雪道
最後に覚えているのは、ブレーキの音だった。
甲高い音が耳を裂き、視界が横に流れた。
何が起きたのか理解するより先に、身体が浮いた。
その後のことは、覚えていない。
*
寒い。
それが最初の感覚だった。
次に、揺れている。
規則的ではない。左右に大きく揺さぶられ、そのたびに背中が硬いものに当たる。
目を開ける。
見知らぬ天井があった。えらく低く、狭い。
木だ。古い木材を組み合わせた天井。鼻を刺すのは、乾いた木と獣脂のような臭い。
「……」
何が起きている。
身体を起こそうとして、やめた。頭の奥がひどく痛い。
そのとき、向かいから声がした。
「アルヴァン様?」
顔を上げる。
白髪の混じった男がこちらを見ている。五十代半ばほどだろうか。
見覚えがある。
――いや。
見覚えがある、気がする。
「お加減はいかがです?」
「……大丈夫だ」
ここは?と続けようとして、その言葉が出る前に、自分でも驚いた。
声が違う。若い。
男は安堵したように息を吐いた。
「それならよろしゅうございます。昨夜から熱に浮かされ、ずっと眠っておられましたので」
「昨夜……」
「はい。王都を発ってからも、少しお顔色が優れませんでした」
王都。
その言葉に、頭の奥で何かがつながった。
アルヴァン・レイス。
二十二歳。
レイス子爵家の嫡男。
半年前に父を亡くし、王都での手続きを終え、領地へ帰る途中。
目の前の男はガルド・ヴェルナー。
先代からレイス家に仕える代官。
知っている。
知っているはずなのに、実際に顔を合わせた記憶が妙に遠い。
アルヴァンはしばらく黙った。ガルドが不思議そうにこちらを見る。
「……何か?」
「いや」
ガルドは言葉を選ぶようにして告げた。
「アルヴァン様、先代様の急逝で大変かとは存じますが、これまで通り、行政の取りまとめは私が行います。ただし、最終的な決裁はアルヴァン様にお願いすることになります」
「分かった。俺はまだ領地のことを知らない。しばらくは任せる」
答えてから、窓へ目を向ける。外は雪だった。
白い大地。枯れた木々。遠くに山。日本ではまず見ない風景だ。
だが、それよりも気になるものがあった。
荷馬車が横を通り過ぎていく。その荷台には木箱が積まれていた。
箱の隙間から、青白い光が漏れている。
「……あれは?」
「魔石です」
「魔石……」
「今さら何をお尋ねになるのです」
ガルドが僅かに眉を動かした。
もう一度その馬車に目をやる。
ゆっくりと遠ざかっていく馬車の後ろ姿を見つめていると、一瞬、馬が顔を逸らすのが見えた。遠目に見る馬の顔は、自分が知っているものとは違って見えた。
そこでようやく、理解した。
ここは、自分が知っている世界ではない。
そして、自分はこの世界の人間として生きていたらしい。
頭の中にある記憶は断片的だった。
父の顔。王都の屋敷。幼い頃に遊んだ庭。領地へ向かう途中に立ち寄った宿。ガルドとの会話。
それらは確かに自分の記憶のように思える。
だが、その一方で、アルヴァンという人間を、もう一人の自分が外から見ているような感覚もあった。
それでも。
これからはアルヴァンとして生きていくことを、違和感なく自然に受け止めていた。
何故こうなったのか。
考えても仕方がない。今はそう判断した。
「あとどれくらいだ?」
「半日ほどでしょう。夕刻までには領都へ入れるかと」
「そうか」
アルヴァンは再び外を見る。
しばらくして、集落が見えてきた。
雪の残る畑。低い木造家屋。煙の薄い煙突。鐘楼兼避難蔵。粗末な柵。
そして、集落の外れに小さな礼拝堂が建っている。
「ラーデ村です」
「ここで休むのか?」
「一度、村長に挨拶をしていく予定です」
「なら寄ってくれ」
ガルドが御者に声をかけた。
*
ラーデ村は三百人ほどの小さな村だった。
村長は四十代後半の男で、アルヴァンを見るなり何度も頭を下げた。
「このような辺鄙な村までお越しいただき、ありがとうございます」
「構わない」
アルヴァンは村を見回した。
畑は広くない。
家畜小屋がいくつかある。
近くに井戸もある。
燻したハムの匂いと、豚小屋の臭いが混ざっていた。
どうにも陰気な雰囲気だ。
落ち着いていると言えば聞こえは良いが、活気のようなものは感じなかった。
「……どうにも元気がないな。この村では怪我人や病人の治療は?」
不躾であったが、感じたことをそのまま口にした。
「教会から治癒術師様が月に一度来てくださいます」
村長は小さな礼拝所に目線をやった。
「月に一度?」
「はい」
「怪我人や病人が出たら?」
「軽いものなら薬草で。ひどければ領都へ連れていきます」
「冬でも?」
「……冬でも、です」
村長は当然のことを話すように答えた。
アルヴァンは少しだけ眉を寄せた。
「村長」
「何でしょう」
「去年、大きな怪我や病気をした者は?」
村長は少し考えた。
「魔物に襲われて怪我したものが数人おりましたが。他には腹下しと、冬に熱病が流行りまして。何人か亡くなりました」
「腹下しと熱病?それは何人だ?」
「……十五人、だったかと」
「十五人?……この村の二十分の一じゃないか」
ガルドが横から口を挟んだ。
「村長。正確なところは?」
「役場への報告ならございます」
「見せてもらえるか?」
村長が少し驚いた顔をする。
「もちろんでございます。ただ、たいしたものでは……」
「それでいい」
村長が家へ戻っていく。
アルヴァンはその間、村を見た。
不思議なことに、特別貧しい村には見えない。
畑もある。家畜もいる。井戸もある。冬を越すための薪も積まれている。
なのに。
子供が少ない。それが妙に気になった。
「アルヴァン様」
ガルドが声をかける。
「何だ?」
「何かお気づきになりましたか?」
「まだ分からない」
本当に分からない。この世界の常識すら知らないのだから。
ただ、何かが噛み合っていない。
豊かな村ではない。だが、飢えているようにも見えない。
それなのに、子供が少ない。
しばらくして村長が戻ってきた。古びた帳簿を抱えている。
「こちらが昨年の記録です」
アルヴァンは受け取った。
ページをめくる。
農作物。
家畜。
税。
出生。
死亡。
細かな数字が並んでいる。
アルヴァンの指が、一つの欄で止まった。
「……ちょっと待ってくれ」
「はい?」
もう一度見る。
そして、前年の記録を見る。さらにその前年。
同じような数字が並んでいる。
偶然ではない。
だとすれば――。
「ガルド」
「はい」
「領地全体の記録は、どこにある?」
ガルドはしばらく主人の顔を見た。
その表情に、ほんの僅かな警戒が浮かんだ。
「領都の役所にございます」
「戻ったら、全部見せてくれ」
「……承知しました」
アルヴァンは再び帳簿へ目を落とした。
まだ何が起きているのか分からない。
ただ一つだけ。
この村を見ていると、どうしても前世の病院を思い出す。
一人の患者を見ているだけでは、何も分からなかった。
患者が何人いて。
いつ発症し。
どこに住んでいて。
何を食べ。
何を飲んでいたのか。
そこまで見て、初めて見えてくるものがある。
アルヴァンは帳簿を閉じた。
「……何かある」
誰に聞かせるでもなく呟く。
村の向こうで、雪が静かに降り始めていた。




