八十八話「恵の過去」
恵が叩かれた。
恵が、憎まれていた。
恵が燃えていた。
恵が嘲笑われていた。目の前でだ。
恵が憎しみをたぎらせた。
恵が、闇に出会った。
恵が、闇に理解してもらえた。
僕が見た幻影は、ずっと後に振返ってもやはり強烈すぎた。
その光景が突然脳裏に蘇るたび、叫びたくなる。
あの時の、狼みたいな叫び。
僕は叫んだ。どよめいた。恵は、今や正義の味方だった。
恵が、力を手に入れた。
恵が、世界融合を知った。
恵が、全てを支配した。
恵が、米倉清助を消した。
恵が、テオドールをはめた。
恵が、僕を赦した。
僕は、悲しんだ。
僕は、怒った。
僕は、壊したくなった。
「こんなの……人間がやっていいことじゃない」
僕は、壊すべきものを探した。
僕は、振向いた。
僕は、マギアを見つけた。
「どうしたの……翔吾?」
魔王が、あの時の少女になった。
僕は、正気を失っていた。
「や、やめて」
少女は命乞した。
僕は、歩いた。
少女は、おびえた。
僕は、許さなかった。
僕は、魔術をかけようと、した。
僕は驚いた。
「僕は――……」
僕は、恵を憎んだ。
恵を憎む僕を、僕は疑った。
僕は、僕を憎んだ。
僕は、僕が僕を憎むのを知った。
僕は、僕を憎む僕にあきれた。
僕は、あきらめた。僕はまたもや憎もうとした。
しかし、僕は、絶望した。僕は、もう元には戻れない。
僕は、悲しんだ。
僕は、あきらめた。僕は、あきらめた。僕は、あきらめた。僕は、あきらめた僕を視た。僕はそれを僕だと自覚した。僕は、それに従うことにした。
まだ不満は、くすぶっていた。
「僕は!!」
気づくと、僕はもう膜の向側にいた。この時ばかりは、自分が何を経験したのか、すっかり記憶になかった。
「翔吾、貴様らしくないな……失評なう所じゃったぞ」
魔王の苦笑。
「僕は……今、何をした?」 僕は、まだ衝撃から立直れなかった。けど魔王にこの上なく罪深いことをしてしまった、というのは理解できた。
「お主、よく言えないようじゃな。だが分かるぞ。貴様、恵の姿を思出したな?」
魔王の顔は、すぐに明るく、元気な色に戻っている。だからこそ、一陣の恐怖の風が忍寄る。
僕は、この子の命さえ失ってしまうかもしれない。
「恵は……何をしておった? 笑っておったか?」
魔王の言葉は、容赦ない。
「ごめん……何も」
今は、答えたくなんかない。
「ならば、恵は貴様を信じておる! さあ、行くぞ」
末永く続く螺旋階段。僕たち二人以外は、何も聞こえない。見えない。
こんな空間に今まで足を運んだ経験はないな。まるで南極の地面みたいに白く、冷たい空気が充満する殺風景な円筒。
僕は、自分の心が化物に支配されつつあるような錯覚を覚えた。恵みを止めるためには、化物にならなくちゃいけないという危機感が奥底に流れているのだろう。しばらくして階段が止み、幅の広いトンネルに行きついた。
壁には小さな灯が、頼りげなくともっている。この明るさからして、外の光を吸いこんで内側を照らしていると考えて間違はないはずだ。恵も相当な魔術を駆使できるのかもしれない。
だが、なら誰が伝授したんだ?
