1 泡沫の年月
始まりは、小学校時代の丁度、梅雨の時期だった。
知らない町会の子供たちに絡まれて、細い腕を掴まれて裏路地に引きずり込まれそうになっていた僕を、高山 真帆路はぶっきらぼうに助けてくれた。殴り合いの喧嘩をして、傷だらけになった顔で「大丈夫か?」と笑いかけてくれたのだ。
あの時の雨の匂いと、真帆路の笑顔。
それが僕(水瀬 蒼)の何年間かに及ぶ終わりのない「呪い」の始まりだった。
「……まーた、持ってきたのかよ。……お前、本当にキモいヤローだな」
高校二年生になった春。晴れ渡った校庭の片隅で、真帆路の冷え切った声が鼓膜を刺した。
僕、水瀬 蒼は、自分の細くて白い手が、微かに震えるのを必死に抑えていた。華奢な長身を小さく縮めるようにして、真帆路に渡したのは、この何年間か何度も試作を重ねて焼いたクッキーの袋だ。
真帆路に少しでも喜んでほしくて、真帆路との距離を少しでも縮めたくて、独学で必死に勉強して磨いた料理の腕。あの日から彼に認めてもらえるか、どうしたら仲良くなれるのかと、そのことばかりずっと考えていたような気がする。
「要らねえって言ったよな?男のくせにチマチマとお菓子なんか焼いて持ってくんなよ。気色ワリィだろ」
真帆路はゴミを見るような目で僕を見下ろすと、偶然近くを通りかかった同級生たちを見つけて、そいつらに向かって、それを放り投げた。
「おー、何だよ、マタか。蒼の奴、凝りもせずにまた真帆路に貢物かよ」
「相変わらず女々しいヤツ。中身クッキー?……いただきっ。ほーんとよくやるわ、こいつってば」
下品な笑い声が、響き渡る。そいつらの手によって、僕が指にちょっとだけ火傷を負いながらラッピングした袋が無慈悲に破かれる。真帆路は「彼らの輪」の中心で、僕に背中を向けたまま、冷たく鼻で笑っていた。今まで一口だって食べてくれたことはない。僕と同じ、家庭環境が複雑だって聞いてから、何度かお弁当を作ってきたこともあったが、こうやって目の前で捨てられるか他人に横流しされて笑いものにされるだけだった。僕の両親も共働きで、自炊することは苦ではなかった僕だ。
こうまで拒否られても、なぜだろう……止めればいいのに、どうしてこんなにも真帆路に対して、僕を認めて貰いたいんだろう?あんな「彼らの輪」の中に入りたかったんだろう?……今日のこの日までは不思議に止めようと僕は思わなかったのだ。今日は貰ってくれるかもしれない、今日は食べてくれるかもしれない。そんな淡い期待ばかりしてたようにも思う。異常だ。これって「執着」って思えるぐらい……。
……あの小学生時代の出会ったばかりの初夏の出来事のように……いつかこの手を掴んで引き上げてくれるかもしれない。
そう思って、僕なりに頑張ってきたんだけれど……。
この日は……下を向き、溢れそうになる涙を堪えながら、僕は心の中で「パキン」と何かが完全に砕け散る音を聞いた。
嫌われているのは知っていた。でも、いつかあの頃の……小学校時代の真帆路に再び会えるんじゃないか。そんな淡い期待に縋りついて気づけば六年。もう限界だった。これ以上あいつの事を考えていたら、僕の心は完全に死んでしまう。
その日の放課後は、僕の心を写し取ったかのような激しい土砂降りの雨が降った。
傘もささず、ずぶ濡れになりながら、僕は足に突き動かされるように地元の「縁切り神社」へと向かった。
不気味なほど静まり返った境内で、拝殿の前に立ちボロボロと涙を流しながら手持ちの小銭を全部賽銭箱に投げ入れた。
「神様、お願いです。高山 真帆路への『この想い』を消して下さい。もう、あいつに執着したくないんだ……!彼がいない世界へ行きたい……!」
ドクン、と心臓が跳ねた。
と、突然カッと視界が異様なほど眩しい白に染まる。
直後、鼓膜を破らんばかりの凄まじい雷鳴が響き、稲妻が境内の大杉を割って僕の身体へと一直線に突き刺さる。
引きちぎられるような激痛と、身体が内側から作り変えられるような奇妙な感覚。息が出来ないほどの衝撃の中、僕の意識は底のない真っ暗な闇へと急速に落ちていった。
遠のく意識の最後で、僕は確かに、真帆路のあの優しかった小学校時代の笑顔を見たような気がした。
(__バイバイ、真帆路。僕、もう君を忘れるよ。君への「執着」から離れたいんだ……もう)




