八十九話「真打登場! 降臨する死の天使」
マギアの足元から光輝く幾何学模様が、篆書風に曲りくねって刻まれていく。
そこからほとばしる光線一つ一つが壁にぶつかり、押しとどめようとする。
「突っ走るぞ!!」
僕はマギアの手をつかんだまま、向こう側へなんて遠いんだ、と舌打しながら。
ほとんど気も遠くなりそうな疲労を何とかこらえ、マギアの足元、光の模様が地面と天井に楔を撃ちこむのも無視して、僕はその時闇を見上げた。
星々の耿耿とともる壁。四角形の切り立った床。久根野市、いや、地球全体が見渡せるほどの高さに、その床は位置していた。
青空の向こうに、大陸とか島とか海とかが見えた。それは、僕たちが全く聴いたことも見たこともない姿をしていた。
異様な光の数々は、もはやほとんど姿を消していた。二つの世界がこうして融合――いや衝突を迎える今際、もはやその干渉が起きる必要すらない。
僕は、ずっと遥かな先に車椅子に座る少女の姿を見た。
はやる気持を抑えながら、決して焦ることなく、ゆっくりと歩いた。マギアは、もう後ろで何事も発せず、黙って僕の後。
希望を捨てちゃいけない。話せば――きっと分かってくれる。
「来たか、中村翔吾」
勝山恵の声からは一切の優しさが消えていた。
もう僕を、人としては見ていなかった。まるで蛆か豚でも見るような目つきだ。
「僕はこの目で視たんだよ。お前が、どんなに目に遭って、どんなに苦しんできたか」
「へえ」
面白くないと断言する相づち。いや、さしたる感情すら抱いてはなさそうだった。
「僕は最初から気づくべきだったんだ。君の悩みに。君の怒に。でも僕は君のことをちっとも分かってなかった。その言分に耳を貸そうともしなかった。だからこんな結末に……」
過去に対する悔恨で、頭がいき過ぎる。
僕は今まで、自分を守るためだけに行動してきた。あらゆる勇気だって、結局は自分の見えを張るためだけに闘ってきた。
でも今は違う。今、僕は人類の代表としてここに立っている。
全ての人間の意思を受けて、ここに立っている。
「僕は罪を犯した。全部僕の罪なんだ。これ以上誰も憎んでくれるな。憎むのは僕だけでいい……だから、僕を壊してくれ!」
「翔吾!!」
「消えなさい」
見えない衝撃波。
僕は思いきりみぞおちを突かれ、吐血した。
片目をつむった時と同じくらい、向こうの世界は瞳の中に飛込んで見えた。
のどが血で満ちて、窒息しそうになる。
「あなたに何が分かる? 何も分からない」
恵は冷たい声で言放ち、再び僕を遠くまで弾いた。
多分骨が折れたかもしれない、激痛。けど、そんなことに関心向けてる場合じゃない。
「私は二つの世界を融合させて滅亡させる。そして私一人で永遠に生きるのよ。邪魔者なんて誰もいない、完全な世界で!」
外聞も何もかも捨てて、叫び散らしたくなった。
私一人で永遠に生きる? 完全な世界……? そんなことのために、恵はこんな所業を犯してきたってのか? 恵は、そんな奴だったのか?
