と返事があった。「聞こえる音は?」には、「えんぴつの音。ドア。遠い靴の音。呼んだ声」とある。「呼んだ声」に線を引いて、「この前、名前で呼んだ」と書くと、「きこえた」と二重丸。
やりとりは、だんだん会話になった。声のない会話。文の向こうで、彼女が少しだけ首を傾げる仕草や、笑ったときの目尻の皺が見える気がしてくる。紙が彼女の心臓みたいに思えて、ページを閉じるときはいつもそっと押さえた。閉じるというより蓋をする。明日まで守る蓋。
三日目の夕方、小山先生が新歓のチラシを持って教室に顔を出した。「今週の金曜、見学希望者がどっと来るからな。よろしく頼むぞ、幽霊。いや、そろそろ成仏しようか」
「がんばります」
「がんばる、じゃなくて、やる、ね」
先生の冗談はいつも冗談より本気の割合が多い。俺はうなずいて、スケッチブックの留めゴムをちょっと強く締めた。金曜。見学者が来る。俺の守りたい静けさに、賑やかさが入ってくる。心配はある。でも、隠してばかりでも何も変わらない。
廊下に出ると、部員募集のポスターの前で一年生らしき女子が立ち止まっていた。短い前髪に丸い瞳。ポスターの桜の絵を見て、ふっと口元をゆるめる。その瞬間、彼女の笑い方が、転校前の安堂桜子の笑い方にかすかに重なった。喉が小さく鳴った。
「見学、希望?」
声をかけると、彼女はくるりと振り向いて、明るく頭を下げた。「はい。あの、美術、好きで。私、咲良って言います。佐伯咲良」
咲く、という字。自分で名乗ったその一秒で、彼女の周りの空気が一段明るくなるタイプの人だ。俺は名札に視線を落として、微笑む。「早瀬。美術部。幽霊だったけど、最近はいる」
「幽霊! じゃあ先輩、成仏の仕方教えてください」
言いながら彼女は笑う。その笑顔の中に、桜子の「また明日も」の声の色が混ざって見えた。面影を重ねるのは失礼だと思う。でも、目は自然にそういう結び目を探してしまう。俺はその視線を悟られないよう、部室への道を案内した。
旧美術室ではなく、現役の美術室。机が整い、ポスターカラーの瓶が並ぶ。咲良は「わー」と小さく感嘆して、棚に置かれた石膏像に軽く会釈した。「入部希望、って言っていいですか」
「言ってくれたら、俺が喜ぶ」
「じゃあ、入ります」
軽い宣言。俺は無意識に、左肩のリュックの重さを確かめた。そこにはスケッチブックがある。彼女をここに連れてきた直後に、あっちを開いていいかは、分からない。二つのページを重ねて開くことの危うさを、体が勝手に察している。
見学を終えた咲良が帰ったあと、日が傾き、現役の美術室の窓が橙色に染まる。俺は鍵を持って別棟へ抜けた。旧美術室の扉を開ける。油の匂い。静かな木目。棚からスケッチブックを出す間、鼓動が少しずつ早くなる。
開いたページの端に、知らないうちに文字が増えていた。
その子、
笑顔が似てるね。
喉が詰まった。見られていた。咲良の笑顔。あの明るい輪郭。紙の向こうで、彼女も見ていた。俺が彼女に桜子の面影を重ねた事実ごと、見抜かれている気がした。
視線を落としたまま、俺は書く。
新入部員。
明るい。
でも、俺が重ねた。勝手に。
ごめん。
鉛筆の先が紙を軽く叩く。すぐに、線が動き出す。文が、その隣に並ぶ。
いいよ。
似てるって、うれしいときもある。
でも、
わたしは あの子じゃない。
あの子も わたしじゃない。
胸の奥で、固いものが少し砕ける。分かっていることを、本人の字であらためて突きつけられて、俺はうなずくしかなかった。紙にうなずきは伝わらない。でも、返事を書くより前にうなずくことで、手に入る呼吸もある。
鉛筆はそこで止まらず、もう一行付け足した。
――私の「約束」、まだ覚えてる?