しかし、収拾のない空想も、予想外の展開で締切られた。
途中で、一人、背の高い老人と蜂合せに。
小さな目に、獣みたいな瞳がぎらぎらしている。まるで感情のない、冷酷そのものの目つきだった。以前出会った時なら、これほど非人間的な視線はまとってなかったはずだ。そう、こいつは――
「ロデリック……」
異口同音につぶやく二人。
ロデリックは、あの時と全く同じ衣装を着ていた。この気迫も同じものだ。けれどロデリックは、僕らの姿を視線に収め、一言も発しない。表情すら、鉄みたいに凝結して。
「マギア、頼む」
僕は魔王の拳を握った。その直後、老魔術師は手を振払い火球を放出した。驚くほど遅い動きだった。
何倍も感覚が鋭敏になり、時間の流れも急激に精密になったのだ。
僕は呪文を唱えて、もう片方の手から電撃を放った。隣で、マギアの腹が緑色に輝いた。
電撃は、ロデリックを覆う幕を撃ちすえる。さすがに、この程度の攻撃では敵を無力化できない。
さらに僕はマギアをつかむ手を固くにぎり、今度は衝撃波の魔術を発動した。
物ともせず、ロデリックは依然としてそこに屹立していた。心なしか、まるで鍛上げられた戦士の威厳を備えていた。
「破壊の波よ、顕現せよ」
唱えるロデリックの行動を、もはやどうにもできずに無様に受止めようとしていたその時、僕はマギアの腕を再びつかむ。
向側、虚空の一点から、水の粒子が爆発して四散した。
狭い通路を圧迫して、僕ら二人を追いこんだ。直感的に逃げようと、足が揺れた時、マギアが僕を地面に打倒し、何やらわめいた。わめいたとしか僕には聞こえなかったが、それは呪文の高速詠唱に他ならなかった。
まさしく、このときマギアは魔王だった。
ロデリックは壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
魔王が意識を取戻した時、目は上下に見開かれた。
「翔吾……貴様がやったのか?」
ロデリックの体を見て、さらに青ざめた口調。
「いや、お前のおかげだよ」
マギアの動揺は斜ではない。
「わ、我輩の……?」
僕は、瞬時に頭の中をフルに回転させて原因を探ろうとした。
そして見えてきたもの……咲との競走の時、一瞬でゴールまでたどり着いたあの時。
マギアの体がうっすらと光っていた。その時は単なる見間違いかと思っていた。しかし、それは理由のあることだったのだ。何と、うれしくないことだろう。
「なるほど、そういうことか」
そうなると推測はつく。
「本物のマギアは……自分の意識がなくても、緊急時に対処できるように魔術を発動する人格を自分の心に組み込んだんだ。きっとそれがお前の体にも受継がれたんだよ」
「我輩が、そんな……」
偽マギアは、がたりと肩を下した。
「我輩が、そんな得体の奴だと? あの人が、我輩に変な力を植付けたのか?」
誰だってそうだろう。ただ単に同じような姿になれたのならともかく、あのマギア・ユスティシアの力が宿っていることに――まして彼女の発明した世界――嫌悪感を抱かない人間が少しでもいないはずはない。
「嫌だよ。そんなの。魔王様がそんなことを……我輩に……」
マギアがやったことは仕方がない。やはり許されることとは思えないが。
「だからそいつの罪を僕らが滅ぼすんだ! マギア・ユスティシアは許されない罪を犯した。でも彼女はもういない。だから僕らが、あの人のせいで起きようとしていることを止めるんだよ!」
壁に投げ捨てられた石像。
……マギアが、倒したのか。ロデリックは最初から僕らに対して殺意を持っていた。だから、僕らも彼と同じくらいの力で抵抗しようとしたのか。いずれにしろ、僕らが戦っていたという事実の単純な帰結に過ぎない。ロデリックはもはや動かず、息の声もない。
「すまぬ。我輩が弱気を見せたせいで貴様に怖れを抱かせ――」
ところがすぐさま考えを訂し、堂々たる得たり面、
「いや、貴様に礼は言わん。いずれ我輩は恵に会って奴を止めなければならんのだ。いずれその後に感謝するかどうか決めよう」
この罪をマギアに理解させる必要はない。今まで僕が犯した罪の方がずっと大きいに決まってるんだから。
正当防衛だ。そう判断してからはもう悩まされることなんてなかった。
「でも……つくづく運がいいな。ここまで生きて昇れたなんて」
「うむ。だがアレクサンデルが言ったように、人間を越えた何かが待構えている可能性もある」
「そいつが、恵と関係あるんだよ」
ほとんど、判断を伴わない発言だった。
「……詳しく申して見せよ」 追求する必要を感じるマギア。
「さっき見た奴も、どうもそれに関係のある奴だったんだ……」
「恐いな。恵がそれを察知してこの壁を狭めるとも限らん」
僕らは、いつの間にかよもやま話にうちとけていた。これも恵の仕向なのかもしれない。
「この塔そのものが、恵によって操られてるってわけか」
「うむ。この期に及んでおよそありえない出来事など、ないのだからな」
心なしか、マギアの顔はしゅんとして、ずっと大人びて見えた。
僕は再びマギアの手をつかむ。ますます、握る力が強くなる錯覚を覚えた。
「さあ、行こう。何とかして恵を説得しなきゃいけないんだ」
直後、息せき切ったように壁が四方から押寄せてきて、僕らをつぶそうとした。




