オマケ
ああ、なんて惜しい。
ヴィゼルは風にふわりと揺れた銀の髪が、彼女の頬をくすぐるのを眺めてため息をついた。背にかかるほど長かったうつくしい髪は、日差しで、空の青で、夕日の紅で、ころころと彩りをまといなおす魅力的なものなのに。
無情にも断ち切られ、ほっそりした首筋が露わになっている。
その髪型も似合ってはいるが。そういう問題ではないのだ。
「先生、できました」
生徒に配る資料を整えていた後ろ姿が振り返るまでを、ヴィゼルは黙ったまま見つめていた。
一度は裏切られたと憎んだこともあった。踏みにじられたことで周囲に馬鹿にされたこともあった。けれども、もともと侯爵家の評判はよくない。そこにあやかろうとした自分の愚かさを省み、後に声をかけてくださった男爵家へとしばらく仕えたことで、宮廷魔導師へと推薦された。何がどう転ぶかわからないものである。
臨時で学園講師もすることになり、まさか、一度恨んだ少女と再会することになるとも、思っていなかった。
あのときの、本を抱えた彼女の笑みを、ヴィゼルは一生忘れないと思っている。
「ありがとうございます。休憩にしましょう」
「はい」
さらさらと揺れる髪を払って、フィルフィーアが机の上を片付ける。その間にヴィゼルは湯を沸かし茶の支度を始めた。
* * *
一言で表すと、フィルフィーアという侯爵令嬢は不思議な人だった。
さらさらの銀髪を輝かせ、菫色の瞳を潤ませた愛らしい少女は、この世の終わりだと言わんばかりに魔法を拒否した。試しに、と炎を呼び出したことが恐怖に直結したらしく、くしゃくしゃにした真っ赤な顔で頑なに拒んだのである。
その様子は今なお思い出せるほど鮮明なのに、数年後、すっかり淑女となってヴィゼルの前で頭を下げた。
学園での就学態度は至って真面目。
王太子の婚約者であることを笠に着ることもなく、常にたおやかで威風堂々としている姿は大人びすぎているようにも思えた。あの泣き顔と結びつかず、ならば両親が改心してきちんと躾をしたのかと思えば、相変わらず私腹を肥やすのに忙しい様子なのだからわからない。
聖女と呼ばれる少女絡みでよく揉めていたが、何事も冷静に周りを諌め、王太子や聖女を諭しているようだった。
非はなく、真っ当。よくやっていると思えるのに。
どういうわけか、物事はフィルフィーアにやさしくない。通常なら沈静化するところが何故か悪化する。それでも取り乱すことなく落ちついて対処している彼女の評判は、逆に落ちていくばかりだ。
手を、差し伸べたいのに、ままならなくてヴィゼルは眉を寄せた。
何度か、騒ぐ生徒たちを含め窘めたこともしたが、その度に何故かフィルフィーアがすべて悪いことになってしまった。呪いの類を疑ったが反応はなく、ただただ、彼女が笑みを貼り付けて背筋を伸ばす姿を見ていることしかできない。
水が湧き出るかのように、緑が育つかのように、滑らかに魔力を流して表出させる。
自身の魔力の特性や癖、得手不得手もしっかり自覚した使い手は、授業の課題を静かに、忠実にこなしていた。
傍らにはいつもあの本がある。そこへ書いた基礎のとおりに魔法を操る姿は、素直でいてとてもうつくしかった。
真剣な瞳。成し遂げたときの、ほっとゆるんだ桃色の唇。
もっと先を示したら、あの張り付いた笑みを楽しげなものに綻ばせてくれるだろうか。
けれども、また助けたことが裏目に出て立場を悪くしてしまうことを思うと、動くことができない。打開策も見つからず不甲斐ない自分に嫌気が差すが、時間だけが過ぎてゆき、そうこうしているうちに宮廷での仕事が多くなり学園から足が遠のく日々。