視界が狭くなる。約束。文字の中のその二文字が、他の部分とは違う濃さで滲んで見えた。俺はページを握っていた手を離し、深呼吸を二度繰り返す。約束。彼女と交わした約束。約束なんて交わした記憶があるか、と自分に問い返す。あるのか。ないのか。心の引き出しを逆再生で開けていく。
思い出したのは、冬の放課後、教室の窓。冷たく曇ったガラスに、彼女が指で円を描いて、それを花の形に変えて見せたときのことだ。彼女は笑って言った。「満開にできたら、名前、呼んでね」。あれは、冗談だと思っていた。軽口だと受け取っていた。けれど、彼女の声の奥にあった真面目さを、俺はちゃんと拾っていなかったのかもしれない。
あるいは、スケッチブックの一番最初の走り書き。「また明日も、花びらを描こうね」。あれを約束と呼ぶなら、確かに俺はそれを守っている。でも、彼女が今、わざわざ引用符をつけて「約束」と書いたのは、そこにもう一重の意味があるという合図だ。
俺は、ゆっくりと文字を書いた。
覚えてる、と思う。
満開になったら、名前を呼ぶ。
明日も、花びらを増やす。
どっちも、約束だ。
鉛筆は、少しの間、動かなかった。待たされる数十秒が、やけに長い。心拍が、紙の上の白い余白に音符みたいに落ちる。そのあとで、彼女は書いた。
うん。
それも、約束。
もうひとつ。
――わたしが いなくなる前に、
たくみの絵を ひとつ、
世界に出して。
世界に出して。言い回しは簡単なのに、その奥の広さが急に迫ってくる。世界。どこまでが世界だ。学校の廊下? 校内掲示板? 文化祭? SNS? 俺の手が、そこで止まる。
紙は続けた。
わたし、
絵の中にいる って、
たぶん、そういうこと。
だれかの目に 入れて。
だれかの記憶に 渡して。
そうしたら、
ここは 続く。
そのとき、俺ははっきりと気づいた。彼女は「残っている」のではない。彼女自身が亡霊のように紙に宿っているのではない。紙は、彼女の記憶を繋ぐための橋で、そこに線が置かれるたび、誰かの「見る」という行為が、彼女の側へ手すりのように伸びる。
だから、動くのは学校。だから、光が落ちると終わり。だから、俺が描いた似顔絵に返事が来た。俺が描いたことで、俺と彼女の記憶が一本の糸で結ばれ、その上を言葉が滑ってきた。そういう仕組みだとしたら――彼女をこの世界に繋ぐのは、俺の線だけじゃない。誰かの目、誰かの記憶、誰かの「いいね」にだって、橋の板を足せる。
俺はシャープペンを握り直した。
分かった。
世界に出す。
文化祭、でも、校内掲示板でも、SNSでも。
俺の線で、君を渡す。
そこまで書いてから、今やるべき具体を探す。金曜の新歓。見学者。展示スペース。スケッチブックそのものを出すのは、怖い。けれど、スケッチブックの「桜」をモチーフにしたポスターなら。咲良の明るさと一緒に並べるなら。彼女はどう感じるだろう。
紙の向こうで、彼女は短く返した。
たのむ。
たのしみにしてる。
鉛筆の線が、そこでふいにふっと軽くなった。まるで笑っているみたいに。俺はページの端に小さな花びらを一枚足し、今日のやりとりを閉じた。留めゴムをかける。耳の奥で、グラウンドの掛け声が微かに響く。夕日の角度が、机の木目に長い影を作っていた。
帰り道、古賀が自販機の前で待っていた。「今日はからあげ棒じゃなくて、焼きいもだって。買う?」
「買う」
「マジで? 最近のお前、素直すぎてこわい」
「怖くない」
アルミホイルの包みを離さずに、俺は言葉を飲み込む。怖いのは、別のほうだ。世界に出す、という約束。俺の線で、彼女を渡すということ。成功するかどうかじゃない。やるかどうか。迷いを抱えたまま一歩出すこと。たぶん、それが今日の「声のない会話」で受け取った宿題だ。
その夜、自分の部屋で、スケッチブックはリュックの中に置いたままにした。ここでは動かない。ここでは、俺が動かす番だ。新歓用の簡単なポスターの下書きを始める。桜の枝。花びらの枚数は、スケッチブックと同じペースで増やす。右下に「美術部見学会/金曜 放課後」と手書きで入れる。フォントの真似はしない。俺の字で。俺の線で。
