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22.助けて

 私は痛む足を引きずって、ターバル男爵邸へ帰った。


 屋敷に入るが、迎える者は誰もいない。

 薄暗い屋敷内を歩き、人影を探す。


 すると、厨房に執事服を着込んだ中年の男性がいた。

 ひょろっと背の高い優しげな方だ。


 「あぁ、お嬢様、おかえりなさいませ」


 その男性はニコッと笑顔を見せてくれた。

 リィナになって初めて向けられるその笑顔に、じんわりと涙が滲む。


 でも、きっとこの人に話しても信じてもらえない。

 今はとりあえず落ち着くことが大切だ。


 走り続けて帰ってきた私は全身に汗をかいていた。

 頭がベトベトして気持ち悪い。


 私は湯浴みをしようと、その人に尋ねた。


 「あの……湯浴みをしたいのだけれど、侍女はどこにいるかしら?」


 「全員追い出したじゃないですか」


 訝しげな顔でその人は、私を見つめる。


 「え?」


 「今日、お嬢様が戻られる時に残っていたら、承知しない……と仰ったので、私以外は皆」


 「そん、な」


 「湯の準備は私が出来ますが……」


 この人は私が身体を洗ったり、服の脱ぎ着が一人で出来るかを心配しているのだろう。しかし、杏奈の記憶がある私には大したことではなかった。一人で脱ぎ着できる服を選べば大丈夫だ。


 「湯の準備だけしてくれたらいいわ。

 あとは一人で全部出来るから」


 「かしこまりました」


 その人は、恭しく頷いた。その忠実な態度にほっとする。

 執事だもの、流石に立場は弁えているわよね。


 そして、私は気になっていたことを聞いてみた。


 「あの、ターバル男爵は?」


 「……旦那様、ですか?」


 不思議そうにその人は繰り返す。


 「えぇ」


 「いつも通りです」


 「いつも通りって?」


 「外でお食事をしてから、今日は別邸に泊まるそうです」


 「そう……分かったわ」


 「あの、お嬢様。


 人手が足りず、お嬢様の部屋の整理まで手が回りませんでした。だから、今日はーー」


 「わ、私の部屋はどこだったかしら?」


 「……は?

 えーと……では、案内しますね。こちらです」


 そう言って、部屋の前まで連れていく。


 「ありがとう。下がって、湯の準備をお願い」


 「かしこまりました」


 その人が去るのを見届けて、緊張しながら、その扉を開ける。


 「何よ……これ」


 部屋は見るも無惨な状態だった。


 クローゼットの中にあったであろうドレス達は、部屋の床を覆わんばかりに広げられ、それらは全て切られたり、破れたたりしていて着れるような状態のものは一枚もなかった。ベッドにもナイフが突き付けられたような痕があり、枕の中にあったであろう羽毛が散乱している。


 ドレスを踏みながら、部屋の中を進む。ベッドや服だけではなく、家具なども所々壊れている。そして、机の上には一枚の紙が置いてあった。


 『すべて私のもの。すべて私のもの。すべて私のもの…』


 その言葉が紙一面にびっしりと書き連なっている。

 紙を持つ手が震える。


 ……リィナはもう狂ってしまったんだ


 「……全て、彼女のものになる……の?」


 そう言葉に出して、また涙が溢れた。


 ジョシュア様から向けられた侮蔑の目が忘れられない。あの視線をこれから一生受け続けていくのかと思ったら、怖くて、辛くて……


 目の前の割れた鏡に映る私は、確かにあのヒロインのリィナで……。でも、その顔は涙で目が腫れ、顔は汗だらけ、髪の毛は乱れている。とてもじゃないけど、ゲームのヒロインだとは思えなかった。


 倒れるようにして、椅子にもたれかかる。

 もうどうしたら良いのか分からない。

 私は机に突っ伏して、静かに泣いた。


 暫くして、扉がノックされる。


 「お嬢様、湯浴みの準備が出来ました」


 「今、行くわ」


 私はクローゼットとかなんとか着ることが出来そうな下着と寝巻きを探し出し、外へ出る。執事に案内されるがまま、お風呂へ行く。


 「呼ぶまで入ってこないように」


 「かしこまりました。あとで、タオルをお持ちします」


 「分かったわ。下がって」


 湯に浸かりながら、少し落ち着く。


 信じられないけど、リィナと私の中身は入れ替わった。

 きっとまた魔宝具が何かの力だろう。夢魅の耳飾り以外に場所が判明している二つの魔宝具は既に厳重な警備の下、保管していると聞いているから、きっとそれ以外の魔宝具なのだろう。そして、きっとそれはリィナが持っている。それを取り返さないと、どうしようもない。


 しかし同時に、もう二度と元に戻れなかったら……という考えが消えない。そうなったら、私は今まで一緒に生きてきた人たちと決別して、リィナとして生きていくしかないんだ。そもそも生き残れるのかさえ自信がない。


 ……どうしたらいいか分からなかった。


 湯浴みを終え、先程の執事が用意してくれたタオルで身体を拭く。執事が一人だけでも残っていて良かった。そうでなければ、私は路頭に迷うことになっただろう。それに物腰の柔らかな親切な人だった。