こんな血も涙もない野郎に恵は落ちぶれてしまったのか。マギアと恵に会って、僕は初めて信頼できる人間を見つけたような気がしたのだ。
怒りはけれど、言葉を出すときにはほとんど消え失せていた。
「分かる気がするんだよ」
そんなの、ただの虚勢でしかない。無論、僕に恵の真意なんて見抜けるわけもない。
片膝を突き、それから何とか起立がる。
でも、それじゃ悲しすぎるから。恵が、まだ何か隠しているはずだと、信じたかったから。相手に対する用心なんてない。
「今まで、僕を殺そうと思えば殺せたはずだ。何しろ僕がここまで来るのにいくらでも機会はあったんだから」
恵の眉毛が、ぴくりと動いた気がした。
「なぜ、こんな時に至るまで延期していた? 僕に死んでほしくなかったから?」
「黙れ」
恵は、初めて顔が引きつった。
僕は黙らず続けて、
「本当は……誰かにおどされてるんじゃないのか? 本当は、世界を滅ぼしたくなくなんかないだろ?」
冷静さから、いつの間に息を荒くしている。
腕がつるのも構わずに、恵の顔を指さす。
「だ……黙れ黙れ黙れ、黙れ!!」
恵は、頭をかきむしった。
恵の中で、明らかに何かが起きつつあった。
「僕はただ、素直に気持ちを聴きたいだけなんだ! もうこれ以上自分に嘘はつきたくない!! 僕はこれ以上誰も悲しませたくない! 傷つきたくない! 恵に、同じ目には遭ってほしくなんてない!!」
「ヤメロ! 奴ノ戯言ニ耳ヲ貸スナ!!」
人間の声じゃなかった。金属と水を打鳴らしたような、宗教的な響が空間に降りてきた。
「貴様ニハ世界ヲ融合シテモラナワナクテハナ! 希望ヲモッテハナラン!!」
恵の背後に、黒い煙が沸騰する。
「サマエル! 私は、この子を生かしておいて欲しいの!」
知らない名前を叫び、恵は懇願。
「やっぱり……私は、一人で生きていたくなんてない!! だってそんな世界、私には怖すぎる……!」
もう充血した目で、どこかを見上げている。
その視線は僕らの想像を越えた何かに向けられている。
「貴様ハコノ世界ヲ滅ボシ、自分一人デ生キテイクトイウ約束デ私ノ誘イニ乗ッタハズダ! 今更ソレヲ裏切ルトイウノカ!!!」
煙はますます大きさを増して、異形のテオドールすら凌駕。あまりに高い位置で止まり、瞬時に砕散る。
そして、『何か』が現れた。
星の壁をすっかり覆隠し、藍色のベールをまとって、雪より白い顔で僕らを見下ろした。これまでの物が優しく見える完全な悪意。
「貴様ハ二心ヲ持ッテイタトカ? アノ小僧ヲ手玉ニ取ッテイタハズダ取ラレテイタトカ? 貴様は……ソンナ風ニ、天使ヲ手玉ニ取ロウトシタノカ……」
サマエルの声は、文字通り、怒だった。人を越えた、天使の激情は、僕をまるで道理の分からないガキにしてしまった。
マギアすら、恐怖に我を忘れ嗚咽する。
「違う! サマエル、私は、こんな世界を憎んでた。でも、人間すべてを憎むわけになんていかない!! 私だって……全てを憎むことなんてできるわけがない……!」
「小娘、我々ヲ侮ルナ……!」
「誰、誰なんですか……?」 その声が僕だったのかあるいはマギアが言ったのかすら、鮮明じゃない。
「私ハ全テヲ憎ム。私ハスベテヲ貪ル」
実に王者らしい威厳すら交え、僕たちを見下ろした。その瞳を、一度も正視したことはない。
あれは人間が観るべきものじゃなかった。天使。神にも近い存在。
僕は、あのような経験を三度としない。
「翔吾!!」 恵が、単に不安を覚えたからなのか、本当にためらったのかは分からない。
真相を究めるには、永遠に謎だ。
「小娘、ホザクナ!!」
サマエルは振向いて、憤怒の形相を浮かべる。僕は、天地の崩壊を直感した。
けど、神的存在への畏怖は途絶えた。
恵が、血を噴いて車椅子から蹴飛ばされた。
その時、僕たち二人の間で何かが壊れた。天使? それがどうした。あいつは、恵に手を出した。
「この……馬鹿やろおおおおおおおおお」
気弱な人間である僕でさえ、性格などには構っていられなかった。