途中、スマホが震えた。通知を開くと、クラスのグループに「明日、見学行く人?」というメッセージが並んでいる。そこに、咲良からの個別メッセージが一通。「明日も行っていいですか」。俺は「来て」と打つ。送信したあと、指が止まる。彼女に重ねない、と自分に言い聞かせる。重ねてしまう心の動きを、認める。それでも、目の前の人は目の前の人だ。紙の向こうの彼女は、紙の向こうの彼女だ。
ベッドに倒れ込む前、机に置いた下書きをもう一度見る。線の迷いはまだある。でも、昨日よりは少ない。花びらの一枚一枚に、誰かの目が引っかかるように、ほんの少しだけ中心を濃くした。誰かが立ち止まればいい。誰かが、見てくれればいい。誰かの記憶に渡ればいい。その「誰か」の最初の一人に、自分自身も入れていいのだ、と今は思える。
翌日の昼休み。現役の美術室で下書きを清書し、新歓のポスターを完成させる。咲良が横で「かわいい」と言って、手を叩いた。彼女の掌の音が軽い。俺はうなずきながら、心の片隅にあるもうひとつの部屋を開ける準備をする。授業が終わったら、旧美術室へ行く。スケッチブックを開いて、今日の会話を始める。
チャイムが鳴る。教室から廊下。渡り廊下。階段を上がる。扉の前で一度深呼吸。開ける。油の匂い。木の匂い。光。棚。留めゴム。表紙。ページ。
そこには、花びらが昨日より一枚増え、絵の下に短い文字があった。
ポスター、みたい。
ここからも 見える。
たのしみ。
「見えるんだ」と声が出た。紙の向こうにいるのに、彼女は俺の現実を覗き込むみたいにして、俺の現実に手を伸ばしている。俺は返事を書いた。
見てて。
満開になったら、呼ぶ。
世界にも、渡す。
約束、全部やる。
鉛筆が、ページの端で短い音を立てて、二重丸を描いた。それは、丸のかたちの笑顔だった。俺はスケッチブックをそっと閉じた。留めゴムの感触が、心の中心を静かに留める。
廊下に出ると、咲良が小走りでやってきた。「先輩、ポスター貼るの、手伝います」
「助かる」
「こういうの、ワクワクしますよね」
「する」
咲良はポスターを丁寧に持ち、俺は画鋲を受け持つ。二人で廊下の掲示板に立ち、貼り位置を決める。人の流れの真ん中より、半歩だけずらしたところ。ふいに立ち止まってしまう人の導線の先。
「ここ」
「そこだな」
指先が近くで交差する。咲良の笑顔の明るさが、紙の上の花びらに届くような気がした。重ねない。けれど、繋げる。目の前の笑顔と、紙の向こうの笑顔を、同じページに並べないまま、同じ春の光に照らす。
帰り道、古賀が「ポスター、見たぞ」と親指を立てた。「いいじゃん。やっと幽霊やめるのか」
「やめる」
「即答」
「約束だから」
「誰と?」
俺は笑って答えない。胸の中で、丸がひとつ転がる。二重丸の笑顔。声のない会話は、今日も続いた。俺の線と、君の線。俺の呼吸と、君の光。ページは白を残したまま、でも確かに、次へ進んでいる。
夜。机にスケッチブックを置くのはやめた。あれは学校で生きる。かわりに、ノートを開いて、今日の会話を短く写す。「ありがとう。にがおえ、うれしい」「世界に出して」。書き写すことで、俺自身の中にも橋がかかる気がした。ページを閉じ、電気を消す。暗闇の中で、俺は明日を決める。満開にする。名前を呼ぶ。世界に渡す。声のない会話に、明確な返事を返し続ける。
そして、眠りに落ちる直前、いつもの音が耳の奥で再生された。キュッ、サラ、トン。そこに、今日はもうひとつだけ音が加わる。小さな拍手の音。誰かが遠くで、手を二回合わせた。
たぶん、君だ。
たぶん、俺も。
同じタイミングで。
白いページは、まだ残っている。だから、明日も描く。明日も話す。明日も、約束の続きをする。空白のぶんだけ、やることがある。やれることがある。俺は目を閉じ、浅くうなずいた。明日の俺へ。世界へ。君へ。そこに届くように。