聖女の魔力や国の発展のための魔法陣とやらに精力を傾ける意味とは、と思い続けていたヴィゼルのもとへ恩師であるマーベルから連絡が来たのはこのころだった。
国の違いは歴然としている。
表面上は穏やかに見えるこの国と比べ、隣国は勢いと活気がある印象だ。王家が治め、貴族も庶民もいるが、それぞれが役目を持って生活する。つまるところ、風通しがよい。
それならば、移ることもいいかもしれない。
けれども気がかりは、凛とした後ろ姿。
彼女は立派に王妃を務めるだろう。おそらく苦労は絶えない道のりを、ここに残ることで自分が支えることはできないだろうか。あの本を、彼女はまだ持ってくれているだろうか。
答えを出せずにいたヴィゼルのもとへ、王太子が侯爵令嬢との婚約を破棄したとの知らせが飛び込んだ。
まさか王家があの聖女の手を取るとは思っていなかった。膨大な魔力、そして治癒魔法の使い手だったとしても未来の国王を支えるのはフィルフィーアが適任に思えたからだ。その彼女は、学園を退学となり自宅謹慎になっていると聞く。
これが、この国の現状か。なんと愚かで浅はかな。
国の行く末を案じられない自分に気づいて、ヴィゼルは恩師の誘いに乗ることを決めた。
どうにか、フィルフィーアを呼び寄せることも考えよう。それには恩師の協力が必要かもしれない。未来の王妃から退いたとはいえ、彼女は侯爵令嬢だ。
宮廷へ仕えることを辞すと告げたとき、ヴィゼルを呼び出したのは国王陛下だった。
内心で驚きながら謁見の間へ向かえば、困り顔の陛下と眉を寄せた宰相に迎えられて身構えてしまう。真っ白な髪を混ぜた陛下は、最後の仕事を頼みたいと仰せになる。
病に臥せっている侯爵令嬢の治療をしてほしいとのことで、目を丸くしてしまった。病に? 臥せっている? フィルフィーアお嬢様が? 驚いて言葉をのんだヴィゼルに、陛下はパチンと指を鳴らして光の結晶を弾けさせた。
覚えのある、魔力。
そこから紡がれる涼やかな声と、罵倒する声。
まさか、こんなくだらない理由で、彼女はすべて失ったのか。きちんと状況を把握し、対処し、先を考えていた少女が。
思わず額に手をあててしまったヴィゼルに、陛下は白い眉を下げた。こんな事態に追い込んで今や彼女が臥せってしまっているのならば、せめてもの償いとしてどうにか手を尽くしたいとのことだ。聖女の力は王家としても放っておけず、こうなった以上、フィルフィーアに再度婚約を申し込むわけにもいかない。むしろ息子のわがままに生涯付き合わせるのも気の毒だとこぼされた。
もちろん、ヴィゼルは請け負った。
彼女の気が少しでもやわらぐのなら、本望である。そして理不尽な状況から抜け出す手伝いができるのならそれに越したことはない。
それにもかかわらず。謁見後、その足で書状を携え侯爵家を訪ねたヴィゼルを待っていたのは侯爵からの謝絶であった。不肖の娘を気にかけていただく必要はなく、娘もずいぶんと弱っており、今は少ない残された時間を静かに過ごさせてやりたい、と。
余命いくばくもないのであれば、すぐにでも会わせてほしいと侯爵をじっと見つめて食い下がったものの、相手の意思は揺らぐことはなくお帰りくださいとの言葉を前に、侯爵家を後にするしかなかった。
ヴィゼルは邸を出てから二階を見上げる。フィルフィーアの部屋と思しき窓は分厚いカーテンが引かれて中の気配は窺えず、ため息がこぼれた。腑に落ちない。彼女が学園を去ってから二週間ほどの時間しか経っていないのに、それほど酷い病魔が彼女を襲ったのだろうか。治癒魔法も完璧に身につけているフィルフィーアお嬢様を?
