第2話 君の筆跡
昼休みの終わり、教室のざわめきが次の授業に吸い込まれていく。その流れにあわせて席を立ったふりをして、匠は鞄だけ肩にかけ、廊下の角を曲がった。向かうのは、いつもの渡り廊下。三階の、冷たい風がよく通る場所。今日も三時に体育館の陰を見にいくつもりだったが、先に確かめたいことができた。
イタズラかもしれない。誰かが鍵の隙間を知っているのかもしれない。自分が見ていない間に忍び込み、桜を一枚ずつ増やしている。そう考えると、じっとしていられなくなった。
旧美術室の鍵は、先生からの預かりっぱなしだ。昨日の帰りに、明日も掃除の続きをするからと半ば強引に借りた。錠前に差し込み、ゆっくり回す。重い音のあと、扉を少しだけ開け、教室の縁に体を滑り込ませた。
窓は曇りガラスのまま。外の光は白く薄い。部屋の匂いは、油絵具と古い木と、紙の乾いた匂い。それだけで心臓が速くなる。棚のスケッチブックは触らない。今日はページを見に来たわけじゃない。誰かが来るのを確かめる。
匠は窓際のカーテンレールの影に身を潜め、机を一台引き寄せた。扉からは死角になる位置だ。椅子は出さない。足音を立てないように、壁に背中を預ける。スマホはマナーモード。通知の小さな振動さえ、今日は邪魔だ。
秒針の音はないのに、時間の気配だけが濃くなる。教室の外では、廊下を走る足音が時々現れては遠ざかり、ふたたび静けさが戻る。それを三回数えたあたりで、匠は息を長く吐いた。焦りすぎだ。放課後まで、まだある。
そのままの体勢で、ノートを開く。昨日、数学の隅に描いた桜の続き。枝を延ばし、花を一つ足す。線はやっぱり怖がっている。消しゴムで迷いを消しても、迷った跡が紙の繊維に残るのが分かる。ノートを閉じ、指先で机のざらつきをこすった。
いつの間にか、窓際の光の角度が変わっていた。午後の授業が終わり、昇降口で靴を履き替える声が遠くに響く。運動部の掛け声がグラウンドから風に乗って届く。外の世界はいつも通り忙しくて、ここだけが薄い水槽の底みたいに静かだ。
その静けさの上を、コロ、と音が走った。
机の上で、鉛筆が一本、転がって止まる。誰も触れていない。匠は背を壁にくっつけたまま、息を止めた。さっきまで真横に置いていた色の抜けたBの鉛筆。転がる向きは、机の中央に向かって。まるで誰かが指で押したみたいに一直線に。
次の瞬間、ページが風もないのに一枚、ふわりと浮いた。棚から取り出していないはずのスケッチブックが、いつの間にか机の上にあった。留めゴムは外れ、見開きの右ページがゆっくり自分で開く。紙の端が、ひとりでに震える。
匠は影から一歩だけ出た。怖さはある。でも、怖さより先に揺れるものが胸にあった。懐かしさ。去年の冬の空気の温度。転校の前の日、窓ガラスに指で花を描いた横顔。いくつも小さな断片が、この動く紙に呼び出される。
鉛筆は、転がった位置から、ぴたりと止まり、ゆっくりと立ち上がる。立ち上がるはずがないのに、立ち上がる。鉛筆の先端が紙に触れると、キュッ、と小さく音が鳴った。そこから、線が一本、引かれる。枝の延長。迷いの少ない、あの線。
袋の口を縫うみたいに、花びらが一枚、紙の中央に生まれる。輪郭のカーブが、呼吸のリズムと重なる。匠は無意識にそれに合わせて息をしていた。線が止まる。次の一筆。中心の影に、ほんの短い擦れが置かれる。鉛筆が持ち上がり、落ちる。
そして、絵の下の空白に、文字が描かれていく。震える手書き。けれど、震えの方向は一定だ。緊張の震えではない。小さく笑いながら書くときの、肩のリズムに近い。
今日も描いたよ。
声に出すように、匠はその文字を目でなぞった。喉の奥が熱い。口が勝手に開いて、言葉が漏れる。
「見てる」
鉛筆は止まっていたが、ページの角が一度だけ揺れた。返事のようにも見える。匠は机の影から完全に出て、椅子を引いて座った。目の前にスケッチブック。自分の手が触れたら消えてしまいそうで、机に広げたまま指先だけを近づける。
「桜子、なのか」
誰に向けているのか分からない声。でも、桜という音を口に出した瞬間、部屋の空気が一緒に動くのを匠は確かに感じた。窓の曇りガラスの向こうで、微かな影が横切った気がして、視線をやる。誰もいない。曇りは曇りのまま、世界を淡くしている。