 食欲はないが、少しだけ何か食べさせてもらおう。さっき厨房に立っていたから、何かを作ってくれているのかもしれないし。下着を身に付けながら、そんなことを考える。


 次に寝巻きを手に取ろうと手を伸ばすが、持ってきたはずの寝巻きが見当たらない。そして、その代わりと言うようにそこには扇情的なネグリジェが置かれていた。


 一気に全身に鳥肌が立つ。

 コンコンと、浴室の扉がノックされる。


 「お嬢様? 随分と長く入られていますが、大丈夫ですか?」


 先ほどまで優しく響いていたはずの声が、急に恐ろしく感じられる。このネグリジェを先程の執事が触ったと思うと気持ち悪くて、身に付ける気にはなれず、固くタオルを身体に巻き付けた。


 「だ、大丈夫。あの……わ、私の寝巻きは……?」


 「あぁ、あの野暮ったい寝巻きですか? あれは、私の趣味でないので、お嬢様に似合いそうなものに変えておきました。

 だって今日はお嬢様と私の記念すべき初夜でしょう? もう邪魔者はいません。存分に愛し合いましょう」


 恐ろしさに声も出なかった。


 完全に油断していた。公爵令嬢として育ってきた私は、使用人が主人の不利益になるようなことをするはずがないと思い込んでいた……。しかし、ここはリィナが住んでた屋敷……


 頭が真っ白になる。


 「開けますよ? 良いですね?」


 嬉々とした声が聞こえ、ガラッと扉が開かれる。


 下着の上にタオルを巻いただけの私の身体を上から下まで舐め回すように見たその男は、ニヤァ……と笑った。


 「脱がすのが待てないほど、私が欲しかったんですか?

 お嬢様は、随分と待てが出来ないのですね」


 執事は、私に一歩ずつ近づく。


 「い、いや……っ!」


 「何を言ってるんですか? 前々から二人で計画していたじゃないですか? 今朝、お嬢様が皆に出て行くよう仰った時、私はようやく約束の時が来た!と思ったんですよ。何年待ったと思っているんです?

 朝からずっと、その真っ白な柔肌をどう堪能しようか、考えていたんです。そのせいで全く仕事が進まなかったのですから」


 「こっ、来ないで……っ!」


 「何を仰ってるんです? 旦那様を薬漬けにして追い出すほど、私と結ばれたかったんでしょう? ほら、初夜に相応しくセッティングしておきましたので、旦那様の部屋で愛し合いましょう……!!」


 「いやよっ!!」


 腕を捕まれそうになり、その手を振り払うと、バシャっと水が出た。その男は、攻撃されるとは思ってなかったらしく、よろめいた。


 ……そうだ! 魔力!!

 今はリィナの身体だから、水の魔力が使える。


 私はその男に掌を向けた。


 「何のつもりですか?」


 その男は目を吊り上げ、私を見つめる。


 「そ、その場を退きなさい! 退かなければ攻撃するわ!」


 「お嬢様、話が違うじゃ無いですかっ!!」


 「使役!!!」


 「うっ!」


 私の掌からその男の顔に水がかかるが、その威力は弱々しい。


 しかし、足元が水で濡れて、その男は滑って腰を打った。

 その隙を見て、私は走った。


 この屋敷を出なければ……! 襲われる!!


 私はタオル一枚で屋敷内を走った。

 後ろから男が追いかけてくる。


 玄関が見える。私は壁際に掛けてある外套を取って、玄関を出た。夜風が身を切るように冷たかったが、外套を身体に巻き付けるようにギュッとその身を抱き、ひらすらに走った。


 男が……ターバル男爵邸が完全に見えなくなったのを、確認して私は足を止めた。


 肩で息をしながら、外套をより強く握りしめた。

 素足なので、足の裏はもう擦り切れ、血が滲んでいる。


 一歩一歩痛みに耐えながら、外套を目深に被り、歩いた。


 寒くて、痛くて、悲しくて、怖くて……

 このままここで死ぬのかもしれない、と思った。


 どこに……どこに行ったらいいのだろう。


 一瞬ティナなら助けてくれるんじゃーー

 と、頭をよぎるが、ここからティナの家まで歩けば、かなり時間がかかる。その間、酒場も多い路地や、治安の悪い平民街も歩かなければならない。……無事に到着できる可能性はほぼ皆無だろう。


 家には帰れない……

 ソフィアもユーリも遠征中……

 ジョシュア様には信じてもらえなかった……


 ライル様……ライル様なら……!


 中身が入れ替わったなんて馬鹿げた話を信じてくれるはずがないと思うが、もしかしたら分かってくれるかも……と一縷の望みに縋ることしか出来ない。


 私は最後の力を振り絞って、王宮へ向かう。


 「ライル様……助けて」


 私は祈るような気持ちで、一歩一歩足に鞭を打って歩く。


 タオルが落ちないように外套の上から強く自分の体を抱きしめる。誰かにこんな格好で外を歩いていると知られれば、終わりだ。見知らぬ男たちに犯されてしまうかもしれない。


 身体は疲労で鉛のように重い。足は棒のようだし、足の裏は恐ろしくて確認することも出来ない。寒さと痛みで感覚も麻痺してきた。


 夜の学園の前を通り過ぎる。学園から少し歩くと、男子寮も見えてきた。


 男子寮を通り過ぎて、暫く歩けば王宮も見えてくるはず……!

 頑張れ……もう少し……!


 自分に気合を入れたその時、グラっと視界が揺れた。


 ……あ、れ?


 私の身体は限界を迎え、地面に倒れたらしかった。

 ……ここ、まで……か、も。


 そこで私の意識はプツッと切れた。





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