人のいないことを確認してから、ヴィゼルは手のひらに魔力を呼び出す。鳥の形に紡いでからそっと窓へ放った。
一度自宅へ戻って、鳥の目から侯爵家を探ることにした。
すると案の定、しおらしさを装っていた侯爵とその夫人は娘の死を画策していて、自室で監禁状態になっているフィルフィーアの顔色は悪くなく、退屈そうに本を読んだり魔法で外を窺ったりして過ごしているのが見て取れた。
それならば。ヴィゼルは鳥を編みなおして彼女の窓に魔法陣を仕掛ける。あの聡明な彼女のことだ。黙って親の思惑通りにさせることもないはず。それならば、手を貸せるかもしれない。
ずっとずっと、こまねいていた手を。
――真夜中。部屋に舞い降りた銀の光に、ああ、と吐息がこぼれた。
* * *
それからもう、半年が経っている。
約束のひと月などとうに過ぎて、それでもまだフィルフィーアはヴィゼルについて新しい生活に溶け込もうと懸命だ。
恩師のいる学園は快く二人を迎え、今度は教える側として彼女も学園で日々を過ごしている。
明日の授業にむけての資料をそろえて整えると、フィルフィーアはあの本をその横に置いて、広くなった机にカップを置いた。ヴィゼルも自分の分を手にしたまま隣の椅子を引く。あの学園にいたときには、想像もできなかった時間である。
しかし、穏やかなこのときを一変させたのは、硬質なノック音だった。応じると二人の人影が覗く。
「おやおや」
入ってきたのは、フードを被った細身の男だった。
案内してきたらしい陣譜学の教師が一礼して去っていく。不審人物ではないだろうが、ヴィゼルとは初めて会う相手だ。誰何しようとしたが、隣でフィルフィーアが息をのんで腰を上げた。
「報告を受けてまさかと思ったが。――フィルフィーア、久しぶりだな。息災か? おっと、私のことは親しみを込めてラウドと呼んでくれ。かしこまるのも禁止だ」
ぱさりとフードを取ると、銀髪に碧眼の青年は蠱惑的な笑みを浮かべる。襟足の長い三つ編みを揺らした彼は、フィルフィーアが口を開くのを手を上げて遮った。
それに苦笑を浮かべた彼女は、控えめにうなずいて微笑む。
「ラウド様。でしたらわたしのことはフィーアと」
「なるほどな」
ここで通している名を彼女が告げると、ラウドという青年は心得たと口の端を上げる。ヴィゼルが部屋の主と察して視線を向けてきたので、あえて言及はせずどうぞと会釈を返すにとどめた。
彼が空いた椅子にどっかりと腰かけると、フィルフィーアも音を立てずに椅子へと戻る。
頬杖をついたラウドは気だるげにフィルフィーアとヴィゼルを眺め、ゆっくりと口を開いた。だらしなさを感じさせず、優雅に見える仕草だった。
「先日、野暮用で隣国に行ったのだが。土産話は聞きたいか?」
フィルフィーアが驚きに目を見開いた。
それにラウドが言葉を足す。昨日の天気を思い出すかのような軽い口調だ。
「そうたいしたことではない。念のため耳に入れておいても悪くないくらいのものだ」
ニッと笑って、気にするなと手を振る。
そうして楽しげにその先を続けた。
彼は極たまにあの国へ行くことがあるそうだ。そして、王家と謁見する身分であるらしい。訪れたのは先月のこと。すでにクラウディスとアイラも学園を卒業している頃だろう。
「そうだな、見せるほうが早いか。他言無用にな」
パチンと音を立ててから、魔力が凝縮するのを感じる。
目の前に映し出されたのは、見覚えのある謁見の間。どうやら、ラウドの視点らしい。
社交的な笑みのクラウディスと握手を交わし、軽く近況を話しているところへ、賑やかな足音が響いて黒髪の少女が駆け込んでくる。相手は、ラウドに気づくとパッと笑みを浮かべ、そのまま躊躇いもなく口を開いた。
――こんにちは! あなたがお隣の王子様ですか? あたしは愛星っていいます!
無邪気に、弾んだ声。
焦った声を上げたクラウディスが慌てて彼女を自身の後ろへ回したが、きょとんとした顔で戸惑うばかり。
ラウドの国のほうが大国であり栄えている。その国からの来客でかつ王家に所縁ある者相手へ、不躾に話しかけるのは無礼にあたるが、その辺の礼儀作法は誰も彼女に教えることはなかったのだろうか。頭が痛くなったヴィゼルをよそに、場面は進んでいく。
メイドたちに彼女を任せたクラウディスが、ぎこちない表情のままラウドを別室に案内する。
――さきほどの女性は?
――彼女は、私の婚約者だ。
当然尋ねたラウドへ、わずかに言葉を詰まらせたクラウディスは視線を逸らしてそう言った。
何度か瞬いたラウドは逡巡を挟んだあとでさらに口を開く。
――私が知る婚約者殿とは違うようだ。フィルフィーアはどうした。
――病に倒れ、療養している。
――それできみは見舞うわけではなく、関係の解消をしたと。
――侯爵家から正式に辞退の申し出があったからな。
――容態は?