スケッチブックに戻る。ページの余白に、鉛筆がまた動き出す。今度は匠の目の前、数センチの距離で。先端の黒い芯が紙に触れ、短い言葉を置いた。
ひさしぶり。
匠は笑う。涙腺の遠くで水が動く感覚がした。ひさしぶりって、そんなはっきり。気のせいだって言い張ることはできる。磁力だとか、風圧だとか、科学っぽい用語はいくらでも浮かぶ。でも、今ここでそれを並べるのは、階段を飛び降りる前に一段目の材質を検討し始めるようなものだ。ジャンプのことだけ考えるべきときがある。
「ひさしぶり。俺、早瀬。……わかるよな」
鉛筆はしばし止まり、やがてくいっと動いた。
わかる。
筆跡は、去年見た走り書きと同じ癖だ。文字の最後が少し上がるところ。長音を伸ばさないで置くところ。そういう無意識のクセが、まるで声のトーンのように伝わってくる。匠の胸の奥で、何かがほどけた。
「どうして、ここに」
問いを口にしてから、匠は少し後悔した。自分が一番聞きたい問いで、相手には一番答えにくい問いかもしれない。それでも、鉛筆はゆっくり動いた。
ここが いちばん 近いから。
その文を読み返しながら、匠は窓のほうを見る。ここが近い。教室と世界の境目。紙と目の、息の届く距離。
「転校して、どうしてるか、ずっと気になってた。美術、続けてるのか、とか。……あのさ」
言いかけて、去年の冬の廊下がよみがえる。彼女はよく言っていた。絵の中に生きたい、って。授業が終わったあと、黒板の隅の落書きみたいに小さな声で。
「絵の中に、生きたいって、言ってたよな」
鉛筆は小さく震え、同意の意味の丸印を描いた。そこに続けて、短く。
本当になった。
匠は息を飲む。机の端に捕まる。目の前の紙は白く、そこに書かれた線は黒い。言葉は平仮名で、単純な配列なのに、その意味は部屋の空気を変える。
どうやって、の前に、匠は文字を追った。続きがある。
あの日 帰って 気づいたら こっちだった。
からだはないけど 手はあるよ。
目も耳もある。
筆圧もある。
でも スマホはない。
ふっと笑いそうになった。スマホがない、に少しだけ彼女らしさが滲む。現実にありそうな不便の描写は、なぜか安心を連れてくる。匠は首を振って、余計な笑みをこらえる。
「じゃあ、ここにいるのは、桜子の……」
鉛筆が先回りして、
わたし。
と言い切った。短く、強い二文字。匠は喉が渇くのを感じた。鞄からペットボトルを出して一口飲もうとして、手が止まる。この部屋での行動一つひとつが、紙の向こうの彼女にどう見えているのか、急に気になった。
「見えるのか、俺の顔」
鉛筆は、迷ってから、
うん。ちょっと。
光で 輪郭みたいに。
笑うと 分かる。
笑っていたつもりはないのに、頬が少しゆるんでいるのを匠は自覚した。指先に力を入れる。落ち着け。ただの落書き帳。けれど、ただの、ではない。
「じゃあ、声は」
鉛筆の動きが早くなった。
きこえる。
きのうの 小さい声も。
昨日、端に書いたひとこと。見ています。あの安っぽい勇気も、ちゃんと届いていた。胸の奥があたたかくなる。あたたかさの奥に、何か硬いものも沈んでいる。去年、言えなかった言葉の集合体。今からでも間に合うのか。間に合わせるために、何をすればいいのか。
「桜、もうすぐ満開だな」
話題を急に軽くしたのは、恐れからだった。深追いすると壊れそうで。鉛筆は短く返す。
まだ 増やす。
もうちょい いっしょにいて。
「いる」
これは迷わなかった。匠は座り直し、机の上の消しゴムと鉛筆を整える。自分のシャープペンを抜き、ページの端に小さな花びらを描く。少しだけ形が良くなる。昨日よりも、線を信じられた。
鉛筆が、その花びらの輪郭を一筆だけなぞった。なぞっただけで、花びらは風を受けたみたいに軽く見えた。匠は感心半分、悔しさ半分でうなる。違いは、迷いか。迷いの数か。
しばらく、ふたりは黙って描いた。紙の上で、線と線が肩を並べる。その音だけが部屋を満たす。外のグラウンドの掛け声が、遠くのテレビみたいに薄く聞こえる。光の角度がさらに変わり、机の木目の一本一本が少しずつ橙色を帯びていく。
