九十話「決死の覚醒」
マギアが僕に抱きついた。
すると僕の体の中に膨大な力が押寄せてきた。そのあまりの量に腹まわりが痙攣して、吐気をもよおす。
意識が朦朧とする。もはや、この血からは僕の手には負えなかった。本当に、人間を越えつつあるのかもしれない。
「中村翔吾……あなたは今、世界の存亡を左右している」
誰かの声だ。
その姿は、マギアではない。だが銀髪で、碧い眼をしていて、背丈は高く、凛とした顔。そう、この人間こそ。
「マギア・ユスティシア……様」
本物の魔王。これは、偽物の中に残っている残滓なんかじゃない。
「私は罪を犯した。私自身が罪を贖うことはできない……だから、お願いするわ」
今までも僕は魔王の生前の姿を見てきた。
その魔王は全てマギアの体内に残っていたデータめいたものに過ぎなかった。けれど、この魔王は、本物の人格を持った存在だ。
「あの子を救ってあげて。そして、あの天使の思惑を止めてほしいの」
「分かりました」 僕は、自分が負った使命の重さに、何も言えなかった。
「今……私には何もできないけれど……祈ることはできる」
もう、口が動こうとしない。
魔王がその言葉を言い終わると、一瞬でこの空間は蒸発し、あの忌まわしい天使が僕の前に現れた。
こいつを絶対に……始末しなきゃいけない。すると天使は僕にとってもう何者でもなかった。
僕はサマエルに対して凄まじい限りの電撃を放った。
サマエルがひるむと、さらに僕は跳躍して腹に体当をしかける。
衝撃とか重量は全く感じなかった。身軽で、しかも頑丈な身体が宿ったらしい。
「ナゼ……人間ガコノヨウナ力ヲ……!!」
身をふりしぼり、突如鋼鉄の壁を吹飛ばしてきた。
それが翼だと分かったのは、僕が無意識にそのへりをつかみ、わずかながら一部をちぎったからだ。
しかしそれだけでもサマエルの矜持を砕くに十分だった。
天使は真上から拳を叩きこんだ。しかし、瞬時に避けた。もはや僕には速度のことなんて問題にならない。だが天使相手にどこまで感情が通じるのか。
怒の中に、恐怖が混じる。しかしそれも数秒間。
見知った青と赤の少女が噴水みたいに飛んできた。
「イグニス! アクエリア!!」
精霊は無言で僕の体の中に納まる。もはや僕は破壊の権化だ。
水の槍でサマエルの体を貫く。炎で床を焼払う。
「とどめだ!」
サマエルの顎にパンチを食らわせ、ひるませた。水の刃で胸を袈裟斬にした。
ますます体に力がたまってきた。
勇気よりは、怒りと憎しみこそがその原動力だった。
怖ろしくなる位、みなぎってくる。
今こそ、とどめをささなくてはならない。それこそ、小さな欠片に分割しつくさなきゃいけない程に。
すでに黒い衣から白い傷が輝き、煙が立上っている。
さすがに、それなりの攻撃は与えたはずだ。しばらくは再起れないはず――
サマエルの体が一瞬で癒えた。
あの渾身の一撃が嘘、みたいに。
「なっ……」
「天使ハ人間相手ニ不滅ダ。何ヲ誇ッテイル?」
反射的に僕は魔術に力をこめようとした。それがもう、発揮できない。それどころか僕は完全に疲弊して、
異世界が、さっきよりずっと近くに見える。いや……もう、その時が来てしまったのだ。
「貴様ノアリアマル力ハ我々ニトッテ不要ナモノダ。貴様ノ精力ハスデニ私ガ吸収シタ。残念だが、ここで貴様らの物語も終わる」
サマエルの声は、人間がようやく聞獲れるほどの鈍く重い叫びだった。
「人間ガ天使ニ歯迎エルトデモ思ウカ? 何ヲ愚カナ……!」
恵が慟哭する。
「やめて、やめて、やめ……」
「私ハコノ二ツノ世界ヲ衝突サセ、ソコカラ得タ膨大ナ力デ全てヲ破壊シテヤルノダ!」
何万匹ものハエの鳴る、異様な音がこだまして耳をつんざく。
二つの世界の距離がどんどん縮む。この世界の層と向こうの世界の層が火花を散らし、重なっていこうとする。
そのまま衝突するのか、それとも完全に重なりあってから融合するのか――それを想像させる余裕さえ与えなかった。
人は、どこまでも無力だったんだ。僕すら天使にはあらがえなかった。
「オ前タチニハココデ死ンデモラウシカナイノダ。ソシテ世界ハ私ノモノニナル!!」