――あまりよくないらしい。父上が治癒師の手配をしたが、それも侯爵家から断られたそうだ。
それは残念だ。と感情をうかがわせない声色で述べたラウドに、クラウディスはそれよりもと晩餐会の流れの話に切り替える。
パッと場面が変わって晩餐会の様子になると、おそらく周りに窘められたアイラは、そのあとはぎこちないながらも礼儀作法に則った言動でクラウディスの横に並んでいた。つつがない様子で流れていく時間を、パチンとラウドの指が遮った。
「なんともまあ、きな臭いと思っていたら自国の学び舎に優秀な教師が増えたと聞いてな。元気そうで安心した」
なに、気まぐれに顔を出してみただけだ。他意はない。などと言って笑うラウドは、そこで満足げに椅子から腰を上げた。
優雅な物腰で席を立つと、ちらりとヴィゼルを見てからフィルフィーアへ視線を戻した。
「私のことは……そうだな。きみが大丈夫だと思う相手であれば、言ってくれて構わない。あと、私の妹が会いたがっていたからそのうち連絡がいったらよろしく頼む」
「かしこまりました」
動じることなくフィルフィーアが請け負う。
それに満足げにうなずいたラウドはすんなりと踵を返して部屋を辞していった。
唐突に賑やかになり、唐突に静けさが戻ってきた。
ばたんと扉が閉まったのを確認してから、ヴィゼルはフィルフィーアを見つめる。
「どちらさまですか」
たずねると、フィルフィーアはくすりと笑って声を潜めた。
「この国の王太子殿下です」
迷うそぶりもなく、小さく小さく耳打ちして、唇の前に指を立ててみせる。子供っぽい仕草のはずが、ずいぶんと上品に見えるから不思議だ。
先生に目をつけているのでしょうね、なんて肩をすくめてみせるのでヴィゼルはなんとも言えない表情でカップに手を伸ばす。すっかり冷めきったそれを傾けながら、ため息を押し殺した。
おそらく、それは半分正しく、半分は不正解。
彼がこの国の世継ぎだというのなら、一目を置いていた彼女の動向は気になって当然だ。かなり頭のキレる王子だと聞いているし、事実、そうなのだろう。彼の個人的な感情は推し量れなかったが、あの国の様子を気にしているフィルフィーアを気遣っているように見えた。
「もし、殿下があなたをお望みになったらどうしますか」
「どうもしません。このまま、わたしはこちらにおります。……もとより、ラウド様はそういうことを仰らないと思いますけれど。あの方は退屈を嫌いますから」
そうとわかるくらいには、関わることがあったのだろう。
極たまにあの国へ行く王子と、隣国の王子の婚約者という立場は。
「あなたがお側にいることで退屈とは無縁になるのでは」
「そうですか? ここでわたしが生徒たちに振り回されているのを見ているほうが、あの方はお喜びになると思いますよ」
なんてことなく、それだけ。
フィルフィーアにとってはこの国の王太子でさえ動じる相手ではないのだろうか。黙っていると、菫色の瞳がこちらを見つめる。
「それに、わたしはヴィゼル先生のおそばにもっとたくさんいたいですから」
ふわりとやわらかく微笑んで、銀の髪が躍った。
言葉が、出てこなくて目を見開いたヴィゼルに、頬を染めたフィルフィーアが慌てて視線をそらした。机の上にあった古い本を抱えて席を立つ。
「で、では、そろそろわたしは養護室に行きますので」
治癒師としても腕を振るっている彼女は、ヴィゼルの補助と養護室の業務とを兼務している。この学園には同年代の治癒師がもう一人いて、仲良くやっているようだ。学園生活では見かけることのできなかったその楽しげな様子は、ヴィゼルにとって心和むものである。
焦ったように出ていく背中に、ヴィゼルも思わず笑みを浮かべてしまった。
「でしたら、また後ほど。おそらく、私のほうがあなた以上にそう思っていますよ」
絶句したフィルフィーアは。
真っ赤な顔で固まってから、本で顔を隠して駆けていく。そんな姿は、ここに来なければ見ることのできないものだった。
少しはよい方向を示すことができていたらいい。ようやく差し出せた手を、取ってくれたのだから。それを今更、離すつもりはない。