夕日が差し込む頃、窓際から長い影が机を横切った。体育館の陰が伸びる時間。匠は顔を上げる。曇りガラスは変わらない。けれど、影の輪郭がさっきよりも濃い。その陰が、紙の上の言葉の上をゆっくり横切ったときだった。
鉛筆が、ひとりでに転がった。ころり、と短い音。さっきと同じ方向、ページの下の余白へ。そこで止まり、先端が紙にコツンと触れる。触れたまま、しばらく動かない。
匠は息を殺して待つ。五秒、十秒、三十秒。やがて、紙の上に小さな文字が現れた。
もう 今日は おわり。
ひかり が おちるから。
夕日が落ちる。光が落ちる。紙にとって、光は血流みたいなものなのかもしれない。匠はゆっくりうなずいた。
「分かった。また明日」
返事は短く、
うん。
たくみ。
名前で呼ばれて、胸が跳ねる。去年一度も呼ばれなかった音。たくみ、という二つの音が、紙の向こうから確かに届いた。匠はスケッチブックをそっと閉じ、留めゴムをかける。鉛筆を元の位置に置き、椅子を戻した。机の上に手を置いて、深く息を吸い、吐く。
扉を開けると、廊下の空気は少し冷たかった。遠くで誰かが笑っている声。スニーカーの音。世界は変わらない顔で続いている。でも、匠の歩幅は昨日より半歩分だけ大きい。
昇降口で靴を履くとき、ポケットのスマホが震えた。古賀からのメッセージだ。今からコンビニ、寄るか。匠は親指を迷わず動かした。行く、と打つ。送信の音がやけに軽快に聞こえた。
階段を降りる途中、ふと足を止める。今、確認しておきたいことがある。指が勝手にアプリを開いた。検索窓に安堂桜子と打つ。候補に何も出ない。さらに漢字だけ、ひらがなだけ、学校名とセットで。どれも、見つからない。
去年、彼女がフォローしていたアカウントの一覧を記憶の範囲でたどる。そこに彼女はいない。過去の投稿に残っていたはずのいいねの名前も、消えている。全ての道が、ここ以外の場所の桜子から遠ざけられているみたいに、痕跡が薄い。
まるで、存在そのものが、ここに取り残されているように。
画面を見つめたまま、匠は踊り場の窓から外を見た。グラウンドの土は夕日に焼けて赤い。風が吹く。桜の木から、花びらが一斉に舞う。窓の外のその光景が、さっきまで目の前にあった紙の上の桜と重なる。現実と絵の境目が、曖昧に溶ける。
コンビニへ向かう古賀の背中を見つけ、駆け足で追いつく。彼は振り返って指を二本立てた。からあげ棒二本。匠はうなずいて、そのまま肩を並べた。
「なんか良いことあった顔だな」
「まあな」
「まあ、って言葉、良いことのときしか使わないよなお前」
「それは初耳だ」
袋を受け取る。熱い。匠は一本を古賀に押しつけられながら、スマホの画面を思い出す。検索結果の空白。紙の上の濃密な存在。どちらも本当で、どちらも自分の手の中にある。
夜。自分の部屋で、机に向かう。シャープペンの芯を替える。ノートを開く。今日、紙の上で見た線を思い出しながら、枝を描く。花びらを足す。迷いが減る。線の速さが、ほんの少しだけ上がる。自分の手なのに、別の人の手に導かれているような感覚。ページの端に、短く文字を書く。
明日、三時。体育館の陰で、名前を呼ぶ。
書いた文字を見て、ためらいが暑さのようにのぼる。もし、呼んで、返事がなくても。もし、返事があって、手が伸ばせない距離だったら。二つとも怖い。けれど、怖さの奥に、次のページの白さがある。白は、待っている。書かれるのを。
スマホの画面をもう一度開き、SNSの検索履歴を削除する。削除の確認に出てくる小さなダイアログが、馬鹿みたいに現実的で笑える。消しても消えないものと、簡単に消えるもの。世界は両方でできている。
ベッドに入る前、窓を少し開ける。夜風が頬を撫でた。遠くで犬が吠える。街の音は薄く、それでも途切れない。目を閉じると、紙の上で鉛筆が動く音が耳の奥で再生された。キュッ、サラ、トン。音の合間の沈黙が、背景の音楽みたいに心地いい。
眠りに落ちる直前、天井に小さな声が落ちた気がした。
また明日。
その声に、匠はうなずく。明日、三時。体育館の陰。名前を呼ぶ。呼ぶときの自分の声の高さとスピードまで、頭の中でリハーサルしてから、目を閉じる。ページは確かにめくられた。次の白いページの手前で、指先が少しだけ震える。震えごと、進む。進んだ先で、また線を引く。そこに君の筆跡が重なることを、信じている。