サマエルは両腕を高くかかげ、勝誇る。ぎちぎちと空が響き、境目が悲鳴で踊り狂う。なぜか通りすがる安心感。
絶望した。絶望した? せいぜい死ぬ程度じゃないか。
その死というたやすく訪れる出来事になんの絶望する必要があるってんだ? マギアも、恵も、今の僕には赤の他人だった。世界の滅亡に、僕は一人で向かい合っていたのだ。
世界では実際、異常な出来事が起きていた。
吉田たちによれば、あの日の午後はかなり異常な天気だったらしい。何しろ、気づいたら地球によく似た地形が空に描かれたのだから。まして、空から理解のできない雑音が降ってきたのだからますます異様さを増幅させた。巷では「終末の音」などとかっこよく呼んでいる。
写真に撮ったりsnsで公開する人間が跡を絶たなかったそうな。彼らの能天気さにあきれるしかなかった。そもそもあの事態について知っている人間がごく限られているのだから当然だ。
日本の小さな町で起きた出来事が世界を危機にさらすなんて信じられないだろう。けど、それは間違なく何億人もの生命を左右する出来事だったのだ。今では、世の中にはそういう事の方が多いのだと断言できる。
無論、この事件はどの歴史書にも記されることは恐らく……ない。
世界は一度終わりを迎えた。
自分の死を覚悟して、安らかな境地にひたっていると、僕は、またもや宗教的な響に揺さぶられた。
「サマエルよ、あなたの暴虐もそこまでです」
今度は、白い靄が柱みたいに伸びて、空からサマエルごと僕らを見下ろしていた。
「何ダ……オ前ラハ!?」
僕はその言葉のわずかも聴きとることができなかった。いや、聴取れたらむしろ怖ろしいことだ。それは、神により近い天使の言葉を、人間が聞くなど、言葉だけでも畏多いのに、まして理解できるのなら。
「……天使会議によってあなたを連行します……」
間違いなく、天使たちは僕たちの存在を微塵も感知してはいなかった。彼らにとっては、何か大きな存在――なんて言葉で言い表せばいいか予想もつかないが――の命令に従って、この反逆の天使を捕縛することだけが頭の中にあるんだ。
「オ前タチニトッテハ些細ナ問題ノハズダ!」 サマエルは空を仰ぎ、叫ぶ。
「我々ハ神カラ生マレタ! 神カラ生マレタ天使ガ人間ヲタブラカシテ、何ガ悪イ!!」
サマエルの声があまりに人間に近いのに比べれば、天使たちはまるで歌のように美しく語りかけた。
つまり僕たちも、サマエルと同じで、醜い心の持主か、あるいはそういう風になってしまうのだろう。
「……神の裁定に全てを委ねます……」
サマエルはあがいた。この時ばかり、渾沌とした心にわずかながらサマエルへの同情が芽生えた。
だがそんなものすぐさま掻消えた。僕はもはやただ恍惚とした気持で連去られるサマエルを眺めていた。
「私は……」 つぶやこうとする堕天使。
光の柱としてきらめく天使たちが、サマエルと共に天を昇った。ほとんど、身をよじらせないままに。
いつの間に、向こう側の世界は遠のいて。
気づいたら、あの雑音はもはやどこにもなかった。
「翔吾……くん」
「め、恵!!」
僕は慌てて恵の方にかけつけた。大丈夫か、どうか。
大丈夫じゃなかった。恵は、吐血していた。
唇を赤く染めながら、その目つきは笑っていた。理由が、わからない。
「待てよ! まだ君は、こんな所でくたばる人間じゃない!!」
僕は、もっと生きてほしかった。僕の命を犠牲にしてでも、全うな人生を送って欲しかった。
けど、こんなことを言うのだ。
「どうして泣いているの……? 翔吾くんを好きな人は、ほら、そこに……」
恵は、これ以上生きるのを拒否した。なぜ? まだ十分命があるじゃないか? まだ生きていられるじゃないか? それなのに、ここで命が終わるみたいな決意で挫折れるんじゃない。
腕をだらりと後ろに伸ばす。
「恵! 死ぬな!!」 魔王も恵の腕にすがる。
か細い声でしか、勇気づけてやれなかった。
恵の声もまた、あまりに弱弱しくて。
「みんな……ありがとう」
恵は、それっきり何も言うことはなかった。ただ大きく唇をたわめたままで。
僕は、何も言えないまま、慟哭した。